松野さんによってゆっくり閉められた玄関のドアの音がはっきりと聞き取れるほど部屋の中は静かだった。
 息を整え終えた彼は床に座りこむ私をただ見下ろしていた。いったい何を考えているのかその目から読み取ることはできなかった。
「たくさん捜した」
「……ごめんなさい」
「今日ここに来るまでもいろんなとこまわってた」
「ごめん、なさい……」
「マジでどこ捜しても見つかんねえから何かトラブルにでも巻き込まれたんじゃねえかって思って心配した」
「一虎くんごめ、」
「オレから逃げてた間、オレのこと忘れられて楽しかった? オレのことなんか放って他の男のところにでも転がり込んでたわけ?」
 ぽつりぽつりと呟きながら近づいてきた一虎くんにその瞬間グイッと首を掴まれて床に押し付けられた。
「そのうえよりにもよって千冬のところにきやがって。アイツはオマエにとっていいやつだった? アイツはオレよりもオマエに優しくしてくれた? あんなにオレのこと好きだって言ってたくせに。もうオレはいらねえの? 用済み? なあ、なんとか言えよ」
 彼が言葉を零す度に私の首を締めつける手の力の強さは増していく。でも一虎くんは自分のことなのにそれに気がついてないみたいだった。
「なんでなにも言わねえの。全部ほんとのことだから? だから何も言えねえの? なんで全部受け入れてんだよ。引っ叩くなりなんなりやりようはいっぱいあるだろうが。オマエこのまま殺されるかもとか思わねえの?」
「…………か、ずとら、く、」
「なあ、抵抗しろよ。名前、名前お願い。ちゃんと抵抗して」
 彼は正直で嘘つきだった。抵抗して欲しいと思っているくせして、べつのどこかでは私が拒絶するのを怖がっていた。
 私が拒めばこう見えて中身の脆い彼はきっと簡単に傷つくだろう。それはあまりにかわいそうだったから、私はか細い呼吸の合間に紛れ込ませるようにして言葉を発した。
「いい、よ」
 一虎くんの手のひらで気管が圧迫されているせいか掠れていて我ながらあんまり可愛くない声が出た。
「……なに……されて、も、ゆるせる……よ」
 好きだから。一虎くんになら何されてもいいって思えるくらい、あなたに恩を感じているから。
「どんな、こと……も、わた、しが、ゆるして……あげ、る」
 頭がぼうっとして生理的な涙が目の端から溢れたとき、一虎くんは私の状態にやっと気がついたように手を離した。喉が解放され酸素が肺に一気に広がった苦しさで私は身体をくの字に折り曲げてコホコホと咳をした。
「こども、じみたことして、ごめん、ね」
 私が冷静じゃなかった。私の家に女の子を連れ込むよりも自分の家に連れ込んだほうが簡単だしめんどくさくならずに済むってことなんかちゃんと筋道を立てて考えればわかったことだったのに。実際、私の元父親もそうしていたし。
「わたし、かずとらくんのこと、きらいじゃないよ。めんどくさいことしてごめんね」
 そう言ったら一虎くんはトゲが刺さったみたいな表情を浮かべた。それから、床に転がる私に依然として馬乗りになりながらも、頭を私のお腹にくっつけた。その髪をゆっくり撫でては梳いてあげる。最初は身体を強ばらせていた一虎くんだったけど、4回目か5回目くらいで力を抜いた。
「…………オマエ、なんで怒らねえの」
「怒らないよ。なんでもゆるしてあげるって言ったでしょ。一虎くん、私に怒って欲しかったの?」
 そんなまさかと思いながら尋ねてみると彼は小さく頷いた。
「何も言われないよりかは、無関心じゃないってわかるから、そっちのほうがよっぽどいい」
 「ごめん。起きられる?」と一虎くんは私の背中に手をやって起き上がらせるとそのまま抱きしめた。
「……ほんとに、アイツとはなんでもねえから。なんか言ってたけど全部嘘だから」
 アイツって誰だろう。そう考えて、すぐに思い出した。あの女の子か。そういえばその子のことはまだ解決してなかったんだっけ。
「アイツは昔ちょっと遊んでたっつうか遊ばれてたっつうか、たまに飲みに行ったりしてただけ。オマエといるようになってからはなんにもなかったんだけどこの前千冬と飲みに行った帰りにたまたま会ってさ、好きなやついるから無理だって言っても遊べってしつこかったからオマエのこと見たら諦めるだろって思って」
 「そんでオマエの家行った」と、私の肩口に顔をうずめた一虎くんはそう言った。
「名前が家に帰るの遅くなること忘れてて、連れ込む気はほんとになかった。ごめん」
 「ゆるして」という声がくぐもって聞こえた。何かを誤魔化しているようにはみえなかった。本当にそれだけだったらしい。うん、許すよ。許すけど、その女の子の話で思い出したことをこの際聞いておかなくちゃ。
「松野さんのことはどうして言ってくれなかったの?」
「えっ」
「一虎くん、私に隠してたでしょう」
 まあ無意識のうちにか結構話に出してたから完璧には隠せていなかったけど。でもあれだけ露骨に隠していますって顔をされているとさすがの私でもちょっと傷つくものがあった。
「それは……」
「言って」
「……」
「いいから言って」
「………………オマエが、千冬のこと好きになったら困る、から。アイツしっかりしてるし面倒見いいし女心わかってるし、オレよりかはまだまだだけど顔だってべつに悪くねえし」
「私が一虎くんの顔がいいから好きだって言ってると思ってる?」
「だってオマエ、オレの顔好きだろ」
「うん。好き。でもそれはプラスアルファだよ。大事なのはそこだけじゃない」
「じゃあどこだよ」
 彼の背中に手を回して緩やかに少しだけ力を込めた。
「私に優しくしてくれるところとか、私を心配してくれるところとか、あと実は可愛げがあるところ。それから、どこかに行ったときには手を繋いで車道側を歩いてくれるところと、家にくる時はちゃんと前もって連絡してくれるところ」
 あとそれと、と言ったところで一虎くんが「もういい。もういいって」と首を振ったので残念ながら私による一虎くんの好きなところ発表会はお開きとなってしまった。
「オレのこと、全部ゆるしてくれんの」
「うん。何をされてもゆるすよ」
「……あっそ。ははっ、オマエほんとオレのこと好きな」
「うん。付き合う?」
「うん」
「………………え、」
 一虎くんの体温が私の肩から離れていった。すぐ近くの距離で目が合う。
「まだ全然オレのこと知らないだろうし無責任だって自分でも思ってるけど、付き合って。オレと、ちゃんと名前のついた関係でいて」
「わ、私、可愛げないよ」
「オレがあるからいいよ」
「風邪ひいたりしても、あんまり自分から連絡しないよ」
「オレがするからいい」
「迷惑かける、かも、しれないし」
「…………なにオマエ、付き合いたくねえの?」
 首を必死に横に振った。そういうわけじゃない。そういうわけじゃないけど、でも、思ってたのと違うってなったら。
「好きな女にかけられるなら迷惑でも苦労でも心配でも嬉しいもんなんだよ。むしろオマエ言わなさすぎ。我儘の一つくらい言え」
 私を抱きしめる一虎くんの腕が震えていた。
「緊張してる……?」
「うるせえな。こっちはここ何年も恋愛なんかしてねえんだよ」
 拗ねたような言い方が子どもっぽくてかわいかった。やっぱりあるね、可愛げ。
 息を深く吸ってから、じゃあ我儘言うけど、と前置きする。
「私のこと、ちゃんと見てて。きらいにならないで」
 一虎くんが目を丸くしてぱちりと瞬かせると、「そんなの我儘のうちにも入んねえな」と鼻で笑った。
「一虎くん、私のこと好き?」
「うん。だからオレと付き合って」
「…………うん」
「あっ、オイ泣くな。泣くなよ。なんで泣くんだよ。オマエが泣くとオレどうしていいかわかんねえんだって」
「私もわかんないもん……一虎くんどうにかして……」
「ハァ?」
 一虎くんは困ったように頭をかいて、それから何かを決めたかのように小さく「よし」と呟いた。その仕草になんとなく次の展開がわかってしまって今度はこっちが慌てる。
「ちょ、ちょっと待って。一虎くんここ人の家だから」
「なんでもゆるしてくれるんだろ」
「待って近い。涙引っ込んだから。ね、もう大丈夫だから」
「オレのことちゃんとゆるせよ」
「私がゆるしても松野さんがゆるすかどうかはまたべつの、んっ……」
 一虎くんは私にキスすると「しょっぱ」と笑って、それから私の顔が赤くなっていることについてからかった。
「なんだよ」
「それ、初めて」
「は?」
「私、まだキスだけは誰ともしたことなかったから、一虎くんが初めてだよ」
「オマエ……そういうのはもっと初めっからちゃんと言えよ……」
 ちょっとした仕返しのつもりだったけど効果は抜群だったようだ。
「もう一回は……アリマスカ」
「ふふっ、差し上げましょう」
 一虎くんの目じりが優しく歪んだ。私はそれを見てから促されるようにして目を閉じた。
 あのね、私、一虎くんの好きなところまだまだあるよ。そのなかでもとびきり好きなのはね、私の心の柔らかいところをちゃんとみてくれるところ。その眼差しが好き。
 もう一回って言ったくせに何度かキスした一虎くんは「あっ、やべ」と突然思い出したかのように慌てだした。
 千冬に連絡しねえと、と一虎くんが携帯でメッセージを送ったらすぐに松野さんは帰ってきた。連絡がくるまで本当にずっと外で待っていてくれたらしい。暑そうだった。
 「遅せぇよ」と一虎くんに文句を言いながら冷蔵庫に飲み物を入れていた松野さんが不意にこちらを見て「よかったね」と笑った。

玻璃と玲瓏

prev | next
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -