おめでとうの瞬間


 彼はたぶんその概念を、存在を、今年もすっかり忘れているのではと思った。去年、そうだったから。
 4月というものを、新生活の始まる忙しい時期、暖かくなってきたから半袖でいけそう、花粉が飛んでいる、としか認識していない。私がお祝いをしたくても「そうだったか! 気持ちだけで嬉しいよ、ありがとな!」と返ってくる。「おれにプレゼント買うんなら、自分のことに使って? そのほうがおれも嬉しいから」なんて、そう言われてしまってはどうしようもない。
 数ヵ月先までびっしり予約が入っている美容師。わがままは言えない。だけれど、そんな忙しい合間を縫って終業後にときどきご飯に連れ出してくれるから、誘えばオーケーが出るものと思い込んでいた。
『明日、仕事のあとにご飯でもどう〜?』
『ごめん、明日は職場の仲間と飲みに行くんだ! 明後日でもいいかな?』
 ああ。一瞬で心の中が暗雲で覆われた。もっと早くから言っておけばよかった。予約しておけばよかった。飲み会はそれより前から決まっていたのかもしれないけれど。それ、絶対に誕生日祝いじゃん。
 プレゼントはなくても、せめて食事をして、なんてことないひとときを、誕生日のシャチを一瞬でも独り占めしたかったのにな。
『じゃあ、明後日ね』
『おう、何食いたいか考えておけよー!』
 しゅんとしたように大人しくなってしまったスマホの通知。あっさりとやり取りは終わってしまった。いや、そもそも普段のやり取りだってこんなものだ。何もおかしなところはない。私は私に言い聞かせる。
 ごろんとベッドに転がる。そう、明日がシャチの誕生日だということ以外は何も変わらない。ただの日常だ。いいな、私も一緒に飲みに行きたいな――

 ピンポーンと、来客を知らせる呼び鈴が鳴って私はハッと体を起こした。時計へと視線を向けると、やり取りから1時間ちょっと経っていた。寝てしまっていた。それにしたってこんな時間に、一体。モニターを見ると、見慣れた丸っこいフォルムの帽子をかぶった人物の姿があった。
「えっ、シャチ!?」
 応答する前に玄関に向かった。どうして、嬉しい、でもどうして。ぐるんぐるん、考えがまとまる前に私はドアを開けていた。すると、あまりの勢いに驚いたのか、少しだけ肩を弾ませた愛しい人の姿があった。
「そんなに驚いた顔しちゃってどした? それに、ちゃんと確認してから開けないと。おれの変装した悪人だったらどうするの?」
「あ、うん。ごめん。急に来てびっくりしたから」
「もしかしてメッセ見てない?」
 メッセ。なるほど、何か送ってくれていたんだ。シャチは私の頭をなでるようにポンポンと触れてから中に入り、私の代わりに施錠をした。上がり框に腰を下ろしてブーツの紐を解く。魔法のようにするするっとほどかれていく様を、まだ完全に覚醒しきっていない状態のままぼんやりと眺めていた。カットだって、パーマだって、アレンジだって自由自在。シャチの指先は魔法の杖みたいだ。
「あっ、もしかして寝てた? パジャマではなさそうだけど」
「うん。気づいたらいつの間にか、のほう」
「そっか。おれさ、今年もまたがっかりさせちゃうところだったと思って」
 そう言ってシャチはぎゅっと私の体を包み込んだ。すり、と私の顔に頬を寄せて、かぶっていた帽子がぽとりと床に落ちていった。シャチが愛用しているスタイリング剤の軽やかな甘さが微かに香る。
「おれ、明日誕生日だった。祝ってくれようとしたんだよね」
 そう言われると、それはそれで……シャチのあたたかな体温が移ったみたいに、急に照れくさくなってしまった。
「そ、そうだっけ、あっ! 本当! 明日、誕生日だね?」
「本当に演技がヘタクソだなァ。最優秀へたく賞じゃん」
「えーと、それで、わざわざうちまで?」
「うん。今年はプレゼント、もらおうと思って。ありがとな」
「うそ! 待って、用意してないよ!?」
 プレゼント。毎年いらないと言っていたシャチから発せられた言葉に心臓がドンっと跳ね上がった。動揺した。そんな、それなら、シャチに似合いそうな帽子だったり、ハンドケアだったり、ケーキだったり、たくさんたくさん用意したのに。
 そんな思考を遮るように、シャチは私をおとぎ話のおひめさまのように抱え上げた。くるりとステップを踏んでからリビングの方へと向かう。
「いーの、もうもらったから」
「だって、今、プレゼントって? もらった?」
「うん。会いたいなって。びっくりしたような笑顔が見れたから、もう十分! それに一番におめでとう、もらえるじゃん」
 ソファにゆっくりと放たれた私は顔を上げた。壁に掛けられている時計の針は、もうすぐ一番高いところで重なろうとしていた。
「でも……ここからだと職場遠いのに、お休みの前の日でもよかったんじゃない?」
「そうしたらおれの誕生日のあいだ、一日中、なんならその次の日の晩に飯に行くまで悲しい顔をさせてたかもしれない。今日、店長に言われて気づいたんだよ。明日はみんなからのおごりだよって。本当に毎年毎年学習しねェんだよな、おれ」
 頭をわしゃわしゃとかきながらごめんな、と呟く。隣に腰を下ろしたシャチがそっと私の手を取った。向けられた眼差しが、サングラス越しでもわかるほどに甘く柔らかく熟れた果実のようだ。たまらずに手元へと視線をそらした。
「もうすぐ誕生日だって、言ってもいいよ?」
「その……私が勝手に誕生日を特別だと思ってるだけで、シャチにはシャチの考えがあるんだし、押し付けるみたいになっちゃうと思って……無理しなくていいんだからね?」
「うん。特別祝うものでもないって思って生きてきたけど、こんなに可愛い瞬間を逃すのってもったいないよなって思い直したところ」
「え、何それ、可愛い瞬間?」
「そ。おれのことをいっぱいい〜っぱい考えてくれてる瞬間!」
 結局、こんなに嬉しいのは、ギフトを受け取ったのは私のほうなのだ。じゃれるように抱きついてきたシャチが少しだけ頬を赤らめているように見えて、私もぎゅっと力いっぱい抱き返した。それに、シャチのことを考えているのは誕生日だけではないのだと、これからたくさんたくさん、伝えないと。そんな日々を重ねていきたい。

「シャ〜チ」
「なぁ〜に?」
「誕生日、おめでとう」
「おう、ありがと」

 翌朝、シャチは私のブレスレット、しかも男がつけるには少し華奢なデザインで、普段のシャチのつけているアクセサリーの系統とは異なるものを「今日、これ借りていくね」と腕につけ、仕事へと向かった。
 お気に入りのあの子は今日一日、シャチと一緒。その事実にやっぱりどうしようもなく嬉しくなってしまって……ベランダから、小さくなっていく彼に手を振る。そのまままだ曙色の空を眺めながら、口元をだらしなく歪ませてしまうのだった。

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