思い出をなぞって


 聞き覚えのあるフレーズだった。ぼんやりと見ていた動画の広告。十五秒間のアニメ映像と人気アーティストの歌声が、私の脳内を浸食するようにじんわりと広がる。何年か前、小説を実写化した同タイトルの映画を見たことがあった。私は〈もう一度見る〉をクリックして動画を再生した。
 じっとりと服が肌に纏わりつく蒸し暑い夏の夕方。私達二人しかいないしんとした彼の実家の、彼の部屋。レンタルしてきた映画のエンドロールが流れるころ、どちらからともなく顔と顔を寄せ、キスをした。
 触れるだけの口付けで互いを確認し合っている間にエンディングテーマも流れ終わった。暗く何も映さなくなったテレビの代わりに小さな部屋の中にはじゅるじゅるっとした水音と、合間に酸素を取り入れようとする息づかいが響いた。
 家に行くまでの落ち着かない道のり、初めて足を踏み入れるあの緊張感と、今日こそひとつになれるのではという淡い期待が一気に弾けて……あの日の淡い思い出は、今でも大切に切り取ってしまってある。大好きだった人。
 今でも鮮明に蘇る記憶。私にとって大切な記憶。あぁ。やはりあの映画だ。その後も何度も二人で一緒に見たお気に入りだった。忘れていた、でもどうしたって忘れられない。そうか、アニメ化。しばらくは目に付く機会が増えそうだ。心に靄がかかったような思いを飲みかけのコーヒーと一緒に飲み込んでから、そっと閉じるボタンを押した。

 あれから何度か広告を見かけはしたが、感傷に浸ったところで何かが変わるわけでもない。映画が終わればそれと一緒に私の心も落ち着くはずだ。そう言い聞かせ、ほどほどに毎日を、仕事を頑張る。それでもやっぱり気になって、じわじわと疲れがたまっていく。
 私には気分転換が必要だ。最近は部屋にこもりがちだった週末に何か予定を入れよう。そう思ってスマホを手に取るとタイミングよくディスプレイがぼやっと光った。『ねぇ、今週末映画見に行かない?』とメッセージが飛んできた。ロビンから。深く考えることもなく『いいよ、何見るの?』と返すと『お楽しみ』と返ってきた。
 ロビンが選ぶものなら私の趣味に合うことがほとんどだ。映画館を検索し、公開中のタイトルを眺めていると再びポンッとメッセージを知らせる音がした。
『それでね、ちょっと前に転職してきた職場の人が一緒に行きたいって言うんだけれど、いいかしら?』
 ロビンは過去にも私との遊びに何度か友人や職場の人を連れてきたことがあった。一人だったり、複数人だったり。性別も関係なく。それは刺激というか、少しばかり閉鎖的になっていた私に世の中を多角的に見せたかったからなのだと思う。
 知見を広めるいい機会だった。新しいことをいくつも知って、興味を持つことも増えていった。ロビンの同僚のコアラとは格闘技好きという共通点もあってすぐに意気投合して、異動になってしまってからも時々やり取りする仲になった。
 ロビンのやさしさのおかげで少しずつ、私は前に進んでいった。過去の傷も癒えつつあった。消極的になっていた人間関係に対しても、また頑張ってみようと思えるくらいにはなっていた。だから今回も緊張感はありつつも、ロビンがどんな人を連れてくるのだろうという期待もあった。

 あっという間に週末を迎えた。約束の時間より早く待ち合わせ場所に着いてすぐ、スマホからポンッと音がした。『家の鍵が見つからなくて、ちょっと遅れそうなの。もしよかったら先に二人でご飯でも食べてて』という文字を見て、心臓がきゅっと縮こまった。初対面の人とご飯を食べるなんて、ハードルが高すぎる。
 映画の前に軽くお茶をしようと話していたので待ち合わせは上映の二時間前。ロビンが来る明確な時間は今のところ不明。それまでの間、ロビンの職場の人と二人で過ごすことになるとは。必要最低限のコミュ力は備えているつもりだけれど、うまくいくかはまた別の話。さすがに相手の人も気まずいだろう。場合によってはそれぞれ別に時間を潰すのもありかな、と思ったところで「ユメ」と私の名前を呼ぶ声がした。
 あれ、どうして? 色々と考える前に体が反応していた。振り返った。ロビンではないその声。夢の中で何度も聞いてきた、でももう確かなものではなくなっていた声が現実で私の名を紡いだ。
「ユメ、久しぶりだな」
「あ、あれ……何で?」
 ぼやけていた輪郭が、突としてくっきりと浮かび上がった。もしももう一度会えたなら。そんな幼稚な夢想を数え切れないほど繰り返してきたはずなのに、まるで言葉が出てこない。久しぶりだね、どうしてこんな所に? と言いたいのに。それ以上に、何が起きているのかわからない感情がバケツをひっくり返したみたいに胸に広がって、一面がぐちゃぐちゃだった。
 目の前の人物は「ユメならもう着いてると思って早めに来てみたが……やっぱりいたな」とチラリと腕時計に視線を向けた。まるで待ち合わせていたような物言い。待ち合わせ? まさか、そんなことがあり得るのだろうか。
「えっと、誰かと……待ち合わせ?」
「聞いてないのか、三人で飯食って、映画」
「ロビンの職場の人って、ロー……くん、なの?」
 とっさにくん≠ニ付けてしまった。付き合うまでは呼び捨てで呼んでいたから、別れてしまった今、以前のように彼を呼ぶのは少し違う気がした。
「ロビン、鍵見当たらなくて、遅れるって。先に何か……食べててって」
 スマホに視線を落としたままロボットのようにしか話せない自分が情けなかった。あれだけ、ありえないもしも≠頭の中でシミュレーションしていたのに、いざ本人を前にしては機能していない。スマホを見たって台本が書いてあるわけでもないのに、ただ時刻と天気が表示されている画面を、明るさをほぼ最大にして見ていた。
「そうか、まさか……いや、とりあえずどっか入るか」
「あっ、え、うん」
 心臓がじんじんと、痛む。大好きだった人の声がする。目の前に、いる。どうにかスマホから顔を上げると近くに見えた喫茶店を指差して「あそこでいいか」とローが言う。私はまだ現実を受け入れられないまま、こくりと小さく頷いた。

 ろくな会話がないままだった。お店がすぐそばだったことと、待たずに入れたおかげでそう長い時間ではなかったけれど。お好きな席へどうぞと案内され、ローは迷わず窓際の席へと歩いていった。
「ここでいいか」
「うん」
 四人掛けの席でローが立ち止まったので私は席に腰を下ろした。鞄を脇に置いて、ロビンからの連絡がないか確認しようとスマホを取ったところで手元が陰った。顔を上げるとローが一瞬隣に座るような動作をしてから、ハッとした様子で「悪ィ」と言って視線を宙へと向けた。そして反対側のソファへとそそくさと座り、メニューを手に取る。
 以前から、待ち合わせより十五分は早く着くようにしていた。待ち合わせ場所でのローの言葉は、そのころの私と変わらないと思って自分も早く来たということ。今の行動だって、よく隣に並んで座っていたあのころのクセをまだ、何年もたった今でも引きずっているのでは。……いや、まさか。そんなことがあるはずない。きっとほかの彼女ともそうしていて、ついうっかり、だろう。
 まだロビンからの通知はない。困ったな……私、困っているのかな。むしろ喜ぶべきなのに、目の前にはずっと忘れられない人がいるのに。思い出の中で生き続け、美化されていったローと、現実の、たぶんあのころとそう変わっていないのかもしれないローとの差異に困惑しているのかもしれない。
 スマホばかりを気にし、交わらない視線。どちらかといえば私が、だけれど。気まずさがコーヒーの匂いと一緒に私達の周りに漂っていた。ローは確か仕事で海外へ行ったのだと人づてに聞いていた。どうにか軽食と飲み物を注文したあと、窒息しそうな胸をさすり、会話を絞り出した。
「びっくりした。海外に行ったって聞いてたから」
「あァ、一年くらい前にこっちに」
「え、一年?」
 そう言ってローの方を見る。ロビンは少し前だと言っていたはずだ。私の中では一年は少しではない。それなりに、かなり前だ。ロビンは一年もの間、私にローの存在を隠し続けてきたということになる。
「そっか、一年も……」
「戻ってきてすぐ、部署も違ェほぼ接点のないニコ屋とたまたま会って。その時に……結婚間近だと聞いていたからな。幸せにしてんなら、特に知らせる必要はないと伝えたんだ」
 暗に、黙っていたロビンは何も悪くないと言っているのだと思った。確かに私が逆の立場なら、同じようにしただろう。けれど肝心なことはそれではない。つまり私の目の前に姿を現したということは、その結婚が叶わなかったことを知っているのだろうし──その先を考えようとして、思わずおしぼりをくしゃくしゃに握りしめた。さっきから、自分の都合のいいように考えすぎだ。
「聞いてたんだね。ドレスを決めるところまでいってたんだけど……パーになっちゃったんだ」
 一番好きな人とは結婚できないなんてよく聞く話だし、現実問題、そう上手くいくものではない。そんな思いが元結婚相手に透けて見えていたのかもしれない。ちゃんと、好きだったんだけどな。ドレスの試着をしに行った次の日、私は別れを切り出されたのだ。たぶんおれ達、友達のままがいいよね、と。
 因果応報だと思った。私がローを振った時と同じセリフだったから。ローに無理をさせている気がして、負担になっている気がして、もっとローにふさわしい人がいると思って、忙しさを理由に確認もせずに一方的に終わらせた。友達に戻ることもせず。勝手に楽になりたくて、打ち明けたところで重たいだけだと思って。こんな呪いのような足枷になるなんて思いもせずに。
 流れ込むように記憶が蘇って、いっぱいになって、黙り込んでしまっていた。気づけば注文したメニューも運ばれてきていた。ローのドリアと、私のパンケーキ。そういえば、近いからと入ったけれど、喫茶店では選択肢が少なかったはずだ。昔もよく、ローはパンケーキやサンド系が好きな私に合わせてくれていた。一度、本当にポテトやチキン以外全部パン系のメニューだったお店があって、さすがに不機嫌になっていたっけ。
「おれの後輩のシャチ、覚えてるか」
「え? あ、うん」
 現実に戻る。言葉を発しなくなった私に気を使ってか、ぽそぽそとローが話し始めた。
「あいつ、少し前に街頭インタビューでテレビに映ったんだが」
「テレビ? すごいね」
「それが好きな歌手だかについて熱弁してる場面で、放映された後からめちゃくちゃ職場でいじられるようになったらしくて」
「そうなんだ」
「UTAって知ってるか」
「たぶん、聞いたことある」
「そうか。そんなに有名なのか」
「うん」
 店内のBGMと近くの席の人達の聞き取れない会話が入り混じった空間に、カチャカチャと食器の音が響く。会話の仕方が思い出せない。ローはきっと、結婚がおじゃんになった話をそらそうとしたのだろう。今の話、シャチくんには悪いけれど数年ぶりに、久々に会ってするには重要度が低すぎる。あまりにも脈絡がなさすぎる。でも、それがローらしくって鋭く胸に刺さる。遠回しの、優しさだ。
「ロビン、もしかしたら間に合わないって」
 テーブルの隅に置いたスマホのディスプレイがポッと光って、通知の文字を映してまた消えた。これは計画的なものなので。そう思えてきた。私とローを二人にしようとしている意図を感じる。ローはぽそりと「そうか」とだけ言って食事を続ける。
 私はこのままローと二人で映画を観ることになるのだろうか。立て続けに通知が来たので確認すると『君と雲に触れたい≠ェいいかなと思っていたの』と、映画のタイトルが書かれていた。これは偶然なのだろうか。ロビンにこの映画に関する思い出を話したことはない。もしロビンではなくローが選んだのだとしたら。急にぐっと、込み上げてくる。胸がぎゅうっと締め付けられるように痛む。
 意を決して私は「映画」と口を開いた。「映画、お楽しみって言われてて。私、何を見に行くか知らされてなくて」とローに視線を向けると「そうだったのか。君と雲に触れたい、だ」と表情を変えることもなく懐かしいタイトルをさらっと口にした。
 覚えていないのかもしれないし、ローにとっては取るに足らない一日だったのかもしれない。あぁ、私だけがこのアニメ化に勝手に揺さぶられているのだ。そう思い知らされた気がして、持っていたフォークがガシャンと音を立てて皿に落下した。
「あっ、ごめん。うるさくして」
「いや、気にしてねェ」
「うん」
「それにしても、懐かしいよな。覚えてるか? 実写のやつ、何度か見たよな。一緒に」
「……うん」
 泣いてしまいそうだった。雲に触るのが夢だった女性と、実際に雲がかかった場所へ人が行けばそれはただの霧なのだと現実を突きつける男性。余命宣告をされた女性の願いを叶えるため最後に二人で雲を探しに登山をする話。覚えていたんだね、ローも。
「あれを見てから、よく山に登ろうって言ってたよな」
 そうだね。登ることはなかったけれど。
「『百人が百人、目の前のものを霧と呼んだとして、ぼく達にとってこれは雲だ』」
 続けてローが口にしたのは山での男性のセリフだ。あのころは映画のセリフをもじって、何かあると私達にとって、おれ達にとってこれは〜、なんて言っていたね。ねぇ、どうしてそんなことまで事細かに覚えているの?
「『雲が霧なのはわかってた。でも、そんな馬鹿げた願いを叶えてくれようと思ってくれた気持ちが、私にとっては何よりも大切な宝物だよ』」
 一面に広がる霧を前にしてこれは雲だと言った男に対して、主人公が笑った場面を思い出した。ローにつられてあやふやだけれど私もセリフを口にしていた。あのころの恋が本物だったかわからない。けれど、喜ばせようとしてくれていた気持ちが、思いが私にとっては宝物だ。
「案外覚えてるもんだな」
「うん。ほぼパンしかメニューがなくって、万人がこれをパンと呼んだとして、私達にとってこれは米だ、って言ったら、そんなことねェって真顔で返された」
「あれはマジでキレるかと思った」
「実際ちょっとキレてたじゃん」
「まァな」
 するすると言葉が出てくる。まるで映画の二人が私達をあのころに連れ戻してくれたかのように。ほかにもたくさん、一緒に映画を見たはずなのに、この映画だけはどうしてか私の特別なのだ。
「うん。懐かしいよ。でも正直アニメ化されるって知った時、複雑な心境だった」
「それは、実写映画がアニメ化されることに対してか?」
「ん? どういう意味?」
「おれは、幸せになってればいいと思ってた女がチラついて、どうしてあの時ああしなかった、こうしなかったんだって後悔ばかりが浮かんで……しばらく目に付くんだと思うと憂鬱だった」
「……」
「だから、別れたんだと聞いたとき、正直ホッとした。公開のタイミングも手伝ってもう一度だけ会えたら、映画に行けたらって思った」
 ローは窓の外へと視線を向けた。本当に……いつも遠回しに伝えてくる。私が鈍かったら意思の疎通が図れず、会話は成立していなかったと思う。ドッ、ドッ、と心音がうるさい。今だって、そんなの私のことをまだ好きでいるみたいな言い方だ。
「私は、今でも一番大好きな人がちらついて、あの時の宝物みたいな思い出を懐かしんで、へこんで、しばらく目に付くんだと思うとお酒でも飲まなきゃやってらんないなって思った」
 ローがハッとこちらを向いた。こんな遠回し、まるで遠回しになっていないと思う。繰り返されたシミュレーションも無意味なやけくそ。すると「いや、今……何て」と少しだけ動揺しているようにローの瞳が揺れたのがわかった。そしてうつむき加減で頭を抱えてからふぅっと息を吐き出した。
「映画のセリフ、まだいくつか覚えてるんだが」
「え、あ、うん」
 ローがすっと背筋を正して真っ直ぐに私の方を見た。「『しょうがないから、ぼくができる限りの願いを叶えてやる。お前が飽きるまで。いくつでもいい、言ってみろ』」と言った。記憶が確かならば、明確な告白描写がなかった話の中で、実質告白に該当するセリフだ。このシーンは何度も泣いたし、何よりほかのセリフを真似したり、もじったりしても、ローがこのセリフを口にしたことはなかったはずだ。私はとっさに映画の中で女性が言ったように「『それなら、私は君と一緒に山に登りたい』」と続けた。
 ずっと止まっていた時間がスルスルと滑らかに動き出したような感覚だった。ローが少しはにかんだような表情を浮かべて、それをすぐに左手で隠した。
「おれができる限りの願いを叶えてやる。ユメが飽きるまで。いくつでもいい、言ってみろ」
 顔を手で隠したまま、照れくさそうに言い直した。付き合っていたころよりもずっと大人になった私は、わざわざ言い直さなくても、ローがこうして会いに来てそのセリフを使う意味くらい理解できる。私が信じ切れなかったローの変わらない優しさも、今なら痛いほどわかる。今にも涙がこぼれてしまいそうなのに、思わず顔がふにゃっと緩んでしまった。
「それなら、私はローと一緒に山に登りたい……かな」
 あのころの夢をもう一度見てもいいのだと思うと、耐え切れなかった涙はぼたぼたとこぼれ落ちた。急いでハンカチを取り出そうとする私の隣にすぐにローがやってきて、テーブルに備え付けてあるペーパーナプキンを雑に何枚か取り、顔に押し付けてきた。
「ちょっと、メイクが崩れちゃう」
「泣いてることのほうが問題だ」
「数年ぶりに急に目の前に現れて泣かせておいて?」
「お前に振られた時、おれは……泣いたぞ」
「……それは、ごめん。後悔、してた」
 だから今度はちゃんと言いたいことを伝えていきたい。もし難しいと思ったら、映画のセリフを引用したりしながら。そう伝えるとローも「おれもそうする」と言ってふんわりと微笑んだ。あまりにも優しい眼差しを私に向けるものだからまた思いが込み上げて、まだ映画を見てもいないのにボロボロと涙した。

 この数年を埋めていくような一一三分だった。映画を見終わって、私達は再び近くの喫茶店に入った。
 結局、ロビンから鍵が見つかったと連絡があったのは上映開始直前だった。席に座って、最初から来る気がなかったと思われるロビンに『ありがとう』とメッセージを送った。ローが私の隣で「一体何をどれだけ請求されるんだろうな」と面倒そうにこぼす。けれどその顔には、ふんわりとした柔らかさがあった。
 しばらくしてメッセージを知らせる通知に気がついた。コーヒーを一口飲んでからアプリを開く。

『どういたしまして。ところで、雲に触ることはできたのかしら?』

 なんとなく映画の内容のことではないと思った私は『うん、ちゃんと触れたよ』と打ち込んで送信ボタンを押した。

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