こころの中の靴下


 クリスマス、予定ある? プレゼント、何がいい? 十二月になると家族や恋人と行われる会話。当たり前のように享受していた日常。ぬるま湯のような世界。少し退屈さを感じていたあの日々は、それはそれでひとつの幸せの形だったのだろう。
 お気に入りの音楽をかけて、ベチパーの香りのルームスプレーをカーテンに吹き掛ける。少し放置しすぎたティーバッグをカップから取り出して紅茶を一口。ほう、と息をつく。休日の午後。
 そこから丁寧に爪を整えて、たまにネイルサロンに行って飾り付けてもらっていた指先も、手も、あっという間に傷だらけになった。美容室にもマメに通い、自宅でのトリートメントも毎日欠かさずに行ってきた自慢のロングヘアーもパサついて、赤茶けてきて、指通りが悪くなってからはひとつに結っている。
 この世界に来たばかりのころは何をするにもうまくいかなくて、バッサリ切り捨ててしまおうかと思うこともあった。けれど決心がつかなかった。無駄に長くて邪魔なだけのこの髪にすがっていた。私が元の世界で生きてきた証。いつか帰れるのでは、という希望だった。
 まさか自分が海賊というものになるとは想像できるはずもなく、どこか夢なのだと言い聞かせていて、ふとした瞬間に出てしまう他人事のような態度やそこから生まれる小さな気の緩みのようなものがキャプテンの苛立ちになっていたことも知っている。
 ひとたび船から降りてしまえば私はこの世界で生きてはいけないだろう。私が異世界で初めて出会ったキャプテンと仲間をこんなにも信頼しているのは、鳥の習性に近いのかもしれない。それ以外を知らないから。中途半端な意識も、山のようにあった不安や杞憂も、次第に薄れていった。
 なぜなら、思い返してみても特に未練がなかったのだ。家族とも疎遠だったし、仕事もとりあえずで就いたもの。彼氏もしばらくいなかったし、気になるのは読んでいたマンガの続きと、大好きな映画の続編が見られないことくらい、だった。

 クリスマスという概念はこの世界にもあるようだと知ったのはこちらへ来て一年目の冬だった。ほんの少しだけ心が跳ねたことを覚えている。ただ、海賊にとってはそう特別なものでもなかった。タイミングが合えばクリスマスを祝うという口実で宴を開く、程度のものらしい。
 当たり前だ。命のやり取りをしている最中で本当に存在するのかもわからない神の生誕を祝ってなどいられない。ましてやいくらサンタが、聖ニコラウスが聖人でも、奪略を繰り返すような野蛮な海賊に慈悲など与えないだろう。むしろ制裁を加えられてしまうだろう。まぁハートの海賊団にそんな心配はないと思うけれど。
 ここへ来て何年たったかは忘れてしまいそうになるけれど、私の想像していた海賊像とはあまりにもかけ離れていた。良い意味で。家族、そのものだった。
 だから、今が幸せじゃないなんて言ったらバチが当たる。世渡り上手、適応する力だけは人一倍あったことに感謝している。日に日に増える傷は今を生きている証で、切るタイミングを失った長い髪もみんな気に入ってくれていて、時々シャチに毛先を整えてもらいながら維持している。こんなにも生というものを意識して仲間と過ごす日々はあのころと比べ物にならないほど充実していた。
 そんな中、突然訪れた休息――久々に穏やかな時間だった。滞在していた島は冬島。そして季節柄、島中が色とりどりのイルミネーションで飾られていた。
 たんっ、と、船から降りた一歩目は羽が生えたような軽さだった。このクリスマスの雰囲気を全身に浴びるのは久々だった。世界は違えどその空気は変わらないものだ。すっかり板についたであろういつもと変わらぬツナギ姿ではあるけれど、久々に髪をアレンジした。イッカクにサイドを少し編み込んでもらって、後ろで緩いお団子にしている。
 隣にはキャプテン。ロングコートを羽織って鬼哭を片手に、カツカツと靴のかかとを鳴らして歩いている。どういう風の吹き回しか、昨日の夕飯の後「明日、少し街を歩くか」と声を掛けられ、今にいたる。
 ショーウィンドウの服に、雑貨に、装飾に心を奪われる。たまにはおしゃれに着飾ってキャプテンと束の間の非日常を味わいたい。キャプテンは私の希望であり、生きる意味。近頃はほんのわずかでも、私という存在を刻みつけられたらいいなんて思うようになった。一見ただのデート。それを日常ではなく非日常と思うことも、忘れていた乙女心が湧き上がるのも何だか不思議な感覚だ。まぁ、慣れたからこそ生まれた心の余裕なのかもしれない。
「フフッ」
「何だ」
「なんでもないです」
 この気持ちを伝えるつもりはない。それでキャプテンを煩わせたくないから。わずかに眉間にシワが寄ったキャプテンに二ッと笑いかけるとぽそりと「向こうでもこうしてクリスマスを誰かと過ごしたのか」と聞こえてきた。
 正直驚いた。キャプテンが前いた世界の話を聞いてくることは珍しい。出会ったころに一通り問われてからはほとんどない。
 クリスマスの思い出。思った以上に昔の自分を上手く思い出せなかった。それほどまでにここでの生活に馴染んでいるのだろう。記憶の海を泳いでいるとぼんやりと、ほんの少しだけあのころのシルエットを手に掴んだ。
「……ありましたよ。街をフラフラしたり、プレゼントを贈り合ったり。私のいた地域では七面鳥とかではなくフライドチキンを食べるんです。専門店があるので、予約して買ったお肉を頬張りながら映像配信を見たりしましたね」
「へェ……」
「えっ、キャプテンから聞いておいて、反応薄くないですか?」
「昔の男の影をちらつかせておいてよく言う」
「だから、キャプテンが聞いたんじゃないですか」
「有無だけで詳細は聞いてねェよ」
 語尾に苛立ちが見え隠れする。そんなキャプテンが何だか少しだけかわいく見えた。私を家族のような存在と思ってくれているのを承知の上で、からかってみたい気持ちがムクムクと膨らんだ。「今の男をちらつかせたら大変なことになりそうですね」と返してみた。
 すると、大きな歩幅でゆっくりと歩いていたキャプテンがぴたりと足を止めた。ぐるりと振り向く。その眼光は家族に向けられるようなものではなかった。それは、鋭い痛みを伴って私の胸をえぐっていった。
「おい」
「は、い」
 ぎゅっと右の手首を掴まれて、私は前にも後ろにも動けなくなった。どうしよう、ちょっとした冗談のはずだったのに。どうしてこんなにもキャプテンは――
 数年前の、気づいたらこの世界に、ポーラータング号にいた時のキャプテンの視線を思い出した。怖くて、声が上手く出なくなったあの時みたいだ。いつの間にか私の頬には涙が伝っていた。
「いや、なぜ泣く」
「だっ……だ……って、」
「……クソ、悪かったな。お前に男がいるとも知らずに連れ出して」
 放り出すように解放された右手がぶらりと下がって、同時に力が抜けてしまった私はその場にへなへなとしゃがみ込んだ。歩き出すキャプテン。いやだ、置いて行かないで。
 どうしてこんなことに……私も悪いのだけれど、それにしたってキャプテンだって、そんなに感情的にならなくたって……私の目に映されているのは美しく舗装された石畳と薄汚れた自分の靴。クリスマスだというのに、こんなの、あまりにも空しすぎる。じんじんとしている手首。街行く人々の視線が痛い。文字通り大変なことになってしまったのだという後悔で、潰れてしまいそうだった。
「そんな人……作る気もないのに」
 石畳にぽとぽとと落ちてシミを作ってはすぐに消えていく涙と同じように、その言葉は吸い込まれていった。もうどこにも行けない。そう思ったのに、カツンと音が鳴って、影が落ちて、よく知った靴のつま先が見えた。宙へと視線を上げるとキャプテンがいた。かなり険しい表情に見えるけれど、逆光ではっきりとは見えない。
「……お前な……紛らわしいこと言ってんじゃねェ」
「だって、冗談だって、キャプテンならわかってくれると思ったの」
 今はもう言わなくなったけれど「突然消えちゃったりして」なんて笑えない冗談だって「バカか」と流していたのに。どうして今日はそんなに怒るの。恋人でもないのに。それじゃあまるで……
「もしかしてキャプテンって、私のこと、好きだったりするんですか?」
 心に思いとどめたはずの言葉は音となり、空気を震わせ、キャプテンに届いていたらしい。ゆっくりと私の目の前にしゃがみ込んだキャプテンとパチリと視線がぶつかった。火花が散ったようだった。
「だとしたらどうすんだ」
「どうもしません……するつもり、ありません」
「それは、いつかこの世界からいなくなるからか」
 即答できずに目をそらしてしまった。キャプテンが帽子を取る。帽子を持った手が近付いてきて、私の頭にポンッと着地した。いなくなんて、いやだ。私がこの世界に来たのはきっと、あなたに引き寄せられたからだ。今の私には帰る理由がないのだ。残りの人生は全部、あなたの近くで使い切りたい。
「私は……いなくなりません。ここにいる理由しかないので」
 そんなことを言っても神のいたずらで叶わないかもしれない。それでも、サンタクロースが実在するのなら私はずっとここにいたいと願うだろう。ここで、みんなと生きていく力をください、と。
 ふぅ、とキャプテンは息を吐いた。私がみっともない、ぐしゃぐしゃな顔をしているからか、頭の上に乗せられていただけの帽子を深く下ろした。視界が真っ暗になって、体がふわりと浮いた。キャプテンに抱え上げられたからだった。
「悪かった。男ができるとしたって……あいつら以外でそうそうできるもんじゃねェって、少し考えりゃわかることだった」
「私こそ、変な冗談を……すみません」
「……最初こそ、おかしな奴が迷い込んだと思っていたが」
 そう言ってキャプテンは歩き始めた。おかしな奴とは、私のことだろう。私は揺られるままに、流れていく石畳を眺めて言葉の続きを待った。
「お前がこの世界で必死に生きようとするのを見ていると、おれも生きなきゃなんねェなと思うことが増えた」
「私だけじゃない……みんなもそうですよ」
「そうなんだが……たぶん、特別なんだ」
「とくべつ」
 特別って何だっけ。区別があるってことだよね。「それって、どんな"とくべつ"ですか?」と問いかけると「仲間であって、家族であって、でもそれとも少し違う特別だって言ったら、通じるか?……信じるか?」と返ってくる。
 キャプテンの特別。「だとしたらどうするんだ」とは違って、はっきりと言われてしまったら……どんな形であろうと応える以外の選択肢はない。キャプテンが嘘をつく理由も、私が嘘で返す理由も見当たらない。私の思っている特別と何か違うかもしれないけれど、私のこの気持ちも秘めておく必要はないと思った。
「通じてますし……信じます。私にとってもキャプテンは特別ですから」
「それは親鳥だとか、船長だからとか、そういうことじゃねェよな」
「もちろんです」
 そう答えるとキャプテンは歩みを止めた。この気持ちの始まりはそうだったかもしれないけれど、今は確かに"とくべつ"であると、言い切れる。
「……それなら、今から街をぶらついて、プレゼントを贈り合って、あいつらには内緒で唐揚げを買って食うのはどうだ。腹が減った」
「この後みんなで酒場に行くんですよね? 食べられなくなっちゃいませんか?」
「問題ねェ」
 ゆっくりと地上に下ろされた私は涙を拭って、自分の足で立った。もう一度この世界に生まれたような、晴れやかな気持ちだった。
 つい先ほどまで着飾りたいと思っていた私だったけれど、今からそこに時間を費やすよりは一緒に過ごす時間を大切にしたくて、そのまま唐揚げやケーキを食べ歩いた。それなりにおなかも満たされたころ、プレゼントは何がいいかという話になった。
 身に着けられる物や思い出の品もいいけれど――私は一緒にいられりゃそれでいいと言い張るキャプテンへ万年筆をプレゼントし、自分はプレゼントの代わりにひとつ、お願いをすることにした。

 私の髪を切ってくださいと言った時、キャプテンはぽかんとした表情を浮かべた。そりゃそうだろう。でも、そんなことでいいのかと呆れながらも了承してくれた。
 これは元いた世界へ戻るための最後の繋がりだったかもしれないし、まったくそんなことはないのかもしれない。どちらにせよ、私は彼のために生きたいと願った。決別の時だ。
 ぴん、と頭が後ろに引っ張られてからすぐに、ざく、とハサミが入った音がした。後でシャチに整えてもらうにしても、最初のカットはキャプテンにお願いしたかった。これできれいさっぱり、過去の私は今の私から分離する。

 それでももし、私がこの時空から消えてしまうようなことがあるのなら……心臓だけでもあなたの手元にあってほしい。そうしたら時空を超えて、心臓のない私はきっとハートの海賊団の私のままでその命を終えられるから。

 バラバラと床に散らばったいつかの自分をぼんやりと見つめながらそう伝えたら、少しだけ小さくため息のようなものが聞こえて、ハサミが床に投げ捨てられたのが見えた。
「そうなったらおれが、お前を探しに異世界とやらに行く術を見つけ出す……だから、んなこと言ってねェで隣にいて生きろ」
 ぎゅうっと後ろから抱きしめられて、あたたかくて。こんなに幸せなことがあるだろうか。私を抱え込んでいるその愛しい人の腕にそっと触れる。
「言いましたね」
「男に二言はねェよ」
 どんな顔をしているのだろう。少しでも見てやろうと思って頭を横にひねると、まるで待ち構えていたかのようなキスが唇にぶつかった。パンをくわえて走っていたら曲がり角でぶつかってしまった、あんな感じだろう。かわいいところあるんだな、なんて思って少しだけにやついたら、私の顔より大きないかつい手にがっしりと顔を固定されて口元を塞がれてしまった。
 永遠のような一瞬。離れてしまった熱に名残惜しさを感じていると、まるで見透かされたように再び手が伸びてきて、優しく髪に触れた。キャプテンが手に取った束がするりと右耳にかけられて、その少し上に何かが差し込まれたようだった。
「やる」
「えっ、何ですか?」
 ポケットから何かを取り出した動きが素早すぎて何かわからなかった。早く見たくて外そうと試みるも、それは髪に引っかかって動こうとしない。焦れば焦るほどピンと髪が引っ張られてしまう。見かねたのだろう、キャプテンが髪をいじる。そしていとも簡単に取り外すと私の前へと差し出した。そこにあったのはシンプルなゴールドカラーの髪飾りだった。
「クリップ……? バレッタ? どうして」
「正式名称は知らねェ。髪を切れとか言い出したから、何となくだ」
「わ……嬉しい、嬉しいんですけど」
「けど、なんだ」
「……その、何かあったらなくしてしまいそう、で」
 そう言うと、少しだけ困ったように眉を下げて「お前の代わりになくなるんなら、いくらでも買ってやるよ」と、くしゃりと笑った。そんなキャプテンの表情に、私はまた泣いてしまいそうだった。

 キャプテンにやりたいことがあるのは知っている。キャプテンは覚えていないかもしれないけれど、私が絶望していた時に話してくれたから。あの時は何のことかよくわからないことだらけだった。けれど、少しずつ理解して、今はその先の続きもある。
 何を差し置いてでも、ではないだろう。それでも、ちゃんと心に居続けられる存在に近付けただろうか。もしも私が消えたとして、本当に探してくれるのだとしても……すべての旅を終えた後だろう。たった数年の付き合いだけれどそれだけは、わかる。その言葉さえがあれば、私を探してくれているキャプテンを想像すれば、きっとどこに行こうと生きていける。だから私はキャプテンより先に死なないし、キャプテンを死なせはしない。
 これが私の行いがよくて施された慈悲なのか、それとも悪い子だとみなされ、袋に詰められて連れ去られた結果なのかなんてわからない。ただ、共に生きるという意味を心に投げ入れてくれたキャプテンこそ、わたしにとってのサンタなのかもしれない。

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