卒業証明


 あちこちで浮かれたような、賑やかな声のする学校。その声も少しずつ落ち着いて、体育館の近くの開けた通路、掲揚台のそばではためく校旗を眺める。さっきまでいた3人組が去って行って、少しだけセンチメンタルな気分で噛み締めるように校舎を眺めていた。
 卒業式を無事に終え、各所への挨拶も済ませた。クラスの焼き肉屋での集まりは夕方。まだ時間がある。私に会いに来そうな人物はもういないかな。ぶらっと校内を散歩して帰ろう。そこまで考えたところで、あの笑顔が脳裏をよぎった。そういえばまだ彼に会っていないな。
「セ〜ンパイ」
 思考は、現実化する――偶然みたいな、運命みたいなタイミングってあるんだよなぁと思いながら振り返る。今日までに、何度も聞いた言葉。低い先輩、高い先輩、ご機嫌を取るような先輩に、苛立ちのこもった先輩。色々な声を聞いてきた。今日は、いたずらな、揶揄いを含んだような声色だった。
 どんな反応をしようか少しだけ迷って、いつもどおりに「なーに? ペンギンくん」と、お姉さん風を吹かせながら微笑みかけた。
「卒業おめでと」
「ん、ありがと」
「モテモテだから、話せなかったらどうしようかと思った」
「またまた、私に挨拶に来る子なんて部活の後輩しかいないよ」
 会っていないなとは思ったけれど、絶対に会いたかった訳でもない。会ってしまうと、もう会えなくなることがずっしりと心にのしかかりそうだったから。
  たまたま短期で働いたバイト先で一緒になって、私がバイトをやめてからも学校で声をかけてくれるようになった。そんな関係性。それだけの、関係性。好きなのかなって認めなければ、このままキラキラした思い出として過ぎ去っていく。無駄にがっかりせずに済む。
 最後の最後で彼の姿を思い浮かべてしまったから、私達は引き寄せられて対面してしまった。だけれど、いざペンギンくんを目の前にしたら、やっぱり年下らしいかわいさはありつつもかっこよくって、こうして会って会話を交わせてよかったと思う。
「とりあえずさ、ちょっとだけ時間ちょーだい?」
「ぶらっとしたら帰ろうと思ってたからいいよ」
「おれも卒業式、しようと思ってさ」
「卒業式? どういうこと?」
 ペンギンくんの高校生活はまだ一年ある。首をかしげた瞬間、ペンギンくんが一歩踏み込んできて、私の頭の方へと手を伸ばす。ぴた。ペンギンくんの予想外の行動に体が固まった。おでこの上のあたりがゾワゾワとした。ペンギンくんが触れたからだ。ゆっくり離れたその指先には一枚の花びらがあった。
「ただの後輩から卒業させてよ」
「えっ? どういう?」
「まァ、最初は友達でもいいけど……おれ、彼氏になりたいんだよね」
「か、彼……?」
「あれ、意外だった?」
 意外だった、というよりはペンギンくんの態度にはそういった気持ちがあるように見えなかったのだ。バイト先でも、学校でも。よく目が合う気がしたけれど、だからって何がある訳でもなくて、誰にでも平等な態度を向けているように見えていたから。
 ペンギンくんからの挨拶や声かけは、この学校では人気のあるグループのうちの一人の、アイドルのファンサ、程度に受け止めていた。私みたいな凡人がペンギンくんに認知されているだけでラッキーなのだと思うようにしてきた。
「えっと、ファンサ、じゃなくて?」
「ファンサ?」
 そう訝しげに首を傾げながらもペンギンくんは顔の近くで親指と人差し指をクロスさせ、ハートのマークを作り上げる。
「こんな感じ?」
「そう」
「そっかー、トクベツ、伝わってなかったか」
「と、とくべつ?」

 チラリと歯を見せて笑うペンギンくん。眩しすぎてクラクラする。信じられない。ペンギンくんの口からこぼれ落ちた“特別”という言葉。どうしよう、本当に? こんなに嬉しいこと、あっていいのかな。
「そう、特別。それにさ、先輩からの視線もトクベツだって思ってたの、おれの勘違いだったのかな」
「あっ」
「ね、やっぱりそうでしょ?」
 どうやら私は無意識に熱視線を送っていたらしい。気づかれていたのだ。つまり、もしかしなくても――よく彼と目が合うと思っていたのは、お互いに特別な視線を送っていたから、なのだろう。
 少しだけ屈み込んで私の顔を覗き込んでくるペンギンくんの視線。顔が熱い。どうしよう、思考がうまく整理できずにいるとペンギンくんがすっと両手を差し出してきた。

「卒業証書、下さい」

 ずるいよ。年下のくせしていつもタメ口だったのにこんな時だけ。
 私は大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせながらゆっくりとペンギンくんの両手に手を伸ばす。落ち着くはずもない心臓の鼓動。けれどキュッと握り返してきたペンギンくんの大きな手は、まるで吸い付くみたいにぴったりとくっついて、私の心にはまったような感覚だった。
 卒業証書をねだるペンギンくんへの答えはひとつしかない。少し恥ずかしいけれど、「先輩と後輩の関係から卒業することを……ここに証します」と、小さく呟く。するとペンギンくんはぺこりとお辞儀をして頭を上げた。その表情は今までに見たことのない、顔をくしゃくしゃにした満面の笑みだった。

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