隠されたおねがい


 一、二か月に一度、長い間同棲している多忙な彼から定期的に発せられる言葉がある。それは大抵、私がご飯もお風呂も済ませ、動画を見たり、読書をしたり、ストレッチなんかをしている穏やかでのんびりとした時間帯に、悪びれる様子もなく放たれる。

「頼みがあるんだが」
 約一ヶ月ぶり、ざっくり三十回目のお願い。帰宅してご飯を食べ、お風呂へ向かうのだろうと思いきや、くあっと欠伸をしながら大好きな彼は私の隣に座り込む。本に視線を落としたままで続きを待たずに「前髪?」と尋ねる。すると「いや、今回は全部だ」と、私の肩に頭を乗せた。全部か―ため息だと思われないように小さく息をついてから、しおりを挟んで本を閉じる。今日の読書タイムはおしまいだ。
 ヘアカット。このお願いはこちらの都合はお構いなし。共通の友人に美容師がいるというのに、予約を取るのが面倒なのだと彼は言う。友人であるシャチは、休みの日にカットするよと私にもローにも声をかけてくれている。実際に何度かシャチの家まで行ってカットしてもらったこともあった。しかも、今回のようにローの都合で突然。それでも喜んでカットしてくれて、シャチには悪いけれど助かっていたのに、その頻度は減っていき、そしていつしかなくなった。その原因は分かっている。ある日、自分の前髪を切っているところに遭遇したローからついでに切ってくれとお願いされた。ローの面倒ゲージが上がっているところで、私が前髪をカットしてあげたのがすべての始まりだ。
 外に出ることもなく、面倒な散髪を済ませられるのならばこれ以上楽なことはないだろう。最初に前髪を切ってあげてから数週間後。ローは通販でバリカンやハサミを購入し、セルフカットのコツがまとめられている動画のURLを私に送り付けてきた。
「何でも器用にやるんだから、それなりにできるだろう」なんて言う。世の中の美容師に怒られろと思ったし、実際にシャチに愚痴ってみた。けれど「まァ……できちゃうんじゃない? 器用だもんな」と適当に返されて、危うくスマホを壊しそうになった。実際に私はそこまで器用ではない。力が発揮されるのは好きなこと限定なのに、そうだと説明しても謙遜と思われてしまう。どうして。
 まぁ、そろそろかなとは思っていた。何なら早く切らせてほしいとさえ感じていた。心の準備はしていた。しかし、私にもその日の気分というモノがある。今日はもう、このままのんびりしていたかった。明日なら喜んでカットするのに。けれど、それを告げるとローが不機嫌になる。そのほうが面倒だ。
 折り畳みの椅子やらシートやらをローは自ら部屋に持ち込んで、私はハサミとクシの入ったポーチを取り出し、タブレットでいつも参考にしている写真を表示させる。そうしている間にローは勝手にケープをかぶり、行儀は悪いけれど椅子に座り、切られる状態になっている。その姿を見るのは嫌いではない。ケープだって美容室のものではなく、百円均一で購入したチープなものだから、格好がいいとは言えない。私だけが知っているローだ。
 襟足がずいぶん伸びて、素人の私が切ったせいでパラパラと不格好になっている。トップのボリュームも増え、あらためてみるとなかなかひどい有様。そこをローは顔の良さ、スタイルの良さでカバーしているのだ。
「ねえ」
「何だ」
「美容室が面倒なら千円カットは? 早いし安いからいいんじゃない? アタリハズレはあるみたいだけれど、どう考えても私がカットするよりもいいと思うし、当日でもさっと入れるでしょ?」
「……」
「え、なぜに黙るし」
 カット自体は嫌いではない。忙しいローと触れ合える数少ない時間だから。けれど、素人の私には限界がある。試行回数が増えても決して写真と同じようにはならないし、なんなら切りすぎて地肌がうっすら見えてしまうこともあるから、プレッシャーは感じている。
 帽子をかぶるしすぐに伸びるから問題ないとローは言うけれど、そういう問題ではないと私は思うのです。できることなら最高にカッコいい状態にしてあげたいのだ。でも、なかなか難しい。
「考えたんだ」
「何を?」
「ただのカットだと理解してはいるが、常に無防備で、ハサミやバリカンという刃物、凶器を向けられている状態だ」
「ん? うん?」
「何が起きてもおかしくねェ」
「……はは、大げさだなぁ。赤の他人ならまぁわからなくもないけど、シャチくんならいいんじゃない? 付き合い長いでしょ? 私だって手元が狂うこともあるかもしれないし」
「……ハァ」
 素直な感想を述べただけなのに、なぜこんなにも重いため息をつかれたのだろう。困り果てながら、私は上のほうの毛束をヘアゴムで縛ってバリカンのスイッチを入れる。ウィィィィン、と規則正しい音が部屋に響く。

「お前になら切られようが刺されようが構わねェ。それよりも、ただでさえ面倒なカットにわざわざ時間を割くなんてクソだ。野郎よりも最愛の女とすごしたほうがどう考えてもQOL値が高いに決まってんだろうが」

 じょり。あっ、マズい。つい力が入ってしまった。ほんの少しでいい刈り上げ部分をオーバーランした気がする。慌ててスイッチを切る。おそるおそる結ばれた毛束を持ち上げて確認すると、やはり刈る予定ではなかったところまで達していた。
 それにしたって、普段は大した愛の言葉は言わないくせに、どうしてこんなときにさらっと、恥ずかしげもなく言ってくるのだろう。つまりこのミスはローのせい。ローが悪い。繊細な作業をしているというのに、突然私の心を鷲掴みにするようなセリフを吐いたせい。でもつまり、髪型の仕上がりよりも、私といる時間を大切にしてくれているのだと、大げさに言うのなら、私には命を預けてもいい、そういう存在なのだと、そう解釈してもいいのだろうか。それってとんでもなく、嬉しいじゃん。
「え? 今ちょっと聞こえなかったから……もう一回」
「……絶対に聞こえてただろう」
「う〜ん……もう一回、最愛の女≠チて言ってみてよ」
 ローの肩がピクリと動いて、ケープの端でギリギリ落ちずに耐えていた毛束がはらりと舞った。自分で言っておいて恥ずかしいのだろうか。聞こえていたのがバレているのなら、たまにはわがままを言ってもいいはずだ。困らせたって許されるはずだ。一体どんな反応をするだろうか―そんなわくわくに胸を躍らせながら、刈り上げ部分を修正すべく再度毛束を手に取る。すると、バリカンの音がしないからか、急にローが体をひねりこちらへと顔を向けた。
「そんなに聞きてェなら、このあと嫌ってほど、何回でも言ってやるよ」
「へ」
「終わったらベッドで待ってろ」
 手首を掴まれて、毛束を結ぼうとしていたヘアゴムが床へ落ちる。ローがベッドで待っていろと言うときは、つまり、するぞという合図なのだ。いつもは私がソファでうたたねをしていたり、お酒を飲んでいたり、何かの片手間にふわっと告げられる。けれど今は違う。その灰青はいつにも増して強く濃く、私を映している。普段ならすんなり受け入れるのに、逃げる必要なんてないのに、こんなにストレートに求められたことが妙に落ち着かない。腕を振り払おうとしても、びくともしない。
「えっ、待って……あのさ、いつもと反応……違うよね?」
「おれもお前の要望に応える。それだけだ」
「それならその、今さら〜っと一回言ってもらうだけでいいんですけど」
「サラっとで済むもんか。おれが満足してイクまでが一回だからな。覚悟しとけよ」
 あの、違います。日本語って難しい。その回数ではないです、途中から話が変わっていませんか、なんて言い返すこともできずにいると、ローはにぃっと口元を歪ませ、満足げに前を向き座り直した。その背中が、さっきまでとは違ってピンと伸びている気がした。
 最初こそ本当に面倒で頼んできたのだろう。けれど、今となっては私との時間を大切にしたいという可愛らしいお願い事なのだと分かったから、今日はローが満足するまで付き合ってあげよう。
 どうにか刈り上げ部分をごまかして、いつもより手早く全体の長さを整え、毛量を減らし、ローをお風呂場へと押し込んだ。後片付けをしながら、うっかりどれだけの体力を使うだろうかと想像してしまった。じりじり、熱を帯びていく体を冷ますように麦茶をぐびりと一口。襟元を引っ張って今日の下着を確認してからスマホを手に取り、アラームの設定時間を六時から七時に設定し直した。
 きっと一時間じゃ足りないと思う。けれど、明日の私はご機嫌だろうから……ま、いいでしょう。

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