拾う神様の座席予約


 連日の激務にミシミシと痛む私の肩。ここは潔く休憩したほうが作業効率の上昇が見込めるだろうと重い足取りで中庭の緑の中へと向かう。忙しい人間が多いせいか午前中はほとんどだれも寄り付かない場所だ。無人のベンチに座ろうとしたところで「早めの休憩? お疲れさん」と、いつもの仕事仕様よりも少しだけ高い同僚の声がした。

「お疲れ〜。ちょっとここが爆発しそうでさ。息抜き〜」

 ベンチに腰掛けて肩をポンポンと手で叩く。今の私はこれが精一杯だった。まさか、こんなところで、こんなタイミングでシャチと二人で会話する瞬間が訪れるとは思っていなかったから。
 シャチは気さくで、人当たりがよくて、部署内でも上司から後輩まで、幅広い人間に好かれている。女子達の話題の中心はシャチか、別の部署のトラファルガーさんかペンギンさん。そんなシャチから時々向けられる優しい言葉についつい勘違いしそうになるけれど、特別なわけがないと言い聞かせながら毎日必死に業務に励んでいる。この厳しい職場でのムードメーカーであり、癒しだ。
 今、おかしな挙動になっていないだろうか。心臓が早鐘を打つ中、ひたすらに普通を装う。すると同期である彼は腕をぐっと空へと向けて伸ばしながらこちらへと歩いてくる。そしてベンチの裏、私の背後に立って「最近の仕事量じゃそうもなるよね。ちょっと前向いてみ?」とナチュラルに私の肩に触れてきた。
 肩に置かれたシャチの指先が一瞬だけ首筋に触れて、思わずびくりと肩を揺らしてしまった。バレていないことを願いながら考える。これってすごく……近くないかな。爽やかさがありつつも、ダージリンティーのような甘い香りがいつもよりも強く感じられる。書類の確認、やり取りなんかで話す時の距離ともさして変わらないけれど、肩もみ――ボディタッチは同僚の距離感としては一般的にはどうなんだろう。
 シャチは以前、美容師を目指していたと聞いたことがある。飲みの席で、薬品が合わなくて諦めたのだと言っていたような。それならヘッドスパや肩もみの研修なんかもしていたのかもしれない。スイッチをオフにしに来たはずの私の脳がぐるぐると膨大な情報を処理し始めたところで、気持ちよさをあっという間に通り越し、肩井を起点として肩全体に広がっていくような痛みが走った。

「た! 痛い! そこめっちゃ痛い!」
「悪ィ! そんなに力入れたつもりなかったんだけど……確かにめっちゃこってるね」
「本当に、びっくりした」

 これはシャチの指圧に耐えられなかった私のこり固まった肩にも言えるが、普通に肩をもんでくれるシャチに対して出た言葉でもある。

「最近の仕事量半端ないよね、外の空気も吸いたくなって当たり前。とりあえずこのまま待ってて。コーヒー買ってきたげる」

 指を使って圧をかけるのをやめ、手のひらを使って私の肩全体をほぐすようにして何度か円を描くように動かしたあと、後ろから体を倒してひょこっと顔を見せたシャチは「コーヒー、飲むでしょ?」と口角を上げた。
 何、その不意打ちの笑顔。サングラスというほどは濃くないけれど、薄っすらと色のついたレンズの向こうでシャチは目を細めている。私は考える間もなく「あ、うん」と口にしていた。謎のVIP待遇である。短時間とはいえ肩をもんでくれた上に、コーヒーを買ってきてくれるというのだ。ぼーっとしたくて飲み物を買わずにここまで来てしまった私にはありがたい申し出だ。けれど、そこまでしてくれる理由が見当たらない。

「いやね、今日も朝早かったでしょ? おれもちょっとだけ早く来たらさ、もう仕事してるの見かけたから。だからね」

 心を読まれたのかと思ってドキリとしたけれど、シャチは私の顔を見ながら自身の眉間をトントンと指差した。なるほど、色々と考えすぎて無意識にしわを寄せていたみたいだ。シャチはたんっと軽やかに踵を返すと出入口の近くにある自販機の方へと歩いて行った。
 まぁ、私が足を引っ張るとシャチにもしわ寄せが行くし……そんな中でふらりと席を外したら、仕事を放り投げてどこへ行くんだと思われても仕方がない、という結論にいたった。小言を言うよりも手玉に取って集中力が途切れた私のやる気を上げた方が、手っ取り早くていいのかもしれない。


「はーい、お待たせ。微糖でよかったよね」

 建物の中にある小さな庭ではあるけれど、いい具合に自然光が差し込んでくる。頬を撫でていく風も柔らかい。ベンチがギィっと音を立てて揺れて、シャチが私にコーヒーを差し出しながらゆっくりと腰を下ろした。また、ふわりとシャチの香りが鼻孔をくすぐる。
 ごめんね、シャチの期待には答えられそうにない。私の脳は休むどころかフル稼働している。全く休めていないのは君のせいだけど。
 受け取ったコーヒーのデザインは、普段から私が飲んでいるものだった。たったそれだけなのに覚えていてくれたのだと嬉しくなって、胸がぴんと跳ね上がった。

「ありがと。これ、好きなやつ」
「いーえ、どういたしまして。おれ、記憶力はいいほうだからさ。最低限同じ部署の人達の好みは把握してるよ」

 跳ね上がった胸は着地に失敗して地面にべちゃっと落ちた。まぁ、そっか。そうだよね、私も同じ部署の人達の中の一人。当たり前だよね……でも落ち込んでる場合じゃない。私よ、ポジティブに考えるんだ。これはちょっとしたご褒美だ。もしかしたらシャチが私に気があるんじゃないか、なんて妄想を働かせてテンションを上げる。うん、それで午後も乗り切ろう。

「それにしてもさ……このベンチ、めっちゃ居心地いいよね」

 一気に半分近くは飲んだであろうコーヒーの缶をベンチに置いたシャチがそうぼやきながら背もたれに寄りかかり、大きく上体を後ろに反らしている。居心地――特に座り心地がいい訳でもないし、むしろ固くて冷たい。毎日仕事に追われている私の人生のようだ。どこに心地のいい要素があるのだろうかと問いかけるように首を少しだけ傾けた。

「何の変哲もない固いベンチじゃないかって? まァ座り心地っていうよりは、空気感的な? 四方を鉄の塊に囲まれててもさ、見上げればいいお天気だし、何より隣にさ……」

 そう言ってシャチが私の方をジッと見ながら、眼鏡を少し上へとずらした。いつもはハッキリとは見えないその瞳。今は真っ直ぐに私だけに向けられているのだと分かって、急に身体に新鮮な酸素が取り込まれたみたいだった。熱くなる。耐えきれずに手元のコーヒーの缶へと視線を落とした。

「お前がさ、いつも愚痴も言わずに頑張ってるの知ってるよ。そういうのって伝染するよね。腐らずにやらなきゃなーってなるよ。パワーもらえるっていうかさ……だからおれもいいところ、見せたいんだよね」

 私の頑張りを見てくれているんだ……そうやって私の心を動かす言葉をくれる人。ゆっくり顔を上げるとシャチは力こぶを見せるようなポーズを取って、ニッと歯を見せながら私に笑いかける。ブワッと蒸発してしまうかと思った。癒しどころか、ガチ恋、してしまいそう。

「いつも頑張ってるって……そう思われてるのはシャチのほうだよ? みんなシャチにいいところ見せたいって思ってるし」
「そうなんだ……元々の性格のせいかな。嬉しいけど、おれはそういうところ見せたいのって、ひとりだけなんだよね」

 よいしょ、と立ち上がって残っていたコーヒーを一気に飲み干したシャチが「さて、頑張っちゃいますか」と、もう一度私の方へと顔を向けた。見上げるようになった角度のせいか、さっきまでの柔らかい雰囲気とは違って、まるで挑発するような笑みを浮かべているように見える。

「意味、通じた?」
「あっ、えっと……うん」
「迷惑?」
「迷惑じゃ……ない、です」
「オッケー、超やる気出た」

 いいところを見せたいと私に告げたシャチの、いいところを見せたい人はたったひとりだけらしい。意味が通じたのか、迷惑かとわざわざ確認してきたということは、もしかしなくてもその“ひとり”は私、なんだろう。
 シャチはスキップになっていないような不思議なステップを踏みながら歩いて行く。そして急にピタッと立ち止まったかと思えば自販機の横のゴミ箱へと、遠くからバスケのシュートを決めるかのごとく缶を放り投げた。その空き缶は見事に音を立ててゴミ箱へと吸い込まれる。シャチは満足気に振り返りピースサインを送ってきた。えっ、何それ可愛いんですけど。


「……本当に?」


 あまりにも小さくて、そよ風に持っていかれたはずの声に反応したようなタイミングでシャチがドアの向こうから半身をひょっこりと見せ、ひらひらと手を振ってくる。程なくして振動したスマホをポケットから取り出すと『お互い仕事もあるしゆっくりでいいんだけど、とりあえず隣は予約ね』とメッセージが届いていた。
 まさに恋に落ちたかもしれないというところでこれは――悲鳴のような喜びが全身を巡って、勢いよく立ち上がった。シャチの真似をしてスキップを踏みながら、飲み終えた空き缶をゴミ箱にポイっと投げる。すると缶はコツンと箱のフチに弾かれて地面へと転がり落ちた。

「はは……予約、かぁ」

 この缶みたいにうまくいかないことばかりだった。それでもへこたれずに頑張ってきてよかった――缶を拾い上げてそっとゴミ箱へと入れる。今の仕事の山を越えたら思い切って食事にでも誘ってみよう。ずっしりと重かったはずのパンプスは、羽のように軽くなっていた。

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