わがままを溶かして


 決して広くはない私の部屋の中。大した強度もなく何度も修繕しながら使っているベッドの上には人間がふたり。
 もともと気が散っていたけれどじっとりとまとわりつくような暑さで集中できなくなって、読みかけの本を少し乱暴に閉じた。もうひとりは、何をするでもなくこちらをじいっと見ていたり、時々ストレッチをしたりしていた。けれど今はすっかり夢と現実の狭間で船を漕いでいる。私は前屈姿勢で丸まった上半身と壁の隙間に体を無理矢理ねじ込んだ。ぎゅっと体を包み込むように腕を伸ばすと、びくりと大きな体が跳ねた。どうやら現実へ帰ってきたようだ。
「寒い寒い! 凍えちゃうよ〜あっためて!」
「なっ……! んだよ急にべたべたと、暑苦しい!」
「さっき『暑いって言うから暑いんだ』って言ったのはエースでしょう? それに寝ちゃいそうだったし」
「だからってお前……ひっついたら何を言ったって暑いに決まってんだろ」
「……わかった。じゃあマルコさんかイゾウさんのところにでも行ってくる」
 正論だ。わかっている。これはかまってほしいだけのわがままだって。
 口先をいつもより尖らせてから抱きしめていた腕をほどく。分け合っていた熱で溶けてしまいそうな身体。どうにか人間であることを維持しながら距離を取った。
 私がひっついていなくたってこのどうしようもない気候で汗ばんでいる、その大きくて強靭な背中が好きだ。いつも私を守ってくれるその背中に、溶けてしまいたい。そうしたらあなたとも、白ひげ海賊団とも永遠に生きていけるのに。そんなことを思っているなんて、そう簡単には言えない。
 パッと、眩しいあなたが頭を上げた。あまりの輝きに、あっという間に蒸発してしまうかと思った。真っ直ぐな瞳と、少しむくれたような頬、隠す気のない少しだけ歪んだ口元。
 見上げる視線が私の動きを止める。最初から行く気なんてなかったから、その眼差しだけでついうっかり顔がにやけてしまいそう。
 ほら、あなたにもきっと私が必要なのだ。勝手にそう思うくらいはいいよね。ただし、決して表情には出さないように。
「なぁに?」
「行くな」
「行かないよ」
「……行くって言ったろ」
「言ったけど、行かないよ」
「……ったく、それならこっちこい」
 手首を掴まれて、私の体の炎は火力を増す。あぁ、あつい、あつい。あなたのせいで燃え尽きて灰になるなら本望だ。
 離れろと言っておいて、今度はくっつきたいの? そう言葉にするのはやめておいた。きっとふてくされてしまうから。素直に、でも控えめに肩にもたれる。これならさっきよりは触れている面積が少ないから、少しは暑苦しさも軽減されるのでは、なんて思って。
「本はどうした」
「飽きた」
「飽きっぽいよな」
「そんなことない」
「街に出たって、すぐにどっか行っちまう」
「それはエースもでしょう? お互い様だよ。色々なものを見るのも知るのも楽しいし」
 そう。知らない街をぶらつくのは楽しいけれど、どこかであなたの気を引きたいという思いがあるのも本心。
「急におれ達の前からいなくなっちまいそうだ」
 耳元で寂しそうな、今にも消え入りそうな声がポロリとこぼれた。それは半分間違っているし、半分合っている。私の魂はこれから先もずっと、あなたと共にある。けれど、もしも溶けてしまったら、あなたにとっては私がこの世界からいなくなったのと同義だろう。
「たとえば私がエースから見えなくなってしまっても、絶対に一緒にいるよ」
「は? 見えなくなるってなんだよ」
「たとえばの話だって」
「だからたとえばで見えなくなるってどんな状況だ」
「……能力? 幽霊?」
「能力はともかく、幽霊って死んでんじゃねェかよ」
 違うよ、とは言い切れなかった。
「えーと、不思議現象とか守護霊的な……私という概念はちゃんとそこにあるというか……」
 すると私の体に一気に体重がのしかかって、勢いよくベッドに沈み込んだ。私の頭を腕で抱え込むようにして顔を首元にうずめる。その重みと熱で涙が出そうになる。今この瞬間にも溶けてしてしまってもいいと思った。けれど、私のことをいなくなりそうだとこぼしたこの人を置いていくのは少しだけ、違うのかもしれない。
「おれは、目があるうちは見ていたいし、耳があるなら声を聞きてェ。匂いを感じていたいし、さわっていたいと思う」
 ひとつひとつ、はっきりとした形の言葉だった。それは確かな存在として私を求めてくれているということなのだろうか。瞬間、まるで達したときの電流に似た熱が体中を走った。こうして肉体と肉体が反応し合って得られるものもある。それはとても幸せなことだ。けれど。
「それって私じゃなくてもよくない?」
「よくねェよ」
「よくない……か。そっか、へへ。私もだよ」
 そうだったんだ。ありがとう。嬉しい。あなたの中での私を占める割合がたとえほんのわずかだとしても、特別になれて。
 けれど、ウソをついた。私はあなたの血液になって全身を巡りたいし、皮膚になってあなたを守りたい。甘ったるい香りの汗になって近寄る女は全員牽制したい。人体のことはよくわからないけれど、爪の先にも、髪の毛一本一本にも存在できたら幸せなんだ。そうなりたいと思っていたから。
 ぎゅ、と力が入ってより肌と肌が密着して、汗が混ざり合って、体温を分け合って、それでも私の願いは叶わないのだと思い知る。何が正しいのかはわからないけれど、少なくとも私は間違っているのかもしれない。
「……ね、しようよ」
「はァ〜、クソ暑いから我慢してたってのに」
「どうして暑いと我慢するの?」
「具合が悪くなったら困るだろ」
 私の前髪をそっと横に流しながら微笑むあなたに意識を失いそうになる。気候のせいか、私自身のせいかはもうわからない。意識を持っていかれそうな蒸し暑さすら今の私には心地よかった。
「じゃあお水飲んでからにしよう。そこのコップ取って」
「飲ませてやろうか」
「うん。ありがとう。好き」
「煽るなって」
 小さなため息と一緒に一度起き上がって水の入ったコップを取ろうとする愛おしい背中。ゆっくりと体を起こし、そこに向かって「……煽ったのはそっちだよ」と言葉にした。聞こえないように。でもしまっておくのも違ったから。
「何か言ったか?」
「好きだよって言った」
「本当に……あとから無理だとかやめろって言っても知らねェからな」
「そんなに?」
「ほら、いいから口開けろ」
 一度エースの口内に含まれた水が私の口に流れ込んで、飲み切れなかった一部が首を伝い胸元へとこぼれていった。「ハハハ、濡れちまったな」と、水でびしょびしょになったシャツのボタンに手をかける。指先が肌に触れるたびに、私の思考は融解していく。

 溶け切ってしまう前に本音を知れてよかった。私のいびつなわがままで悲しませるところだった。せめて、あなたが寂しくないように、あなたより先に死なないように。あなたの願いを叶え続けるためにそばにいるよ。
 だから……この航海の果てでどうか、一緒の海に還れますように。

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