痛みの早い天国

 主が泣いた。
 いつもよりもやけにそわそわと落ち着きがない様子だったので一言かけようと思っていた矢先に大の男が端末を片手にぽろぽろと泣きだしたものだから、俺は情けないことに一瞬頭が真っ白になってしまったが、兎にも角にもこの状況をなんとかせねばならないという責任感で自身を持ち直して、ひとまず涙で書類が濡れないように机を少しずらした。
 このように冷静な行動をしているが主が泣いたのを初めて見た俺は自覚しているよりもだいぶ取り乱していたらしい。どこか痛むのか、薬研を呼んでくるべきかと必死な形相で呼びかけていたようで、途中から主は涙を引っ込めて、ある意味泣きたくなるくらいだったと後に語るように、腹をよじらせて笑った。
「ちがう。ちがうよ、長谷部。僕が泣いていたのはね」
 ひとしきり笑ってから、彼はそう言って携帯電話というらしい小型の端末を俺の目の前に「ほら」と持ち上げた。
「子どもが産まれたんだ」
 みてごらんと彼が画像を指で引き伸ばすと、液晶画面いっぱいにしわしわの赤子が映し出された。
 俺は正直なところ驚いていた。刀として生み出されてこのかた、一度も赤子を見たことがないというわけではないし、なんなら人の形を得てすぐに人間にまつわる色々を学んだおかげで一通りの知識はもっていた。しかしそれはあくまで記憶、あくまで知識であって、自分とは関係があるようでいて一枚隔てた壁の向こう側というような物事だった。まさかこうして実際その瞬間に遭遇するというのはなんとも不思議な感覚で背中がこそばゆい心地がする。
 そんな俺の様子を見ながら、彼は「可愛いだろう」とデレデレ笑った。
「男子ですか」
「ううん。女の子だって。ほら、ここの眉の形とか僕の妻によく似てるんだ。気が強そうでさ。こんなこと言うと怒られちゃうんだけど」
 主の奥方を俺は見たことがなかったが、いつだったか酒の席で酔っ払った拍子に姉さん女房なんだと嬉しそうに話していたのを思い出した。
「会いに行かないのですか」
「行きたいけどなあ。これがきちんと片付くまでは難しそうだ」
 そう言って、主は先ほど涙の餌食にならずに済んだ書類の束を持ち上げてぺらぺらと振った。ずらした机を元の位置に戻し、寝かせて置いてあった判を手に取る。
「よさそうな名前はもう考えてあるんだけどね」
 俺も同じように机に向かい筆を取る。そうして二人して書類と向き合う。しばしの間沈黙が続いたのちに彼は口を開いた。
「妻は僕が審神者だってことは知らないんだ。彼女は全く見えないただの一般人さ。巻き込みたくなかったから、付き合っていた時も結婚する時も言わなかった。僕は今後も審神者だってことを言うつもりは決してないし、もちろんこの子に伝えることもこの子を審神者にするつもりもない。…………だけど、いつか君たちに会わせてあげたいなあ」
「俺は……」
 会いたいかと尋ねられたら、会ってみたいと答えるだろう。なによりも忠誠を誓った主の子どもなら、それは自分の主人であるといっても過言ではないのだから。だが、その前に俺たちは武器である。温かい家庭で過ごす奥方とその娘を武器である自分たちに触れさせることはたとえ彼女らがなにも知らなかったとしても躊躇われた。
「審神者だと伝えていないから君たちのありのままを紹介することはできないけど、それでも僕がこうしていられるのは君たちのおかげだし、僕は君たちを家族だと思っているよ。妻がお腹を痛めて娘を産んだように、とはいかなくても僕の霊力でやってきてくれた君たちは誰が何と言おうと僕の家族だ。子どもたちだと言ってもいいくらいにね」
 「まあ、何百年も世界をみてきた君たちにとってはむしろ僕のほうがまだまだ赤ちゃんだと思うけどさ」とだけ言って、彼はまた書類仕事を再開した。内容を確認しつつもリズミカルに判を押していく姿はなんだか照れ隠しをしているようだった。
「……この娘も」
 その手を止めたのは俺の言葉だった。
 我ながら珍しいほどあまりに辿々しく紡がれたそれを、彼は柔和な眼差しで待っていた。
「なんだい。言ってごらん」
 俺は言おうかどうか少し躊躇って、それでも結局呟いた。
「……俺たちを、家族だと、思ってくれるでしょうか」
 彼は目を丸くした。けれど、決して大声で笑ったりしなかった。
「きっとそうさ」
 穏やかな声でそう言うと、「それはそうとして」と急に神妙な顔つきになり、「君たちは俺なんかよりもずっとかっこいいからこの子が恋なんかしちゃったらどうしよう。僕が頼りないから君をお父さんだと思い込みそうだなあ」と主は新しい悩みの種を見つけたらしくうんうん考え始めた。慌てんぼうであれこれと悩みやすい慣れ親しんだその姿に少しばかり落ち着く。これこそいつもの主だ。
「改めて僕もきちんとしないとな。君たちにも妻にもこの子にも誇れるように」
「心配しなくても俺が、俺たちが、お守りします」
「うん。よろしく頼むよ」
 主はそういった後、次に送られてきた奥方と赤子が一緒に写った写真をプリンターとやらで印刷するべく、ふんふん鼻歌を歌いながら陽気な様子で部屋を飛び出していった。

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