次に一虎くんが家にやってきたのは一緒に水族館へ出かけた日から数週間経った後だった。
「珍しいね」
「なにが」
「その、連絡なしで訪ねてくるの」
「用事あった?」
「ううん。なかったけど……」
 一虎くんの様子が今日はなんだかおかしかった。いつもならもっと猫が擦り寄ってくるみたいな、気ままな中に可愛げが見え隠れするみたいな、そんな感じなのに。
 彼がつれてきたピリついた雰囲気がゆっくりとこの部屋に伝搬していくのがわかった。
「の、飲み物用意する」
「うん。ありがと」
 昨夜の客にものすごくがっつかれたせいで痛む腰を我慢してパタパタと急いでキッチンへと向かう。
「お茶でいい?」
「なんでもいいよ」
 わかったとだけ言って冷たい麦茶をコップにあけ、一虎くんの座るソファの前のローテーブルに置いた。そのまま隣に腰掛ける。
「……ねえ、なんかあった?」
「なんで?」
「なんか今日、ちょっと雰囲気違うから」
「怖い?」
「怖くはないけどいつもはちゃんと連絡してくれるのにどうしたのかなって、」
 その言葉を最後まで続けることはできなかった。一虎くんが遮ったからだ。
「オマエさぁ、ウってんの」
 ウってる。うってる。売っている。何を? ――身体を。
 その瞬間、心臓がきゅっと縮こまって全身が冷たくなった。急に出てきた嫌な汗が背中を伝っていく。
 どうしよう。誤魔化す? いやたぶん無理。ばれてる。そうでもなくちゃこんなこと訊かないでしょ。でもなんで? スマホの通知は見られないように気をつけてたし、ちゃんとシャワーも浴びてたし……。なにより私たちはそういう関係じゃない。裸をみられたっていうのも考えられない。
 何か言おうと逡巡した合間を潰すかのように彼は続けた。
「仕事終わってすげぇ疲れたから近道しようとしたらさ、オマエが中年男とホテル入ってくところ見ちゃったんだよオレ」
「な、んで」
「なんでじゃなくてさ。質問に答えてってば。どうなの? やってンの? やってないの?」
「……」
 私が答えないでいると、だんまりかよと吐き捨てるように彼が言った。
「まあいっか。嘘はつかなかったし」
「どういう、こと……」
「一応訊いてみたけど、オレもう全部知ってるから。ホテルから出てきたとこ引きずってちょっと殴って脅してやったら、すぐになっさけない面晒して、金払ってオマエと寝たって泣き始めたんだよあの男」
 笑顔なのに怖かった。初めてみる顔をしていた。ちょっと危ない雰囲気はあるなって思ってたけど、いつも優しいからって油断してた。
「なんでオレには声掛けてくれなかったの」
 彼がこちらに近づいたから、それを避けようとして後ろへ身体を引いた。ソファの上で覆い被さるように一虎くんは小さく震える私のすぐ傍に手をついた。髪が重力に従っておりてくる。暗くて、何を考えているのかわからなくて、どうしようもなく怖かった。
「だ、だって、一虎くんお金ないんでしょ」
 私は高いんだよって、努めて明るくふざけたように言った。この変な空気をどうにかしたかったから。
「一虎くんお腹すいたとかお風呂貸してっていってよく家にくるじゃん。ご飯食べてないのかなとか、お風呂ついてない部屋なのかなって、色々思うでしょ。私高いし、一虎くんには無理だって思って」
 矢継ぎ早に私は喋った。
 お金がないのかなって思ってたのは本当。でも、たとえお金があったとしても私は彼に持ちかけるつもりはなかった。金銭のやり取りをして繋がってしまったら、いよいよ普通の関係にはなれなくなってしまう。一虎くんが、好きな人じゃなくてただのお客さんになってしまう。
「いくら」
 低い声で短く訊かれた。促されるまま答えると、「ほら」一虎くんがポケットから紙封筒を荒く放った。それはテーブルに飛んでグシャッと音を立てた。
「……なに、これ」
「なにって、見りゃわかんだろ。金」
「いらないよ」
「心配すんなって。ちゃんと綺麗なやつだから。オレが真面目に働いて稼いだやつ。今日給料日」
 そして一虎くんはなんてことないように「抜けば」と言い放った。
 今度は私が訊き返す番だった。
「10万なんだろ?払うからさ、そっから10枚抜いてよ」
「そ、そしたら一虎くんのお金なくなるよ」
「馬鹿にしてんの? そんな額一気になくなっても暮らしてけるくらいの貯蓄はあるっつーの」
 「ね? 相手してよ」と彼はにこにこ笑った。人好きのする笑顔なのに、やっぱり恐ろしかった。
「……い、や」
「あ?」
 ドスの効いた声に身体が強ばった。
「なんて?」
「だ、から……いや、です……」
「は? なにそれ。客だよ、オレ」
「でも、」
「だってもでももねえだろ。そっちはお仕事。オレは客。金はちゃんとあるんだからさ、そっからやることなんて決まってるじゃん」
「なんで」
「むしろこっちがなんで? あ、ホテルじゃねえから? やっぱり家は嫌? じゃあ上乗せしてやるからさ、それでどうにかしてよ。2枚……は少ない? いいや、じゃあ4枚やるよ。はいどうぞ」
 大盤振る舞いだよな、嬉しいだろって、彼は笑った。私はいよいよ溢れてきた涙をそのままにして必死にぶんぶん首を振る。再度いやだと呟くと上からため息が振ってきた。
「何が嫌なの? なにが気に入らねえんだよ。オレのこと好きなんじゃねえの? オレがダメなやつだから? 汚いことばっかりやってきたから? いいじゃん。オマエもそうだろ。好きでもなんでもねえちょっと脅したらすぐに泣くくだらねえ男に簡単に股開いてさ、はした金もらって喜んで。むしろ役得だろ。オレ、金払いもいいし顔もいいしお得でしかなくね?」
 彼が鼻で笑った。するりと手がシャツの中に入ってきた。
「もう十分汚れてるくせに今さらカマトトぶんなよな」
 そのとき、たしかに私の全身の血が一気に熱くなった。感じたことの無い感情になった。たぶん、本気で怒るってこういうことだ。
 バシッと乾いた音がして、気がついた時にはもう振りかぶった右手がじんじんと痛んでいた。
 叩いたこっちが痛がってるというのに叩かれた本人はというと激昂するどころか一つの文句も言わず私に覆い被さった姿勢のままだった。私の一撃など痛くも痒くも無いというのだろうか。表情を変えず見下ろしてくるその様子にどんどん腹が立ってきて、小さく舌打ちをして思いきり突き飛ばした。内面に渦巻く黒々とした感情が苦しくて、どうにかなってしまいそうだ。
「……赤の他人を叩いたの初めて」
 絞り出すようにその言葉を吐き出したとき、ようやく一虎くんの目に感情の色がみえたような気がした。チクリと罪悪感が胸を刺す。そんな顔しないでよ。先に傷ついたのはこっちなんだから。……違う。わかってる。先に傷ついたからって誰かを傷つけていい理由にはならないのに。
「…………やり返さないんだね」
 いっそのことやり返してくれたらよかった。私の客を脅したみたいにしてくれたならもっと彼のことをちゃんと嫌いになれた。嫌いになって、さよならして、自分が暴力を振るったことも有耶無耶にできた。なのに、一虎くんは黙ったまま何もしなかった。
「出てく」
 私はそこに置いてあったスマホを引っ掴んで立ち上がった。自分の家だってことはもうすっかり忘れていて、とにかくここにいたくなくて、勢いだけで家から飛び出した。
 彼は追ってこなかった。よかったと思う反面、どこか残念な気持ちになった。自分で勝手に出ていった上に追いかけてこられてもどうするわけでもないのに、期待ばかりしているそんな自分に嫌気がさした。

痛覚はいつからだか鈍い

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