恋とは違っても


 何かを蹴飛ばした感覚。敵船から戦利品を運んでいた私はその場で一旦足を止めた。視線を下に向けると、そこにあったのはくしゃくしゃになった手のひらサイズの紙のパックだった。
 あぁ、懐かしいな、同じものだ。見下ろしたまま立ち止まっていたからか「どうした?」とシャチに声をかけられたので「ううん、何でもないよ」と答える。私はそれを拾い上げて水に濡れていないことを確認するとツナギのポケットにしまい込んだ。

 夜が深まる。キャプテンはあまり乗り気じゃなかったけれど宴が開かれていて、思い思いに勝利の美酒を楽しんでいる。私もしばらくはイッカクと共に、今日相手にした海賊の女達を思い出しながら今後やりたい髪型だとか、狙撃手の見た目だけはよかったよねとか、それ以外にも何度も語りつくされた会話を飽きもせず繰り返していた。
 酒の量が増えるにつれてたどり着くのはもしもの話。ああなりたい、こうなりたい。希望や展望を思い描くことはいくらしたって減るものではないし、言霊だってきっとある。言って叶えば儲けもん、それなりにポジティブに生きていきたい。そんなふうに気持ちよく飲んでいる私達にペンギンはよく突っかかってくる。もちろんその理由は、彼も酔っているからだ。
「まーたお前らは、本当に飽きねェな」
「そっちも変わらないでしょ。毎回あの子が可愛かったとか、もっと可愛い子がウチにもいればとかさ。ごめんなさいね〜、可愛げがなくって」
「ペンギンあんたさぁ、どこをどう見たらこの私の隣にいるこのハイスペックガールが可愛くないとか言えるの?」
「いや、言ってねーし」
 始まった。私にべったりと抱きついてきたイッカク。かなり酔いが回った合図とも言える。酔うとやたら私を持ち上げたがる。私を褒め殺しにかかってくるのだ。
「あのねぇ、料理めちゃくちゃじょうずでしょ?」
「あァ、そうだな」
「話も聞きじょーずでしょ、相手を下げるようなこと言わないし」
「聞き上手なのはまぁそうだが……そうか?」
 チラリとペンギンの視線が私へと向いた。言いたいことはわかる。下げるようなことも口にする。暴言をよく吐いている自覚はある。イッカクのフィルターを通すとまるで別人の私がいる。けれど、それもひとつの私だ。
「そうだなぁ、そうありたいとは思ってるよ。イッカクの言葉はいつもしっかり受け止めてる。貴重な意見として」
「嬉しい。そういうところ、ほんとぉに……推せ……る」
「うん、ありがと」
「……普通なら適当に聞き流すだろ、真面目だな」
「うーん、真面目っていうか……」
 こうなるとわかっていてもイッカクと飲む理由。それはこのほめ殺しタイムはあまり長くは続かないから。すぐに終わるから。そう、イッカクが寝てしまうからだ。たまに褒められるには丁度いい時間なのだ。ありがたい。
「本当にこいつ、言いたいことだけ言って寝ちまうんだよな」
「今日は、とりあえず暴言には気をつけようって思えたから」
 気持ちよさそうに穏やかな表情で眠るイッカクを起こさないように背負うと「じゃ、部屋に投げ込んでくるよ」とペンギンに告げ、私は宴の輪から抜け出した。



 イッカクに布団をかけて部屋を出る。たくさんあった中から持ち出しておいたお酒を一瓶と、ついでにライターも持ってきた。涼みに、酔い覚ましに宴中に甲板に出るクルーもいるけれど、そう広くはない一段上がった所、ここはなぜかあまり人がこない。イッカクを部屋へ運んでから決まってやってくる私のお気に入りの場所。
 ポケットにしまっておいたパックを取り出して、歪んでいた形をある程度元に戻す。その中には、まだ半分以上もタバコが入っていた。潜水することも多いこの船には常時喫煙する人はいなくて、ごく数人が宴の席なんかでたまに嗜む程度だ。私は人前では吸わないけれど。
 トントン、タバコの詰まっている側の上部を指で叩く。一本のタバコがひょこっと顔をのぞかせたのと同時に、懐かしい恩人の顔がちらついた。そのまま口にくわえて、もうオイルがほとんど入っていないライターの蓋を開け、カチャカチャとホイールを回す。ようやくついた火はビュッと吹いた海風ですぐに消えてしまった。今日の海は私が懐かしむことも気に入らないのか。許してくれないのか。
「今日は吸うなってことじゃねェのか」
 代弁したかのような声がして振り向くと、私の物より少し高級そうなライターが飛んできていて、どうにか顔面ギリギリでそれをキャッチした。驚いた。こんなことをするのは一人しかいない。
「キャプテン!! ぶつかるところだったんですけど!」
「お前なら取れるだろ」
「取れるけどです! もっと酔ってたら取れてない!」
 これが顔面に当たったら絶対に痛い。泣いてしまう。私の文句を無視するのはいつものこと。そんなキャプテンはズカズカと歩いてきて、いつものように隣に腰を下ろした。そしてお決まりの「イッカクの世話は終わったのか」と、あまり意味のない質問をしてくる。終わったからここにいるのに、だ。
「聞き上手で相手を下げるようなことを言わないらしいですよ、私」
 キャプテンのライターでタバコに火をつけた。今度は邪魔されなかった。イッカクの言葉ごと、煙を大きく吸い込む。そして「暴言、日々吐きまくりですよ」と自虐気味に白い息を吐いた。
 もしもイッカクのあの褒め殺しタイムが長々と続いたとしたら、今日みたいに時々ある"本当はそうではない自分"と向き合う時間が増えるだろう。
 嫌ではない。そうなれたらいいと思うのもまた事実。希望や展望を思い描くのと一緒で、本当にハイスペックガールになれる日は来るのかもしれないから。ポジティブに生きたいから。だからこうして、実際の私と少し違った日は、多少はそうなろうと努力してみます、という意味を込めて褒められた内容をキャプテンに報告する。
 その場合ほとんどが「何年かかるだろうな」とか、心のこもっていない「頑張れ」が返ってくる。イッカクの褒めが「めっちゃおっぱいおっきい」だった日。ちらっと胸元を覗いてさすがにどうしようかと思い悩んだ。それをキャプテンに報告すると「手伝うか?」と真顔で聞かれた。「ひとまず自分で頑張ってみる」と答えると「まァ、必要なら声をかけろ」と冗談か本気かわからない励ましをくれたりした。
 だから今日も適当な返事なのだろうと思っていると「間違ってねェよ」と聞こえてきた。聞き間違えたかと思って「えっ」と間抜けな顔をしながらキャプテンの方を向いた。
「お前のクルー共への暴言は愛があるから、いいんじゃねェか」
「……イッカクが言ったのはそういう意味?」
「知らね」
 そう言いながらキャプテンは私が膝の間に挟んでいたタバコをパックごと持って行った。文句を言おうとしたけれど、おかげで落ちそうになっていた灰に間一髪のところで気がついた。同じく部屋から持ってきていた灰皿代わりのガラスの小皿にポンポンと灰を落とし、続けてお酒を一口飲み込んだ。
 キャプテンは多くを語らないけれど、幼いころにお世話になった人が喫煙者だったらしい。いつだったかな、もうずいぶん前だけれど一度シラフの時に「おれの前でタバコは吸うな!」とガチギレされた。だけれど、今はこうして宴の日に私がこっそり吸うことがあるのをわかっていながら姿を現す。理由には触れてはいけないような気がして、聞いていない。
 私は時々思い出すのだ。昔、命の恩人が吸っていたのをマネして怒られたことを。「ガキが何大人ぶろうってんだ」って。その時は素直に諦めたけれど、好きだったんだ。その姿を眺めるのが。今思えばあれが初恋だったのだろう。死んでしまってもこうして、もう一度会える気がして、会いたくなって、タバコを手に入れるタイミングがあればあの人を思い出す。おかげで今があるから、感謝の意味も込めて。
「火」
「ひ?」
「つけろ」
 キャプテンがタバコをくわえながら顔をくいっと私の方へと向けた。宴は乗り気ではなさそうだったけれど、今日は吸いたい気分なのだろう。そう思いながら自分のタバコをくわえたまま、風をよけるように片手をキャプテンの手元に持っていった。そしてもう片方の手でライターを点火させる。よくあの人にも「私がつける!」と言って進んでつけていたことを思い出す。
 ジッ、と火がつくとキャプテンは元の体勢に戻った。紫煙をくゆらせる姿はとんでもなくレアである。その横顔は色気と共に哀愁が漂っている気がした。
「にしても、慣れたもんだな」
「そりゃ、自分で吸わなくてもつけてましたし。点火係だったんです。自称」
「やはり、その先に誰かいたのか」
「えっ」
「答えたくなきゃいいんだが……こうして時々吸う理由も、そこにあるのか」
 キャプテンは前を向いたままだけれど、こうしてタバコに関する質問をされたのはたぶん初めてだ。いつもはただ隣にいて、ただ話をして、それだけだった。今はきっと素直に話したほうがいい、キャプテンになら話してもいい。そう思えた。それに、やはりと言ったということは、何となく理由に当たりをつけていたのだろうから。
「もういないんですけど、ちっちゃいころに……恩人に」
「恩人」
「命の恩人。こうしていると、もう一度会えるんじゃないかなんて思って。もちろん本当に会えるなんて思ってないですけど、」
 たぶん初恋の人なんです、と言いかけて止まった。キャプテンがこちらを向いたから。物悲しそうな表情で「なんだ、お前もか」と呟いて、手に持ったままのタバコを少し高く上げると空を見上げた。
「おれも、世話になったというか、命の恩人が」
「おん、じん」
「その人も、あっちだ」
 キャプテンが指した先。煙が吸い込まれるようにして夜空へと昇っていく。以前キャプテンが話していたお世話になった人は命の恩人で、そしてもう、この世にいないのか。
 そこでハッとした。そうなのだとしたら私は申し訳ないことをしてきたのではないか。まだ吸い始めたばかりの二本目を反射的に小皿に押し付けて消すと「ごめんなさい」と頭を下げた。
「ごめんなさい。私は懐かしみたくて、思い出したくて、時々そうしないと前に進めなくて」
 自分でも何を言っているかよくわからなかった。ただ、私にとっては思い出したいものでも、キャプテンにとってはそうではないのかもしれないと思って必死だった。もしも逆の立場だったらと思うと、急に消えてしまいたくなった。けれど、だとしたら、どうしてキャプテンはわざわざここに――
 そう問いかけてもいいものかと躊躇していると気づけば人の温かさがあった。あの人が吸っていたものと同じタバコの香りに包まれていて……私はキャプテンに抱きしめられていた。
「……きっと、懐かしまれなくなったほうが、辛いだろ」
 あたたかい。だから懐かしんだっていいのだと言ってもらえたような気がして、今までこぼさないように、気づかれないように抱えていた思いが、一気にあふれ出たみたいだった。私は泣いていた。
 ハートの海賊団の仲間として迎え入れられて、それでもこうして昔を思い出すことにどこか後ろめたさがあった。だからきっと、イッカクの思う私に近付くことで、ここにいていいのだと思いたかった。ポジティブでいることで進んでいる気になりたかった。でも、どうしたって私の中から、私を作ったその人は消えないのだ。
「キャプテンもその人を思う時、泣いたりするんですか」
 何て不躾な質問をしているのだろうと思いながらも顔を上げた。きっと涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。だけれど、もし"同じ"なのだとしたら。
「そうならねェように、ここに来てるんだと思う」
 私の額にキャプテンの唇が触れた。私の涙を拭うようにキャプテンの指が頬を撫でた。私をあの人ごと肯定するように「きっと、そういうお前だから放っておけなかった」と、パラパラと言葉が降ってきた。
「ここに一人でいる時、ここにはいない誰かを思ってる気がして、放っておいたら消えいまいそうで……そうやって見てるうちに勝手に同じなんじゃないかとカテゴライズした」
 キャプテンの瞳の奥が揺れている。この状況をすんなりと受け入れているのは私がキャプテンを好きだからなのか、ただ似たような境遇に共感しているからなのか。もちろん、一生をかけてついていくと決めた人だ。好きだ。だけれど恋とか愛とか、きっとそういうものではないはずだ。
「お前がこうしている時間だけは、おれもただのおれとして、あの人に会いたいと思うことを許されたい」
 なんだ。私達、一緒だったんだ。「じゃあ今はキャプテンじゃないってことですか?」と問いかけると「今だけだ」と私を力強く抱きしめた。
「この気持ちって、何なんでしょうね」
 私もキャプテンの背中にそっと手を這わせる。胸の鼓動を感じる。生きているのだとわかる。感じる。それだけで胸が熱くなるようだった。私達、じりじりと燃えていく、いつか燃え尽きるタバコみたいだな。
 少し顔を上げるとキャプテンと目が合う。私に向けられた視線。まるで背筋をぞわぞわとなぞられたような、そんな感覚がした。吸い寄せられるように顔を近づけるとキャプテンはそのまま私の唇を味見するように口付けた。
 あ、ダメだ。私の中から一瞬で堅苦しい思考が灰のように落ちてなくなった。残されているのはただ本能的に感じた欲深さだけだった。顔を離そうとするキャプテンに私からキスをし返した。獲物にかぶりつくように。するとすぐに、同じように荒く返される。タバコとお酒の匂いがキャプテンの男臭さをより濃いものにしていた。全身に浴びてしまってはもうどうしようもない。
 どれだけの間そうしていたかはわからないけれど、その行為はぽっかりと空いていた穴が埋まっていくような、修復されていくような感覚だった。

「この気持ちって、間違ってますかね」
「正しいとか、違うとか、そんなモンは当人が決めればいい」
「そう、ですね」
 それなら、時々立ち止まって何かを思い出すことは間違っていないし、同じ思いを抱えた者同士が足りない何かを埋め合ったっていいのではないか。
「前に進めるんだとしたら、全部無駄じゃねェと思う」
 そう言ってキャプテンは私の首元に顔をうずめる。そうだ、前に進みたいのだ。私もキャプテンも。忘れることは怖いし忘れられない。だから進めていない気がしてくる。でも、進まなきゃ。そんなことを足踏みするようにずっと繰り返してきたのかもしれない。そして生まれてしまったこの空虚のようなものを埋める存在に出会いたかったのだ。
「それなら、もうお互いに知ったなら、わかってるなら……私達、いつも本当の自分でいてもいいんじゃないんですか」
 許されたなら。たった一人でも許してくれる人がいるならもう、無理に隠そうとしなくていいよね。
「……そうだな」

 あの日以来、私はタバコを吸っていない。代わりにキャプテンをローと呼ぶ時間が増えて、イッカクの褒め殺しタイムにも時々「そんなことないよ」と言えるようになった。イッカクは私が言い返しても覚えていないことがほとんどだったけれど、シャチあたりから聞いたのか一言「ごめん」と言われた。イッカクは何も悪くないのだと私も謝った。それからは極力遠慮せずに過ごすことを心がけている。ペンギンは「お前、真面目ちゃんキャラはやめたのか」なんて言って笑っていた。
 少しずつだけれどちゃんと進んでいる。進んでいく。灰になる日まで。みんなと、キャプテンと、キャプテンの恩人と、そしてあの人と共に。この想いの行き着く先が、何であっても。

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