私は今とある一室の前に立っていた。苗字でも羽宮でもない表札がかかっている。それが指すことはつまり、ここは私の部屋でも一虎くんが暮らしている家でもないということで、どうしてこの部屋にたどり着いたのかといえば、それはただ単純に一虎くんの後をつけたからだ。つけたと言うと聞こえが悪いのでここは着いていったと言ったほうがいいかもしれない。
 ホテルで一晩を過ごした後、結局私はそこから数日間家に帰らなかった。連絡を取るどころか携帯の電源すら入れていないのではっきりと断言できないけどどうしてだか一虎くんが待っているような気がして、それで帰るに帰れなかったのだ。ベッドの上で、もう少し落ち着いたら帰ろうと決意するのを何度か繰り返して、ようやく気持ちの整理がついたので自分のアパートに戻ってきたところ、ちょうど階段あたりで一虎くんが私の部屋から出てきたのが見えた。潜入モノの映画さながら慌てて隠れたのでどうやら私が帰ってきたのには気づかなかったらしい。そのままやり過ごして家に戻ってしまえばよかったのにどこかフラフラしている一虎くんが心配になってそっと後ろから見守っていたら彼はどんどん歩いていってべつのアパートに近づくとそのままこの部屋に入っていった。好奇心から表札を見てしまったことを後悔したのは言うまでもない。そこには一虎くんがよく口に出す、そして一虎くんにたびたび電話をかけてくる相手と一緒の苗字が掲げられていた。とまあ、事の経緯はこんな感じだ。おかげでやっとつけた気持ちの整理をまた始めなくちゃならなかった。
「アウトだろうな……これ絶対アウトローだろうな……」
 インターフォンの前で突っ立ったまま時間だけが無意味に過ぎていく。
 尻込みしているわけではない。ここまできてしまった今、何もせずに帰るなんていう選択肢ははなから頭になかった。かといってべつにとっちめてやろうとかごねてやろうとかそんな気持ちも全くなかった。むしろ私は彼女に謝りにきたのだ。
 そりゃ一虎くんがこの部屋を訪れたという事実は正直に言えばだいぶショックだったけど、でもよくよく考えてみれば私たちはべつに付き合ってなかった。私の家に連れてくるのはさすがにどうなのとは思うけど、それを浮気だなんだと傷ついて咎める権利は恋人でもなんでもない私にはない。他に女がいるなんて最初からなんとなく思っていたことだったし、それが本当に現実化しただけ。そう考えれば不思議と気持ちはすぐに落ち着いた。
 私にとってなによりも大切なのは一虎くんだから、彼の幸せがここにあるのなら私はそれを応援するべきだ。あの日情けないことに私が泣いてしまったせいで残された二人は最悪の雰囲気になってしまったことだろうし、その後片付けは本人がやらなくちゃ。
「……だいじょうぶ。自分の問題は自分で解決しないと」
 元気づけるように小さく呟いてから、えいやっ、と気合いを込めてインターフォンを押した。ピンポーンという軽快な音声が中から聞こえたかと思えばすぐパタパタ足音がして玄関のドアが開いた。
「はい」
 出てきたのは黒髪の男の人だった。あれくらいの歳の女の子を育てているにしてはどうみたって若すぎるからお兄さんか弟さんだろうか。冷や汗が背中を伝っていく。家族の前で修羅場だけは絶対に避けなくてはいけない。そうじゃないと彼女の一生の傷になってしまう。これが理由で一虎くんと別れたとかになったらほんともう謝る手段が思いつかない。
「あの、私苗字名前という者なんですが」
「あ」
「え?」
「もしかして一虎君の?」
「えっと……」
「ああすみません。オレ一虎君の同僚っていうか、雇い主っていうか。一緒のところで働いてて」
「そう、なんですか」
「なんか用でした?」
「あの、松野千冬さんにお会いしたいんですが」
「はい。それでどうかしたんですか?」
「えっと、松野千冬さんに謝らないとだめなことがあって、それで彼女はご在宅でしょうかってことをお聞きしたくてお尋ねしたんですけど……」
 話が全く通じないことに一人困惑していると目の前の男の人が「えっ、彼女?」と目をぱちぱちさせた。なんだろうと思って目線をあげれば人差し指を上げた彼が「オレですけど」と自分を指さしていた。
「オレ、松野千冬です」
 「はじめまして。こんにちは」そんな溌剌とした明るい笑顔とは反対に私はぎこちなく口角を上げて「こ、こんにちは……」と返した。


 「立ち話もなんだし、どうぞ」と通された先は物の少ない至ってシンプルな部屋だった。
「一人暮らしされてるんですか?」
「うん」
 彼女改め彼、松野千冬さんは「ちょっとそこ座ってて」と私に指さして、キッチンへと向かっていった。
「今コーヒーしかなくてさ、苗字さん飲める?」
 その言葉とともにカチャカチャとグラスを用意する音が聞こえてきた。
「あっ、お構いなく」
「え、コーヒー苦手?」
「いや飲めますけど……」
「じゃあせっかくだし飲んでいってよ。外蒸し暑かったでしょ」
「すみません……」
「いいよいいよ」
 ほどなくしてキッチンから戻ってきた彼は、テーブルの上にアイスコーヒーがなみなみと注がれたグラスとガムシロップをいくつか置いた。天板に触れた振動で側面からつうと雫が伝っていった。
 私がいただきますとそれに口をつけると、よっこらせと言って松野さんも床に座わった。
「それでさ、オレのところに来たのって、一虎君が関係してたりする?」
「グッ」
「じゃあもしかして、飲み屋の帰りに一虎君が女の子に絡まれてたことも関係してる?」
「ゴホッゲホッ」
 あまりに唐突すぎるそれにびっくりした拍子に、飲み込んだコーヒーが変なところに入っていって、私は涙目でしばらくの間噎せた。
「あっ、やっぱり?」
「な、なぜそれを……」
「いや一虎君が」
 松野さんはここ数日間の一虎くんについて教えてくれた。
 私が逃げ出したあの日、やっぱり彼は家で私の帰りをずっと待っていたらしい。ちょっと経ったら戻ってくるだろうと思っていたのに私がホテル生活を始めてしまったものだからそのままずるずると帰るに帰れなくなってしまったそうだ。
「全然帰ってこないって、一虎君すげぇ捜してたよ。あんなに嫌がってたくせにオレに写真まで見せてさ」
「……」
「帰るつもりねぇの?」
「帰ろうとは、思ってるんですけど……。合わせる顔がなくて」
「あの人、ちゃんと苗字さんのこと心配してたよ。どんな顔でもいいからとりあえず会ってやったらいいんじゃない?」
 マジでここ数日まるで使いもんにならなかったんだから、と軽く笑いながら松野さんもコーヒーのグラスに手を伸ばした。
「オレ初対面だけどさ、一虎君が言ってたことなんかわかる気するな」
「一虎くんなんて言ってたんですか?」
「ナイショ。オレはべつに言ってもいいんだけど、言ったら一虎君絶対へそ曲げてややこしくなるから。聞きたかったらあの人に聞いて」
 短くスマホのバイブ音がして松野さんは携帯を手に取り、そして画面を見るだけ見てすぐにそれを元の場所に戻した。
「人生の先輩って言うほど歳離れてないだろうし、他人の生き方に偉そうに口出せるほど褒められたことしてきてねえし、老害の真似事なんざごめんだけどさ、人の関係って頼って頼られて助けて助けられての繰り返しなんじゃねえのかなってオレは思うんだけど」
 「つまりはさ、どっちか一方だけじゃなくて、お互いのバランスが大事なんじゃねえの?」彼がそう言ったとき、バンッと大きな音を立ててドアが開いた。肩をびくつかせてそちらをぱっと向くと、聞き覚えのある鈴の音をさせて汗を滲ませ息を上げた一虎くんがそこにいた。
「……千冬」
 一虎君がポケットから財布を出して松野さんに投げた。彼は突然飛んできたそれをいとも容易く片手でキャッチすると「もっと優しく開けてくださいよ」と苦笑して立ち上がった。
「たとえば、こんなふうにさ」
 私に向かってそう言うと、彼は「飯買ってくるんで一段落ついたら連絡してくださいね」と一虎くんに声をかけて出ていった。

糖衣を知らない子

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