ストレッチをしているとようやく歯磨きを終えたらしい一虎くんが部屋に戻ってきた。彼はベッドの端に腰掛けたかと思うと、そのまま床で柔軟体操を続ける私を無言でじっと見下ろした。
「な、なに……?」
「んー」
「ずっと見られてるとやりにくいんだけど……」
「べつになんもねえんだけどさぁ」
 ちょいちょいと彼が手招きするので私はストレッチを中断して呼ばれるがままベッドに上がりぺたぺたと這い寄った。そんな私の様子に彼は満足そうに目を細めると、まるで頭を持つかのように手のひらで私の両頬を包むとぐにぐにと力を強めたり弱めたりするのを繰り返した。おかしなくらいご機嫌だ。完全におもしろがっているのがわかった。
「だからほんとになに……」
「べっつにー」
「そんなわけないじゃん。どうしたの?」
「んー」
 一虎くんはまたよくわからない言葉を発した。これ実は鳴き声だったっていうオチは……ないか、さすがに。
「私まだストレッチの続きが残ってるんだけど」
 何の用もないならストレッチを終えてさっさと寝たい。明日も朝から授業あるし。そう思い彼の手から逃げ出すように身を捩るとそれを許さないとばかりに両頬を押さえる手の力がグッと一気に強まった。
「だからどうしたのって、」
 再度視線を向けると思っていたよりもずっと近くに一虎くんの顔があって私は息を呑んだ。じわじわと顔に熱が集まっていくのを感じる。すると目の前で彼が綺麗ににこりと微笑んだ。どこか嫌な予感がした。
「一虎くん……?」
「なに」
「だめだよ」
「なにが」
「なにがって……」
 私の耳朶を彼の指がすりすりと撫で上げる。こっち見て、というので視線を上げてみたけど上げたら上げたで顔を見られているという恥ずかしさに耐えられなくなってきて私はまたすぐに逸らした。そんな様子を彼がおもしろそうにくつくつと笑う。
 一虎くんと付き合うようになってからはや数週間が経った。今まで友達以上恋人未満であったもののもはや付き合ってるのとほとんど変わらない生活をしてきていたせいかようやく恋人という関係に落ち着いたといっても変化という変化はスキンシップが以前より少しだけ増えたことくらいで総合的にみると私たちの生活はあまり変わらなかった。だからこそ私はちょっとだけそういういわゆる恋人らしいことにドキドキしていたわけだけど、こんな流れもへったくれもないドキドキはまたべつの話だ。ほんとこの人よくわかんないな……。さっきまでのやり取りのどこにスイッチが入る要素があったの……。
「一虎くん」
「オレ、ちゃんと言ってもらわないとわかんねえなぁ」
 ゆっくり近づいてくる一虎くんの顔に手をあててぐいぐい押し返す。いつもならここらで素直に引き下がるところだけど今日はどうやらこれくらいで止まるつもりはないらしい。困った。
「…………そんなに聞くなら言うけど、一虎くん噛もうとしてるでしょ。絶対だめだからね。明日学校あるから」
 千冬さんの自宅での一件を私はまだ忘れていない。翌朝も消えずに首筋に残っていたいかにも噛まれましたという痕のせいで、蒸し暑いこと極まりない季節だっていうのに首を隠せるような服をわざわざクローゼットの奥から引っ張り出してこなきゃいけない羽目になったのだ。
「そんな顔してもだめだから。噛むのは絶対なし」
「ふーん。噛むのはだめ……」
「さっきから何度もそう言ってるじゃん。ほら、離して」
「じゃあチューはいいんだ。だめだって言わなかったもんな」
「は? 何言って、」
 一虎くんは私が突然のことに呆気に取られている隙に顔を押さえていた両手をぎゅっとまとめて掴まえるとそっと私と唇を合わせた。「目、閉じねえの」啄むようなそれの合間に一虎くんがぼそりと呟いて、はっと我に返った私は慌てて言われるがままに瞼を下ろす。「ははっ、流されてる」普段私よりも子どもっぽいくせに、こういうときだけ年上ヅラするの本当にずるい。いつも余裕がないのは私ばかりだ。
「こんだけでそんなぐずぐずになってて大丈夫?」
 涙目になって肩で息をする私を一虎くんが笑った。私が呼吸すると彼はまたキスを再開する。わざわざ時間をとって息継ぎをさせてくれているんだと気づくと自分の不慣れさが情けなくなった。
「名前」
「な、に」
「名前、おめでとうって言って」
「ど、して」
「オレ今日誕生日だったから」
「は!? わっ、」
「あっ、ぶな……!」
 びっくりしてとりあえず彼から距離を取ろうとすると勢い余ってベッドから落ちそうになった。すんでのところで一虎くんに掴まえてもらって事なきを得たけど。
「オマエオレのこと殺す気……? 心臓止まりそうになったわ」
「ご、ごめん。ありがとう」
 グッと引っ張られて元の体勢に戻る。ここにいたのが一虎くんでよかった。私だったら落っこちそうな人を絶対に掴まえられなかっただろう。バクバク鳴る心臓をそっと落ち着かせる。
「そんな驚くこと?」
「だって誕生日って」
「そうだけど。でもそれだけじゃん。こんな歳にもなっていちいち気にするようなモンでもねえし。言ってなかったってこと今日初めて知ったわ」
「前もって千冬さんにでも聞いておけばよかった……」
「オマエさぁ、だから千冬と連絡取るなって言ってんだろ」
「千冬さんは知ってるんでしょ? 一虎くんの誕生日」
「オイ聞けよ」
 一虎くんは深く溜息をつくと「うん」と頷いた。
「プレゼントもらったし」
「何」
「バイク」
「………………」
「拗ねんなって。オマエにはべつにそういうの求めてねえんだから」
 「それより続きしよ」と一虎くんが目を伏せて唇を寄せる。そのあからさまなご機嫌取りに私は顔を背けて緩まっていた拘束から逃れた。ベッドから下りてショルダーバッグから財布を取り出し、ハンガーにかけていたパーカーを羽織る。キスを拒否された一虎くんはベッドの上に座ったまま瞬きした。
「え、なに? どうした?」
「コンビニ行ってくる」
「ハァ? こんな時間に? 明日でいいじゃん」
「明日じゃだめ。今日じゃないと」
「さっきストレッチするだとかもう寝るだとか言ってなかったっけ」
「いいの。一虎くんはお留守番してて」
「いや危ねえから明日にしろって。もう遅いし、朝早いんだろ」
「…………」
 正論パンチが炸裂した。間違ったことは何一つ言っていないのでぐうの音もでなかった。悔しい。なんでだろう。今夜はいつもとなんだか立場が逆転している。私は周りと比べて大人なほうだと自負しているけどやっぱりまだ子どものままなんだと、それをまざまざと思い知らされるような気がした。
「なに? そんなに祝いたかった?」
「…………」
「フォローしてるわけでもなんでもなくてさ、オレはほんとにいいんだよ」
「…………」
「……名前?」
「……さい……」
「え?」
「うるさいうるさいうるさい! 行くったら行く!」
 もういいもん。ガキくさくていい。だって私は一虎くんと比べたらまだまだ子どもだから。しょうがないじゃん。年齢の壁は飛び越えられないんだから。でも私だってちゃんとお祝いしたかったのに。こんなバタバタじゃなくて。
 不貞腐れた私は立ち上がり玄関へと急いだ。



「なんでついてきてるの」
「ついてくるに決まってんだろ。マジで一人で行くつもりだったわけ? そんなカッコで? 普通に危ねえわ」
「大丈夫だよ。一虎くんがいないとき私よく一人で夜出歩いてたし」
「オマエさぁ、ほんと気をつけろよ……」
「だって便利なんだもん」
 ちょっと歩けばすぐにコンビニに行ける今は素直にいい時代だと思う。時間帯によって少し差はあれど大体の物は買うことができるので私は非常に重宝していた。
 明々と照る蛍光灯と軽快な音楽が私たちを出迎える。私は後ろを歩く一虎くんの手を掴むと一直線にスイーツコーナーまで引っ張った。本当は一人でくるつもりだったんだけど着いてきてしまったからには仕方がない。サプライズはもう無理だけど、好みを聞けるというメリットが増えたということで手を打とうじゃない。
「食べたいの取って」
「…………」
「ただしケーキの中で」
 一虎くんは困惑した表情のままショートケーキがツーピース入ったパックを手に取った。受け取ってレジへと持って行く。袋の中に傾かないようにそれを入れた店員さんはどこか眠たそうな目をしたまま「あざっしたー」というなんとも気の抜けた言葉で私たちを見送っていた。
「それ食うの?」
「食べる。一虎くんは?」
「オレも食えるけど……。オマエいいの? こんな時間に。……いや、なんでもないデス」
 ジトっと見ると一虎くんは気まずそうに目を逸らした。その様子がおもしろくて私はけらけら笑った。行きとは違い、帰りは隣り合って歩く。
「ついてきてくれてありがとう」
「べつに」
 素直にどういたしましてと言えないところが愛おしくて手をぎゅっと握った。



「誕生日おめでとう」
「ありがと」
「付き合ってくれてありがとう。困らせちゃってごめん。ただこれがやりたかっただけ」
 皿を2枚用意し、そこにパックのケーキを移動させる。フォークはコンビニでもらったのを使うことにして、せっかくだからとコーヒーも淹れた。こんな時間にカフェインを摂取したら眠れなくなりそうだけどもうここまできたら明日なんかどうにでもなれって感じだ。
「一虎くんはいいって言ったけど、でも、お祝いしないのってなんか寂しいし、それに、」
 「私彼女だもん」蚊の鳴くような声が出た。うわどうせならもっとはっきり言えばよかったと内心後悔しながら一虎くんのほうを見ると彼は目をまんまるにして固まっていた。笑われるか揶揄われるかまあ何かしらの反応はあるとは思っていたけどまさかそんな顔をされるとは考えもしなかったので、時間差で自分の言ったことの恥ずかしさが込み上げてくる。私は仕切り直すように「生まれてきてくれてありがとう。さっ、食べよ食べよ」と早口で言うと急いで両手を合わせた。
「いただきま、うぐっ」
 上半身に衝撃がくる。なんだなんだ。この部屋には私と彼しかいないのでこの衝撃の正体はもちろん一虎くんだけども理由がよくわからない。まあ二人きりのときなら抱きつかれても悪い気はしないので私は大人しくフォークを置いた。
「どうしたの?」
 耳元で一虎くんが「あー、クソ……」とぼやいたような気がしたけどはっきりとは聞こえなかったので実際のところはどうだったのかはわからない。
「眠い?」
 ふるふると首を横に振られる。
「食べるのやめる? 明日にする?」
 彼は黙ったままもう一度首を振った。
「どうしたの? なんかやだった?」
「…………違えよ。ちゃんと嬉しかった」
「そっか。よかった」
「ありがと名前」
「どういたしまして」
 少し沈黙が続いてからぼそりと呟かれた「さっきの続きしたい」という言葉に今度はこちらが固まる番だった。
「え、ケーキは?」
「食う。食うけど、その前にちょっとだけ」
「…………」
「だめ?」
「だ、めじゃないけど……」
 「明日早いんだけど」とか「もう十分したじゃん」とか「スイッチどこで入ってるの?」とか、言おうと思えばできたけどさすがにここで雰囲気をぶち壊すほどの猛者ではなかった。それにいわゆる恋人らしいやり取りに少しドキドキしていたのもたしかだった。
「……噛まない、なら」
 床に頭をぶつけないようにゆっくりと倒される。下ろした一虎くんの髪がまるでカーテンみたいに顔にかかったけれどいつかのように怖いとは感じなかった。
 テーブルの上に放置されたままのケーキに冷蔵庫に入れとけばよかったなあと思いながらも、まあどうにかなるだろうと私は彼の首にゆっくりと腕を回し目を閉じた。

いのちのいちばんあまいところ

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