動かす度に全身が痛んだ。我慢しながら「おはよう」と笑顔で寝返りを打つ。そして部屋の状況を目の当たりにして私は微睡みから一気に引き剥がされた。
 そこには誰もいなかった。テーブルの上のネクタイもシャツも、ハンガーにかけられたスーツも、それを着ていたはずの人間もいなくて、そこにはただぐちゃぐちゃになったシーツと私の血で汚れたタオルが昨晩の情事をありありと思い出させるだけだった。
 ああ、逃げられたんだ。すぐにそう思った。たとえへとへとでもちゃんとお金を受け取ってから眠ればよかったと思った。
 お金は手に入らず、そのうえホテル代はこっちもち。プラマイゼロどころかマイナス。赤字だ。首を締められたり殴られたり蹴られたりしてもじっと耐えた私の昨晩の我慢は一体なんだったんだと泣きたくなった。
 ホテル街から出てあてもなくふらふら歩いていると公園を見つけた。誰もいない、周りに人の気配のしない公園は砂漠の中で見つけたオアシスのようで、私はズタボロな身体に響かないように気をつけて日陰のベンチにそっと腰を下ろした。
「あー……」
 ぼんやりと空を見つめる。視界の端で子どもをつれた女の人が私をみとめてそそくさと帰っていったのが見えた。途端に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。ごめんね。こんな打撲痕だらけの、いかにも訳ありみたいな女なんて迷惑だよね。わかるよ。私に子どもがいたなら絶対に目に入れたくないもん。大事な人には優しい世界だけ見ていて欲しいもんね。
 傷のせいか熱っぽくて頭がぼーっとする。無性に喉が渇いたけどお金はすでに底をついてしまったし、今日を生きるならまたお客探しをしなくちゃならない。でも、こんなぼろぼろの女、誰が買ってくれるんだろう。
 自分がだめすぎてもうどこでもいいから逃げ出したかった。学校も家もお金のことも何もかも放り出して誰もこないどこかへ行けたら楽になれるんだろうか。
「…………もう、いいかなぁ」
「なにが」
 振り返ると男がいた。つい先日、喧嘩といっていいものかわからないけどたしかに揉めた男が少しだけ息を上げてそこに立っていた。
「……名前」
 彼は僅かに目を見開き「なに、それ」と私の体を指さした。
「なにって……ハードSM?」
 自嘲するように半笑いで答えると彼の眉間にぎゅっと深いシワが刻まれる。
「SMよくわかんないけど。そうやって言ってたし、たぶんそうなんじゃない?」
「暴行の間違いだろ。……ほんとになんでもやるんだな、オマエ」
「いっぱい払ってくれるっていうから。でも正直な話、今すっごく後悔してる」
 逃げられた上にもらった連絡先は拒否されてて繋がらないし、全身が痛いし辛いし、考えれば考えるだけ自分がいったい何をやってるのかだんだんわからなくなってきて、どんどん惨めになって死にたくなった。それで、どうせ死ぬんだったら最期くらい好きだったこの男に今まで優しくしてくれた分の恩返しをしてやってもいいかなって、おかしな思考回路でそう思った。
「一虎くん私のこと抱きたいんだっけ。あれまだ有効?」
「…………は?」
「まだ気が変わってないならさ、いいよ。こんなぼろぼろだし、申し訳ないから文字通り出血大サービスってことでお金もいらない。なんでもしてあげるし何されても文句言ったりしないよ」
「何言って、」
「それともやっぱりこんな汚いのじゃだめ?」
 痣だらけだもんねぇ。他人事みたいにそう言ったら腕を掴まれた。そのまま引っ張られて私はどんどん公園から遠ざかる。
「どこ行くの?」
「……家」
「ふうん」
 なんだ躊躇ってたくせに結局するんじゃんって思ったけど、まあなんでもやってくれてなんでもしていいって言ってる女なんか据え膳以外の何物でもないもんなと思い直して素直について行った。もうなんか、この先のこととかどうでもよかった。


「家って、ここ私の家じゃん」
「あたりまえだろ」
 あたりまえなの? 自分の家ではやりたくない的なやつ? もしかして本当に彼女がいたりして。
 一虎くんはポケットから鍵を取りだしてドアを開けた。靴を脱いで私をリビングに連れていくと手を離してソファを顎でしゃくった。
「座ってて」
 ここでするのか。ベッドあるのにな。腰を下ろすとソファがぎしっと軋んだ。
 ぼーっとしていたらいつの間にか戻ってきていた一虎くんが近づいて「目瞑れ」と一言だけ言ったので私は大人しく目を閉じた。キスでもされるのかと思って待っていたら冷たい何かが瞼に当てられただけだった。たぶん、おそらく、これは唇ではない。もっと水分を含んだ何か。たとえば布、みたいな。「なにこれ」拍子抜けしてわかり切ったことを尋ねた。
「消毒。目の上切れてたから。跡になったら困るだろ」
 両目はつぶらなくていいよ、見えねえじゃんと一虎くんは言った。
「キス、しないの」
「しねえ」
「抱かないの」
「抱かねえ」
「なんでもしていいよ?」
「それでもヤらねえ」
「なんでもしてあげるって言ってるんだよ?」
「しつこいなぁ。オレがしないって言ってんだからしないんだよ」
 彼はどうやって見つけてきたのか私の救急箱を開けててきぱきと処置を行っていった。切り傷には消毒液と脱脂綿、打撲には湿布。手際がいい。
「慣れてるね」
「別に。普通だろ」
「手当てとかするようには見えないのに」
「オレだって自分の怪我だったら消毒なんてせずにほっとくわ」
 でも、女はあんま傷つくんないほうがいいんだろ。そう言って彼は指先を撫でた。優しい手つきに泣きそうになる。
「ははっ、そんな大切にしてもらわなくてもいいよ。どうせ、」
「オマエさ、もうこういうのやめろよ。金ならオレがどうにでもしてやるから」
「なんで。そんなの一虎くんには関係ないじゃん」
「関係はある」
 彼が私の頬に手を伸ばした。痛そ、とだけ呟いて絆創膏を貼り付けた。
「……ごめん。言い過ぎた。オマエ、自分の家なのに出てくし、謝んなきゃだめだって思ってずっと待ってたのにいつまで経っても帰ってくる気配なくて心配して探しに行った」
 「悪かった」と一虎くんはまっすぐ私を見た。瞳を通して私の中の柔らかいところを見られているような気がした。
「綺麗だよ。オマエは綺麗。オレなんかと違ってちゃんと綺麗だから、だから、汚いとかもう駄目だとか、思わなくていいんだって」
 私の目からころんと音をたてるように涙が落ちた。それを一虎くんが仕方なさそうに笑う。慈しむようなその表情が胸を打って、涙がどんどん溢れ出してきて、泣いてるのをみられないように顔を覆った。
 ああそっか。私は、わたしは、ずっとそう言って欲しかったのか。
「オレ、オマエのこと好き。気が済むまでここにいるからたくさん泣いて。そんですっきりしたら、少しでいいからオレとのこと考えて」
 一虎くんが隣に腰かけて私に少しだけもたれかかった。体温が温かかった。人って、ちゃんと温かいんだと思った。

あしたの底をかき混ぜる

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