Swim-お互いの彼氏彼女が浮気していて別れたけれどややこしくなってしまった話-




 チリリリと着信を知らせる電子音が、夢うつつの私の意識を現実へと引き戻した。少し眩しく感じるディスプレイには彼氏ではなく『ペンギン』と表示されていた。ペンギンかぁ。正直出るか迷ったけれど、なんとなく出なきゃいけない気がした。通話アイコンをフリック操作しようとするもうまくできなくて、三回目のチャレンジでようやく通話中になった。
 意識がぼんやりしていたことも手伝って、ペンギンの言っている話がほとんど頭に入っていてこなかった。ふわりと脳内に着地したのは私の彼氏が浮気をしているのだということと、その浮気相手がペンギンの彼女だということ、そして今からその二人の所へとペンギンが向かうのだということ。
 途中からスピーカーにして布団の上に置かれていた無機質な物体。私はその暗い画面に向けて「うん」と「そうなんだ」しか発していない。電話はまだつながったまま。まだ夢の中にいるのでは、そう思っていた。まだちゃんと理解できていないけれど、これはきっと悪い夢に違いない。
「正直、このことを伝えるか迷った」
「うん」
「大丈夫……じゃないよな」
「そうなんだ」
「いや、お前のことだよ」
「うん。そっか」

 私とペンギンは中学のころからの友人で、そのペンギンの幼馴染みであるシャチとローくんと四人でつるんだまま、気づけば大学生になっていた。私とペンギンは大学近くの同じバイト先へ。そしていつの間にか、それぞれ職場内の別の人物に恋をしていた。
 それなりにお互いのことを理解していた私達はすぐに恋心に気がついた。気恥ずかしさはあったけれど、作戦会議を開いた。ペンギンが恋をするのも必然だと思った。まとう空気感とか、それこそ顔とか、ペンギンが時々口にしていた好みそのものだった。お前もな、と同じようなことをペンギンに言われて、当たり前のように恋の協力関係を結んだ。
 私がペンギンの、ペンギンが私の思い人を誘って四人で遊ぶようになった。勤務後にファミレスへ行き朝までしゃべったり、少し遠くの町までラーメンを食べに行ったり、イチゴ狩りをしたり、遊園地ではしゃいだり。
 その甲斐あって、まずは私の恋が成就し、数日後、ペンギンから『おれもオーケーもらえた、サンキュー』と連絡がきた。素直に嬉しかった。四人で会ってあらためて報告し合って、変わらずに私達はよく四人で遊んでいた。
 シャチとローくんにも報告したりして、二人してのろけんな、なんて言われて、それがたまらなく嬉しかった。こんなに楽しいこと、あるんだな。そう思っていたのに。

「お前も行くか?」
「あー。うん。じゃあ、一応」
 そう返すと、聞き慣れたバイクのマフラー音かすかに聞こえた。近くまで来ていたらしい。「ひとごとみてェだな」とぼそりと声がして、通話が切れたことを知らせるためにスマホの画面が一度ついて、そしてまた消えた。

 私は急いで髪をとかして、適当に上着を羽織る。昨日使っていたショルダーバッグに手当たり次第に荷物を放り込んで玄関へと向かった。選別する時間はなかった。聞こえていた音が消えて、少し離れたところからバイクを押して歩いてくるペンギンの姿が確認できた。ペンギンはアパートの前でバイクを止めるとヘルメットを外してふぅっとひとつ、息を吐き出した。
「よう、寝てたんだろ? 起こして悪かったな」
「っす。寝てる場合じゃないってことはわかったから起きた」
「そうか。急だったし、忘れ物とかねェか? 鍵もちゃんとかけたか?」
「うん。大丈夫」
 いつものファミレスにもう二人はいるらしい。ペンギンが色々と話してくれるのだけれど、どれも現実味がなくて頭に入ってこない。浮気しているなんて気づかなかった。まぁ確かに、同性の私から見てもかわいいもんなぁ。それにしても、ペンギンは一体どこからそんな情報を入手したのだろう。それにしても、私の心にはほかの感情が浮かんでこない。言われたとおり、ひとごとだった。
 ほら、と私の胸元にヘルメットが押し付けられた。高校生のころに私が好きだったバンドやブランドのステッカーが貼ってある、懐かしいヘルメットだった。早々に普通二輪の免許を取ったペンギンの後ろに乗せてもらって、スモやん先生に怒られて……よく卒業できたよねって、大学に入ってからも話していたっけ。
 いつもなら彼女専用メットを常備しているのに、わざわざこれを引っ張り出してきたのかな。それがすごくペンギンらしいと感じて、くすぐったい気持ちになった。浮気をされていたというのに、どうしてだろう、ペンギンが一緒だからか、まだ怒りも悲しみもなかった。
 ヘルメットをかぶって久々にバイクの後ろにまたがる。するとすぐにペンギンが手を後ろへと伸ばしてきて、私の腕を掴んだ。
「結構冷えるから、手、入れておけよ」
 そう言って自分のジャケットのポケットへと私の手を誘導する。こういうところがモテるのだ。彼女がいるペンギンに密着して、手まで入れさせてもらうなんて。少しだけ罪悪感を抱きながらもぴたりと背中に寄りかかって両手をポケットに差し込んだ。
 エンジンがかかる。ポケットの中でペンギンにしがみつく手に力を込めた。バイクが走り出す感覚は以前のままで、心が躍るようなもののはずなのに、私達の向かう先は殺伐とした、たぶん戦場だ。
 感じる冬の空気も、街の匂いも、タイミングよく消灯時間になって消えたイルミネーションも全部、今と過去とが重なる。どれもペンギンと一緒に吸い込んできたものだった。目に付くものがペンギンと共有したものばかりで、懐かしい記憶がシャボン玉のようにぷかぷかと浮かんで飛んでいく。私、こんなにいっぱい、ペンギンとの思い出を持っていたんだな。そう思っている間に、視線の先にはいつもの黄色い看板のファミレスがあった。


 とっくに目は冴えているはずなのに、やはり私の頭にはすんなりと会話が入ってこなかった。隣にいるペンギンが、対面にいる二人に質問を繰り返していて、私は本当に少しずつ、コップの中のアイスコーヒーをストローで吸い上げていた。
「だから! お前達だっておれらの知らないところでしょっちゅう連絡取り合ってただろう!? いくら四人で仲がいいからって、度が過ぎてんだろ」
「いくら昔から仲がいいからってさ、うちらの気持ちも少しは考えてほしかったんだけど」
 あ。浮気の原因が私とペンギンの仲の良さだと言われていることはスッと理解できた。何それ。だからって浮気していい理由にはならないでしょ。ペンギンとの友人としての仲が許せないって言うのなら、こんな関係はこちらから願い下げだ。私は残っていたコーヒーを思いっきり吸い上げて、千円札をテーブルに叩きつけた。
「もういい。バイトもやめる。勝手にやって。今までありがと」
「は? 逃げる気かよ!」
「逃げたのはそっちでしょ。気に入らないことがあるならまずはっきりと言えばよかったんじゃない? それを言わずに隠れてこそこそしてさ、最低」
 席を立つ。わずかにざわついた雰囲気も無視して、そのまま店を出た。もちろん誰も私を追ってこない。本当に終わった。終わり。言いたいことはもっとあった気がするけれど、きっとあれで十分だ。
 バイトはすぐに店長に相談して、最短でやめさせてもらおう。ペンギンを残してきてしまったけれど……あれでもはっきりと物を言うこともあるし、しっかりと自分というものを持っているから大丈夫だろう。
 それよりも、ここから歩いて帰るにはそれなりの時間がかかる。道中のコンビニであったかい飲み物でも買おう、なんて思いながら空を見上げた。大通りだから星なんかほとんど見えなくて、寒さのせいか鼻がツンと痛んだ。
 何百年かに一度の流星群をペンギンと見に行ったこと、あったな。付き合うということは難しい。ペンギンとの距離感が一番、心地いい。ずっとあたたかいお風呂に入っているような……そう思ったところでどうしてか涙がポロっとこぼれ落ちた。
 浮気をされていた、別れたという事実がトリガーになった涙ではないとすぐに気がついた。ペンギンとの関係性を否定されたみたいで、まるでおかしいと言われているみたいだった。そのショックの涙。ハンカチなんか持ってきていないから、袖でぐしぐしと涙を拭う。車でもバイクでもない、自分の足で歩くいつもの道のり。まるで違う世界へ迷い込んでしまったような、心許ない気持ちになった。
 それを元の世界へと引き戻してくれたのは、一台のバイクのマフラー音だった。この時間でもまだ車の往来は激しい。ペンギンのではないかもしれない、そう思いながらもどこかで彼のものでありますようにと願っている自分がいた。すぐそこのコンビニに、そのバイクが入って止まった。見慣れたヘルメットを取ったその人物は、ペンギンのバイクを借りて追いかけてきた元彼ではなくて、持ち主であるペンギン本人だった。
「よかった、寄り道しないで歩いててくれて」
「コンビニに入ろうと思ってた」
「一応、コンビニくらいは確認しながら帰ろうと思ってたけど」
 何を言うでもなく自然と一緒にコンビニの中に入って、ホットドリンクを買った。外に出て、駐車場の片隅で少しの間無言でそれを飲む。吐く息がほわっと白く色づいている。それが気まずくも何ともなくて、むしろ安心してしまった。
「ごめんね、あの状況を放置してきちゃって」
「いや、何を言っても平行線で意味がなかったから正解だよ」
「そっか。ペンギンは? 大丈夫?」
「おれ? お前がはっきり言ってくれたおかげかな、想像していたよりは」
 ペンギンはペットボトルをポンッと宙に投げてキャッチした。もしかしたら私の言い方ひとつで未来が変わっていた可能性もあるのでは、と考えた。修復する気はなかったから、あまり意味はないけれど。
「別れた……んだよね、ごめん」
「気にすんなって。いくら付き合ってるからってそれに甘えちゃいけない。ちゃんと思ってることは伝えねェと。信頼関係ってそういうもんだろ」
 言葉にしてくれる。だからペンギンは信頼できるんだ。安心って、そういうことだよね。
 少しずつぬるくなっていく紅茶を口に含んでごくりと飲み込んだ瞬間、急に得も言われぬ不安が胸いっぱいに押し寄せてきた。私はいいけれど……もしかしたら私という存在が、ペンギンの幸せな未来を奪っているのでは、と。
「ねぇ、ペンギン?」
「どした」
「ほ……本当に、大丈夫?」
「いや、せっかくお前ごと仲良くなってくれる彼女ができたって浮かれてたんだけど……上手くいかねェもんだよな。なんて思ってるけど、案外平気だ。ローさんとシャチに笑われんな、コレ」
「そうだね……何なら今から呼んじゃう?」
「あ〜ね、起きてそうだし、連絡してみっかァ」
 ペンギンがごそごそとポケットからスマホを取り出した。違うな、今必要なのは四人で今回の件を笑い話にすることではなくて、これからのペンギンの未来を考えること、なのではないか。
「あのさ」
「って、その前にさ」
 私がスマホを操作する手を止めようとペンギンの腕を掴んだのと同時に、ペンギンも私の方へと顔を向けた。何だろう。ペンギンの話がどんな話であっても、この私の気持ちは伝えておくべきだと思った。そして今までの関係性なら、ペンギンなら、この思いをきっと理解してくれるのではと思った。
「ん?」
「あ、何? ペンギンからどうぞ」
「じゃ、お言葉に甘えて」
 そう言ってペンギンはペットボトルを地面へ置くと私の前へと回り込んできた。そして向かい合うような格好で私の両手を掴んだ。ぽとり、私の紅茶は転がり落ちた。キャップ、ちゃんと閉めておいておいてよかったな、こぼれなくてよかった。そんなことを思った。
「おれのせいでお前の恋路をダメにしちまって悪かった。ショック、受けてないわけないよな。さっきも泣いてたみたいだし。ごめん」
 紅茶のボトルがずいぶん遠くまで転がって、コンビニの物置にぶつかって止まったのが視界の隅に見えた。それはもうどうでもよかった。
 ペンギンも同じこと、考えていたんだ――どうしよう、それがこんなに嬉しいなんて私、別れたばかりだというのにどうかしているかもしれない。
「あのね、気にしないでほしいの。私も、私っていう存在がこれから先のペンギンの幸せを邪魔しちゃうんじゃないかって思って、急に怖くなった」
「怖く……?」
「次にペンギンが恋したら、私は応援する。全力で。距離感とかもっとちゃんと考えるし、本当にペンギンの運命の相手だって思ったなら、私は」

 私はペンギン離れすることも考えるよ。幸せになってほしいから。そう言った後、ペンギンは手を離して黙り込んでしまった。そして、家まで送ると言ったきり何も話してくれなかった。
 
私は何を間違えたのだろう。ペンギンとの仲をおかしいと否定されてまで付き合うなんて意味がないと思ったのは本心だ。だけれど本当に怖くてたまらなくなって、少しは控えるよ、という意味だったのに。うまく伝わらなかったのかもしれない。どうしたら上手に伝えられたのだろう。
 心地よかったはずの沈黙が、まるで暗闇に落とされてしまったような恐怖へと変わってしまった。それがどうしてなのかは、わからない。

 ペンギンのジャケットのポケットに手を入れられないまま家について、そこからぱったりとペンギンとの連絡は途絶えてしまった。
年の瀬が迫った世界の空気が、ひどく乾いてるように感じた。





いつもなら些細なことでも、くだらないことでも、スタンプだけでもやり取りをしていたのに。
 お互いの相手同士が浮気をしていて、同日に別れる。そんな過去最悪の出来事の後、何のやり取りもないなんて、未読のままだなんて、今までの私達ならありえない状況だった。
 トーク画面の送信時刻のそばに付くはずの既読というたった二文字が永遠に付かないこと、終ったのだなと悟ったことは過去にもあった。彼氏と別れるのも初めてではないし、今回にいたっては相手の浮気が原因だ。
 けれど、私は今までの人生で一番ショックを受けていた。帰宅してからもじわじわと、真っ白なワンピースにこぼしてしまったコーヒーのシミのようにそれは広がっていった。原因は彼氏の浮気や突然訪れた別れではなくて、急に分厚い壁ができてしまったかのようなペンギンの態度。そして連絡が取れなくなってしまったことだ。
 その度合いはただただ増していく一方だった。つばを飲み込もうとしても喉がカラカラで、張り付くような違和感がいつまでたってもなくならない。手足も水に浸かっているかのように冷たいし、夜の静けさが世界の終わりのよう。朝、外の動き出した気配を感じても、私だけがどこかに閉じ込められているような、氷漬けにされているような気持ちだった。
 防衛本能が働いたのかもしれないし、寝付けなかったからかもしれない。けれど、いつまでたってもベッドから起き上がれなかった。大学にも行ける気がしなくて夕方までを布団の中で過ごした。何度も何度もぽこん、とメッセージの通知音がしてスマホを見る。けれどそれらはすべてペンギン以外からのもので、適当に返信をしては肩を落とす、という作業を繰り返し、ついにスマホを放り投げた。
 もしかしたら自ら連絡を絶ったのではなく、できない状況なのではとも思ったけれど、午前中にシャチから『サボり珍しいじゃん』と連絡があったのでそれはない。
 ペンギンとつるむようになってからというもの、シャチとローくんがペンギンに関する質問、連絡を私にしてくることがあった。つまり……もしも今日、ペンギンが何の連絡もなしに大学をサボったりしているのなら、何かあったのなら、その確認や連絡が私に飛んでくるはずなのだ。
 普通に顔を出したのだろう。そして昨日の出来事をまだ二人には話していないのかもしれない。シャチとローくんに相談することも考えたけれど、ペンギンがまだ何も話していないのだとしたら、少し言い出しにくい。それに、今話をしたら感情的になってしまうだけかもしれない。そう思うと何もできなかった。人に何かを伝えるということがとたんに怖くなってしまった。今までどうやって意思の疎通を図ってきたのか、わからない。
 普通に学校へ行って「おはよう」と声をかけたらよかったのかな。「散々だったね」「またいい出会いがあるといいな」「ペンギンはバイトどうするの?」「今日は四人で飲みに行こう」なんて、そうしたら浮気をされて別れたという事実は消えなくても、私達のあいだには何もなかったことになったのかな。それとも、このトーク画面みたいに無反応を突きつけられたのだろうか。わからない。
 虚無感、喪失感を消す方法がひとつも思いつかなかった。バイトももうバックレてしまおうかと思ったけれど、そんなことをしてペンギンに迷惑がかかっても嫌だったし、印象も最悪になるに決まっている。ご迷惑をおかけしますが辞めさせてください。そう直接伝えればまだ幾分マシだろうと、重い体をどうにか引きずってバイト先へ向かうことにした。


 堂々としていれば大丈夫だ。大丈夫。そう言い聞かせながら事務所へと向かう。ドアを開ける決心がつかないまま何分かたったその時、ギィっと音を立ててドアが開いた。「あっ、おはよう! その……大丈夫?」と声をかけてくれた。ペンギンと私が入ったのとほぼ同時期に他店舗から異動してきた現店長のマキノさんだった。
 大丈夫かと聞かれたということは、すでに昨日の一件が広まっているのだろうか。参ったなぁ。心音がドクドクと激しくなっていくのを感じる。何台も置かれているエアコンの室外機の音が、私を少しずつ壊していくみたいにやけに頭に響いた。私は「大丈夫だと思って来たんですけど、やっぱりダメかもしれないです」と、初めて人に弱音をこぼした。

 バイトを辞めさせてほしい旨と、迷惑をおかけして申し訳ありませんと謝罪の言葉を述べて頭を下げた。心臓がぎゅうぎゅうとと縮こまって、このまま消滅してしまうのではと思った。もう消えてしまいたかった。ぎゅっと強く目をつむって、しばらく顔を上げられずにいると「わかりました」と、いつもよりも少し低い声が聞こえてきた。そりゃ、恋愛のもつれでバイトをやめるなんて責任感もクソもないと思われても仕方がない。本当にすみませんと絞りだそうとしたところで「ちょうどたくさんシフトに入りたいって言ってくれてる子がいるから」と、店長の手が私の頭をポンと撫でた。
「私は本人から聞いた話しか信じないから、現状はここのスタッフ同士で何かごたごたが起きているという認識でしかない……誰が悪いとか、誰がかわいそうだとか、優劣をつけるようなことはしないわ。本当に悪が存在するとしても、絶対的な証拠がなければ今までどおり接する。ただ、こうして逃げずにここへ来て、ダメかもしれないと、辞めさせてほしいと正直に私に伝えてくれた。それ以上でもそれ以下でもない。顔色も悪いし、とてもじゃないけれど働かせることはできない。幸い今日は忙しくないし、さっきも言ったけれどシフトはいくらでも調整できる。だからゆっくり休んで。あなたの働きっぷり、好きだったわ」
 途中から立っていられなくなって、涙も止まらなくなって、膝から崩れ落ちていた。ここが普段あまり使われていない物置部屋でよかった。マキノさんは本当にできた人間だと、いい店長だと思った。この人のもとでならまだ働き続けたいなと、思った。
「いつでも待っていますよ」
 マキノさんには後日、クリーニングに出したユニフォームを返却しに来ると約束してそのまま帰路についた。
 ずっしりと重い足枷をひとつ外せたような気分だった。ただ、残りの片足から外れるビジョンは絶望的なほどに浮かんでこない。一生、呪いのように外れないのではないかとさえ思った。
 空を見上げる。店舗看板、ビルの灯り、人気アーティストのニューアルバムの宣伝を映し出している大型ビジョン、年々派手になるクリスマスまでの命のイルミネーション。視界に入るもの全部が邪魔をして、やっぱり星なんか見えなくて、どうしたってこれまでのペンギンとの思い出ばかりが浮かんでは消えて、また浮かんで、星の代わりに私の中でチカチカ光る。

 高校時代。友達の紹介で彼氏ができて一番喜んでくれたのはペンギンだった。その後すぐにペンギンにも他校の彼女ができて、私達はシャチにやっかまれて、それでも学校ではみんなで変わらずに過ごしていた。
 彼氏と別れるかどうかの瀬戸際で、一番話を聞いてくれたのもペンギンだった。彼氏視点からの意見もくれながらも、そんな奴、さっさと振っちまえよと、半分は決めていた私の心を後押ししてくれた。私が彼氏と別れてから少しして、ペンギンの恋も終わりを告げた。
 その次の彼氏ができた時も、別れた時も……私は今さらながらある法則に気がついた。ペンギンと私の恋のタイミングはほぼ一緒だ。一緒と言うより、私が付き合うとペンギンにも彼女ができて、私が別れるとほどなくしてペンギンも別れて――偶然だろうか。いや、仮に意図的だったとしてそれはどんな意味を持つのだろうか。
 スマホのカレンダーを確認する。明日は水曜日。ペンギンとローくんは授業を取っていないから行っても会うのはシャチだけだ。怖いけれど、行こう。もしかしたら何か知っているかもしれないから。

 翌日、当然のように授業を受ける気力は出なかったけれど、お昼前に学食に行くであろうシャチを捕まえるべく家を出る準備をしていた。恥ずかしくない程度に髪形を整え、日焼け止めを塗って眉毛だけ描いた。一応連絡しておこうと適当なスタンプだけを送ると、すぐにぽこんと通知音がした。
『お前今日もこないん?』
『いや、お昼は食べに行くから逃げんな』
『飯食う元気はあんのね』
 このやり取りでわかったのは、シャチはたぶん、私達に起こった事件を知っているということだ。それなら話は早い。すると『今日なら来るかなって思ってたから、サボる準備できてるし、飯、ファミレス行こうぜ』と追加で送られてきた。私が返信をしない絶妙な間から何か読み取ったのだろう。まだ会う前だし何も話していないけれどやっぱりいい奴だな。ほんの少しだけ、元気が出た。
 
 大学近くの、よく四人で行くファミレスの駐車場に見慣れた黄色のクーパーが止まっていた。赤は見かけることもあるけれど、黄色はこの辺りではほとんど走っていない。ほぼローくんの車だ。来るなんて聞いていない。シャチだけだと思っていたのに……ローくんもいるということはもしかして。私は慌ててバイクが止まっていないか辺りをきょろきょろと見回した。ペンギンのものと思われるバイクはなさそうで少しだけホッとした。もしかしたらいてくれたほうがいいのかもしれないけれど、ペンギンが私を避けているのなら仕方がない。もう中にいるからというシャチからの通知が目に入って、既読にするをタップしてスマホをバッグにしまった。
 店内へと入る。入店を知らせるチャイムの音に店員が声をかけてくる。「先に来てます」とだけ伝えて、奥の方のテーブル席の様子を窺う。私達がよく座る席に帽子をかぶった人物がいるのが確認できた。シャチとローくん。ペンギンの姿はない。少し期待していた自分を振り払うようにして小走りで二人の所へと向かった。
「お! 来た! おすおす〜」
「おっす……」
「呼び出しておいて待たせるとはいい度胸だな」
「いや、私は学食で食べる気だったから呼び出してないし」
「おれが呼んでおいたぜ!」
 休みに呼び出されたのが気に入らないのだろう。少しだけ不機嫌そうな表情のローくんとは対照的に、シャチはいつもよりテンションが高めのようだ。気を使わせている気がした。並んで座っていた反対側に腰を下ろす。するとすぐにローくんが注文ボタンを押した。私はまだ何も決めていないし、メニューすら開いていない。
「はやっ」
「遅い」
「今来たばっかりなのに?」
「さっさと決めろ」
 理不尽な気がしたけれど、接客も丁寧でテキパキと素早いいつもの店員さんが来てしまった。急いでメニューを開こうとしたその時、窓際に置いてあった季節の限定メニューが目に入って、私はその中で一番大きなパフェを指差した。
「うわ、空きっ腹にそれ食うの?」
「ポテトもらうから、大丈夫」
「どう考えても大丈夫じゃねェだろ」
 そもそも精神状態が大丈夫じゃないから、と自虐的にこぼすと少しだけ淀んだ雰囲気になった。ごめん、そんなつもりはなかった。ただ、二人会ったらなんだか安心したというか、普通に人と話せる気がして調子に乗ってしまった。
「でさ、いきなり本題なんだけど、ペンギン普通に学校来た? 話、聞いたんだよね?」
 二人が目配せをして、シャチがこくりと頷いた。怖かった。でも、知りたかった。
「何て……言ってた?」
 私のその言葉を皮切りに、二人はぽつぽつと今回の件に関するペンギンから聞いた話を私に説明し始めた。
 昨日は学校に来ていたこと。彼女が浮気しているという話はバイト先の主婦の人から聞いたのだということ、その相手が私の彼氏だと突き止めたのは一週間前だということ。私に言うか最後まで悩んでいたこと。バイトは春まで、今年度中は続けるということ。数日、頭を冷やすために学校を休むということ。
「頭を、冷やす?」
「ん〜、本人がそう言ってたからさ。理由は知らん」
「お互いの相手同士が浮気とは、今回は芸術点が高いな」
「だよね、ありがと」
「褒めてねェよ。それにしたって……お前らが同じようなタイミングで別れることには慣れたが、今回はペンギンとも何かあっただろ」
 ローくんが眉をひそめながらフォークをピシッと私へと向けた。話の流れ的にペンギンはその件も話しているのだろうと思っていたから「え、そこ聞いてないん?」と口をついて出る。
「聞いてたら昨日の時点でお前召喚して会議してるわ」
「……ていうかタイミング、ローくんも気づいてたんだ」
「あー、それな、おれも前から気になってて。本人から聞いたわけじゃないし、あくまでもおれの推測の域を出ないんだけどさァ」
 シャチが指でつまんだポテトをプラプラと揺らしながら「偶然じゃなくて、わざとだよね。アレ」とローくんに問いかける。ローくんも「またお前らが同じ時期に付き合い始めて、ほぼそうだろうと確信した」と続ける。
 あぁ、二人が感じ取っていたものは今回の件で私の頭をよぎった「もしかして」と同じものかもしれない。そう直感すると同時に、これは一番難易度の高い難解な問題だと思った。コーヒーカップをぎゅっと握りしめて、ローくんからの追撃に身構える。
「ペンギンはお前に男ができると都合のいい女を作って、別れるとお前の一番に戻るということを繰り返している」
「あ……あ〜、やっぱりそうなのかな……もしかしてそうなのかなって、遠くなっちゃってから気づいたんだけどさ」
「え、待って、遠くなっちゃったって何?」
「ローくんが聞いてきた何か。連絡、取れなくなっちゃった。電話も出てくれないし、ずっと未読スルー」
「はァ!?」
 そもそも電話は一回しかしていないけれど。過去にやらかした経験があるので、過度な連絡をしないようにしていた。だから、メッセージも当日のうちに送った数個だけだ。
「地雷、踏んだか」
 ローくんの鋭い指摘が入る。きっと地雷があったのだとしたら「ペンギン離れするよ」の一言だ。でも本当に、ペンギンに幸せになってほしくて出た言葉のはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
「その、相手の浮気の原因も聞いてると思うんだけど……私の存在がペンギンの幸せな未来を奪ってる気がして」
「えっ、まさかそう言ったん!?」
「さすがに言ってない……次にペンギンが恋をしたら少しはペンギン離れするよって、応援するからって、言った」
 すると、どす黒い黒魔術でも唱えたかのような重いため息がローくんから吐き出された。間違いなくこの一言が悪手だったのだろう。でも、ほかになんと言えばよかったのだろう。
「ペンギンの奴、お前のこと好きすぎて拗らせたとしか思えねェな」
「だよねー!! やっぱりローさんもそこに行き着いた!? たぶんさ、ペンギンは同じようにお前の幸せ願ってて、彼氏できた期間は自分も女作って程よい距離感を保ってさ、何かあったら自分の所に帰ってこれるようにしてたとしか思えねェんだよなァ」
 私の中にあったもしかしたらがシャチとローくんによって言語化されて、ファミレスの独特な匂いと混ざって漂っている。そうならはっきり言ってくれなきゃ……気づくわけ、ないじゃん。
 ペンギンと付き合えばいいのにと言われたことは過去に何度かあった。でも、素の自分でいても許されて、頑張らなくていい。そんな居心地の良い関係性を手放したくなかった。親友として何があっても絶対にそばにいる、それこそシャチが言ったように何かあったら帰ることのできる実家のような存在。ペンギンもきっとそう思っているのだろうと信じて生きてきた。
 けれど今回の件で、男女間にそんな関係性は成立しないのでは、幻想なのではという思いが浮かんで、心が揺らいでしまった。そして今。ずっと心の奥底に沈殿していたものが揺り動かされて私の全身に、隅々まで広がっていった。ペンギンが、私にとって誰よりも大切な存在なのではないかと。
「思ってることは伝えないとって、信頼関係ってそういうもんだろって、ペンギン、昨日別れた後にそう言ったのに……だから、私もちゃんと言っておかなきゃって……そう思って伝えたら、こうなっちゃって」
「あー、それはペンギンも悪いわ」
「どうしよう、私……」
 もしもこれから先の人生、私に彼氏ができなくて、ペンギンにできたとしたら。そう想像したらボロボロと涙が止まらなくなってしまった。いやだ、いやなんだ。私が誰かと付き合う度にペンギンは、今の私と同じような絶望を感じていたのだろうか。それほどまでに誰かを強く想うということ。この気持ちの正体を私は知っているようで、ずっと知らなかったのだ。
「やだ、ペンギンが結婚しちゃったら……どうしよう、無理かも」
「何だ、もう答え出たじゃん。てか結婚って飛躍しすぎでしょ」
「本当にお前らアホだな。ペンギンには適当に送っておいたからあとはそっちで勝手にどうにかしろ」


 もしもペンギンが「そっか、そのほうがいいのかもな」なんて言って、彼女ができたときに私が距離を置くことをそっと、静かに飲み込んでいたとしたら。きっとこの気持ちに気づかないままで、たとえばペンギンから「結婚することになったんだ」なんて言われた瞬間に恋だったのだと自覚して死にたくなったに違いない。そもそも、私達三人のもしかしたらが正しいのならば、私に彼氏ができない限りペンギンに彼女ができることはないのだけれど。でも、人は変わっていく生き物だから、何の保証もない。真っ白なジグソーパズルを手探りで埋めながら、自分自身で未来を描かなければいけないのだ。
 ローくんに勝手にどうにかしろと言われたけれど、まだ既読の付いていない世界にひとつ、チラッと様子をうかがうようなスタンプを送っただけでそれ以上は何もできずにスマホを握りしめていた。
 数時間たった今も画面に変化はない。けれど、二人のおかげで自分自身の本当の気持ちをすくい上げられたし、シャチとローくんも私にとって大切な人なのだとあらためて実感できた。感謝しなくてはと思った。二人のピンチには全力で駆けつけて、おめでたいことはめちゃめちゃに祝いたい。できることならそのときは、ペンギンと一緒に。
 待ち続けていればきっと連絡は来る。根拠はないけれど、今はそうだと信じられた。





 たくさんの思いを巡らせた。ペンギンと連絡がついたら最初に、嘘をついたことに関して謝罪しなければと思った。距離を置くなんて、そんなこと、私には到底無理だったんだって。でも幸せになってほしいと願ったことは嘘ではなくて、本心だってことも伝えておきたい。
 次に、思っていることはちゃんと言ってよねって、信頼関係ってそういうもんでしょって、それだけは怒りとして伝えておきたかった。とはいえ、もし私がこの気持ちを自覚していたとしたらペンギンと同じことを――ペンギンに彼女ができるたびに私も程よく彼氏的存在を作って気持ちをごまかしたただろうから、あまり強くは言えないかもしれない。

 チリリリと着信を知らせる電子音がして、私はハッと体を起こした。昨日もよく眠れていなかったせいか、気持ちを整理できてホッとしたからか、何にせよいつの間にか寝てしまっていたようだった。
 慌てて枕元にあったスマホを取ろうとして取り損ねて落としてしまう。一度深呼吸して落ち着いてと自分自身に声をかけておきながら、落ち着いてなどいられなかった。ペンギンだと思ったから。もう一度スマホを手に取り、表示されている名前を確認する前から通話アイコンに触れようと画面に指を滑らせていた。通話中になる直前に電話の主が『ペンギン』であると確認できた。死んでいた心臓が息を吹き返したみたいに、ドクドクと音を立て始める。私はここにいるのだと、全身でペンギンに伝えようとするみたいに。
「……」
「生きてるか?」
「……うん。今、生き返った」
 あぁ、好きだなって思った。彼氏と別れたばかりで尻の軽い女だって思われても何でもよくって、今すぐ会って、ようやく本当の自分を見つけたんだよって伝えたかった。今まで知らなかった、経験したことのない鮮烈な衝動。私の本当の好きは、ペンギンだ。ペンギンだったんだって。
「お前とローさんからの連絡、バイトが終わってから見たから遅くなった。ごめん」
「ううん、疲れてるよね。連絡くれてありがとう」
「おう」
「……あれ? 水曜ってバイト、入れてたっけ?」
「あ〜、ちょっと交換してくれって言われて。お前が辞めた話も聞いた。おれがもっと上手く立ち回れてたら、色々違ったかもしれねェのに」
 緊張、している。けれどそれは電話の向こうのペンギンも同じだとすぐにわかった。私を傷つけないようにひとつひとつ言葉を選んでいるのだと伝わってきた。それがたまらなく嬉しかった。そして気にしないでほしいと、私も謝らなくちゃと思ったところで、ずずーっと、やたらと派手に鼻をすする音がした。
「あれ、まだ外?」
「店の駐車場」
「ごめん、寒いよね」
「つーか雪、降ってる」
「えっ? 今日ってそんな予報だったっけ?」
 雪。ペンギンの言葉に立ち上がって出窓の方へ向かった。手を伸ばす。ひんやりとした空気に触れた。本当に雪が降っているのかもしれないと思いながら、ゆっくりとカーテンを開けた。
 二階の窓からはいつものように近所の病院の掛け広告がぶら下がった電柱が見える。そしてジ、ジ、っと切れかけの電灯に申し訳程度に照らされていたのは、そこをふわふわと横切る牡丹雪と、ここにいるはずのない、こちらを見上げているペンギンによく似た人物、そしてバイクだった。置きっぱなしにしているスマホのスピーカーから「よう」と声がして、連動するように外にいるペンギンと思われる人物はひょいっと右手を上げた。心臓が、止まりそうだった。どうして、バイクの音、していなかったのに――私は勢いよく窓を開けた。
「えっ、音してないのに、何で!?」
「第一声がそれ?」
 表情はよく見えないけれど、少し困ったような声色が後ろから聞こえてきて、首をかしげたのが見えた。私はそのまま玄関に向かって走っていた。
 ドアを開けるとひゅぅっと冷たい空気が流れ込んできたけれど、一刻も早くペンギンに会いたくて上着を取りに戻るなんて選択肢はなかった。スニーカーのかかとをつぶしたままで家を飛び出して勢いのままに階段を下りたものだから、最後の一段でバランスを崩してしまった。
 立て直せなくて、私はあっという間に地面に伏していた。転んだのだ。擦りむけて出血している手のひらと、どうなっているかわからない膝がジンジンと痛む。もしこれが踊り場からだったら大ケガだったかもしれない。でもそんなことよりも、ただペンギンに会いたい一心で私はどうにか立ち上がった。
「いや、ちょ、血出てんじゃん、何してんの」
「あ……その……早く、会いたくて」
 敷地内までバイクを押して来ていたペンギンが転んだ直後の私を見るや否や、慌てた様子で素早く右足でサイドスタンドを出してから車体を斜めに倒し、ハンドルを左に切った。今までに何度も見てきた、ペンギンの体に染みついているであろう一連の動作を、こんなにも愛おしいと思う日が来るなんて。
 それにしても我ながらなかなかに恥ずかしいことを口走ったのでは。「早く会いたい」なんて、今まで選んだことのない言葉だった。遊ぼうとか、ご飯行こうとか、集合とか、それだけで私達には十分だったから。
「待って。もしかして今転んだの!? 膝も?」
 ペンギンが右足の膝の辺りを指差した。怖くて見られなかった膝にゆっくりと視線を向けると、お気に入りのもこもこの部屋着がまぁまぁ破けていた。これはやってしまったなと思っていると、ペンギンは無許可でそのもこもこを勢いよくたくし上げた。
「わ、ちょっと、何するの」
「あー……悪ィ。おれのせいだよな」
 バイク専用のニット帽の上から頭をかいたかと思えば私に背を向けてしゃがみ込んだ。そして「ほら」と自分の背中を指差した。それが何を意味するのか理解できずに立ったままでいると「部屋まで運ぶから。寒いし、早く」と急かす。そして「つーか上着着てこいよ、風邪ひくじゃん」と付け足した。
 あ、おんぶしてくれるんだ。あれは確か高校に入学したてのころ。私がうっかり転んでしまった時、同じように背負って家まで送ってくれたことがあったっけ。本当に私の青春ってやつはペンギンと一緒にあったのだ。
「お願いします」と呟いて、ペンギンの背中に身を任せる。何てことないと思っていた記憶が、まるで昨日のことのように色鮮やかに蘇っていく。
「駄菓子屋さんに寄ってお菓子買ってベンチで休憩してたら、おばあちゃんが絆創膏とラムネくれたんだよね」
「ん?……あ、ああ。すっ転んでこれより派手にすりむいた時か」
「そう、それ」
「確かラムネの瓶をなかなか開けらんなくて、やっと開いたと思ったら中身が勢いよく噴き出して」
「それがすごくおかしくて、ケガとかどうでもよくなっちゃって、ペンギンと一緒にいると……そういうことばっかりだった」
「そっか」
 あの頃よりもずっと大きくなった背中から、じんわりと体温が伝わってくる。ゆっくりと階段を上る。一段ずつ、中学からの記憶を振り返るような時間だった。文化祭、修学旅行、生徒会、受験、休み時間、帰り道、休日。何度も季節が巡って、日々を繰り返し大人に近づいて。色々なことがあって、出会いと別れを繰り返した。それでも今もこうしてペンギンがいるということはきっと奇跡みたいなことなのかもしれない。だからこの膝の痛みも、その奇跡のためには必要なものなのだろうと思えた。
「入っていい?」
「うん」
 背負われたまま手を伸ばしてドアを開ける。ここで一人暮らしを始めてから、何人かで私の部屋に来て最終的に二人きりになることは何度かあったけれど、こうして最初からペンギンだけが上がるのは実は初めてだ。ペンギンは私を玄関框に座らせてから鍵を閉める。そして靴を脱いで、まだ座ったままだった私をひょいっと抱え上げた。いわゆるお姫様抱っこで、寒い中外にいたからか、ぽっと赤くなっているペンギンの鼻先がやけに近くて少し焦った。
「わっ、あのさ、もう大丈夫だから」
「おれが大丈夫じゃないから」
 そんなことを言われたら浮かれてしまう。「送るよ」と言われた時のような冷えきった視線ではない。最低でも、親友として心配する気持ちはまだペンギンの中にあるのではと思えた。
 ペンギンはそのまま真っ直ぐお風呂場の方へと向かった。「とりあえず水で洗い流して」と脱衣所で下ろされたので、痛みを恐れつつシャワーで手と膝を洗った。手のひらもだけれど、膝は特にしみて痛むし、心臓がもうひとつ増えたみたいにドクドクと脈を打っていた。
 あれ、そういえば。ペンギンは部屋の方へ行ってしまったな。――まさか、そう思って痛みをこらえつつ急いで戻ると「救急箱、どこだっけ。てかこの家にあったっけ?」と勝手にカラーボックスの引き出しを引っ張り出していた。嫌な予感は的中していた。「ちょっと待って! そこじゃないから」と慌てて止めに入った。
「いや、座ってろって。それ、かなり痛ェだろ」
「平気だよ。自分でやるから」
 力の差があるからほとんど意味のないことだけれどグイグイとペンギンの背中を押して制し、クローゼットから自分で救急箱を取り出した。すると横からすっとその箱を取り上げられてしまったので、大丈夫だからという意味を込めて少し眉を寄せながらペンギンの顔をぐっと見上げた。
「これ、ペンギンのせいじゃないから。私が悪い。嘘なんかついたからバチが当たったんだよ」
「……ウソ?」
「うん、私さ」
「あっ、いや、ちょっと待って。おれからちゃんと話、させてほしいんだけど」
 いつものペンギンらしくない少しオロオロとしたような動きを挟んだ後、救急箱を抱えながらそう言った。射抜くような視線に変わっていた。これは茶化したりしてはいけないものだとすぐに理解した。「わかった」と頷いてペンギンに促されるままにベッドに座って、ペンギンも私と向き合うようにして床にどっしりと腰を下ろした。
 ペンギンが救急箱を開ける。中身はスカスカで、それを見た瞬間少しだけ「ふっ」と声を漏らしたのを聞き逃さなかった。知っているよ、ずぼらで悪かったよ。それでも消毒液と絆創膏、いつ買ったのかなんて覚えていない少し大きめのガーゼのパッドなんかは入っていた。「年末に……買い足そうと思ってたし」と悪あがきをすると「いや、本当にごめん」と呟いてから傷口を避けるようにして私の膝にそっと手を置いた。
「悪かった。急に理由も話さずに突き放すようなことして……全部自己都合のどうしようもねェ理由なんだ。こんなケガもさせちまって」
 ペンギンはうつむいたまま「とりあえず後で傷が残りにくいやつ、デカいの買ってくるから。雑で悪いけど」と傷パッドを二枚袋から出し器用にカットして、膝の傷口を覆うように貼り付けた。
 後で買ってくる――つまりはひとまず、今から語られるペンギンの話で、私達の関係が終わってしまう可能性は排除されたと言ってもいいだろう。神妙な面持ちのペンギンには申し訳ないけれど、少しだけホッとしてしまった。
「おれさ、あんなこと言っておいて……お前との関係性に甘えて、勝手に伝わってる気になって、そうじゃなかったことに勝手に落胆して。許さなくていいし、それから……これもただのエゴなんだけど、懺悔、していいかな」
「ざんげ」
「うん。懺悔。おれ、なんか間違ってんだろうなって気づいてて、考えないようにしてた。それ以外の方法は、少しでもミスったら全部なくなっちまう思うと怖かったんだ」
 ペンギンの言う間違いは、これまでの私達のタイミングについてのことだとすぐにわかった。ペンギンは膝の処置を終えると今度は私の右手を取り、傷口に絆創膏を貼っている。おかしいな、心臓って三個もあったっけ。今までと違ってペンギンの触れる所がぜんぶ、自分ではないみたいだ。
「上手くいかなくて、こどもみてェに癇癪起こして傷つけてごめん。ずっと先の未来で、おれ達、ジジイとババアになっても、何かあったときにいつでも帰ってこれる存在でいたかったのも本心だ。でもまさか……それも失敗するなんて、かっこ悪ィよな」
 ペンギンはそのまま右手を両手で包むようにして握った。それだけで涙がこぼれてしまいそうだった。ペンギンの言う存在を、不変の友情だと言える人もいるのかもしれない。それか、家族みたいなもの。でも形はどうであれ、全部ひっくるめて愛なのではないかと思った。不器用な、伝わらなかったかもしれない愛だ。
「どんな形でも、立場でも、お前の近くに居続けられる選択をし続けてた。でも選択を間違えたんじゃない。やっぱり考えそのものが間違いだった。これからはちゃんと伝える。上手くできないかもしれねェけど……」
 これからという言葉。ペンギンの未来に、まだ私はいるのだ。思わずペンギンの手に左手を重ねた。すると俯いていたペンギンはゆっくりと顔を上げた。きゅっと口を結んで、まるで今にも泣き出しそうな表情に見えた。
「お前がいない人生なんて考えらんねェんだ。だからはっきり言う。これからの未来をちゃんと一緒に進みたいんだ」
「うん、私もずっとペンギンの隣にいたい。って意味で合ってる……よね?」
 思わず即答してしまったけれど、もしかしたら本当に友情って意味だったら少し恥ずかしいなと思って確認してしまった。するとペンギンの瞳が大きく揺れて「むしろ、ほかにある!?」と両手と声を上げ、徹夜麻雀明けのようなハチャメチャなテンションで立ち上がり私に飛びついてきた。そのまま私はベッドに沈み込んで、受け止めたベッドは普段はかからない二人分の体重でギシッと音を立てた。あたたかさに包み込まれて、視界が、天井がじわじわと滲んでいった。
「私も、謝りたいんだけど」
「待って、謝ることなんてなくない!?」
「私もあんなこと、ペンギンの幸せを願って、恋路を応援して距離を取るなんて言ったけど……色んなことに置き換えて、いくつものもしもを考えたら無理だって気づいた。だからあれ、嘘なんだ。ごめん」
「でもあの時点では、おれのこと考えて言ってくれたんでしょ。それならノーカンじゃね?」
 今のペンギンには何を言ってもすべてプラスに変換されるのだろう。そんなペンギンだから今までずっと楽しくて、大好きになっていたのだ。これからだって楽しい日々を送れるに違いない。伝えようと決めていた怒りの感情も引っ込んだ。反省しているみたいだし、これ以上追及する必要はないと思った。でも、やっぱりひとつだけ。今のうちにマイナスなことは聞いておきたかった。
「あとさ、別れたばっかりなのにこんなに喜んじゃって尻が軽い女だって……思わない?」
「逆にさ、あいつらのおかげでおれ達、こうしてちゃんと気づけたってことじゃん。そもそもおれらのこと知ってる奴らなら、今さら何とも思わないでしょ」
 ペンギンの腕にぎゅっと力が込められて、それが少し痛いくらいで本当に夢ではないのだと実感できた。ちゃんと自分の気持ちと向き合ってよかった。幸せってこういうことなのだなと噛みしめていると、ペンギンの腕の力が緩んだ。「ぶっちゃけさ」と言いながらベッドに手をついて、上半身をぴょこっと起こした。
「お前がケガしてまでおれに早く会いたくてって言った時、これで振られたらマジで立ち直れねェって思った。休学して自転車で全国一周する旅に出ようと思った」
「待って、何でそれ拾ってくれちゃってるわけ?」
「へェ〜〜〜、照れてんの?」
 あ、こいつ、調子に乗っているな。くそ、私は近くのクッションをどうにか手に取って顔を隠し、カウンターをお見舞いすることにした。
「っていうか! そっちこそ何でわざわざエンジン消して歩いてきたの!?」
「そりゃァお前……びっくりする顔を見たかったからに決まってんじゃん。なんつーか、人生かけてたからそれくらいのインパクト、あったほうがいいかなって」
「私がびっくりしなかったらどうしたの?」
 ちょろっとクッションをずらして様子をうかがうと、少しムッとしたように口先を尖らせていた。私の一言でコロコロと表情を変える姿をずっと見ていたいなと思った。
「知らね! 実際びっくりしてたじゃん! それよりおれはこれからの話がしたいんですけど!」
「バイト探す」
「いや〜、それな。おれが無駄に付き合ってややこしくしちまったからお前が辞めることに……」
「これからの話をするのでは?」
 ペンギンにはこういうところがある。知っている。手を伸ばしてぎゅっと頬をつねる。するとぽかんと口を開けて、それからフフフと小刻みに震えながら笑い出した。どうして笑っているのかは今はわからないけれど、なんだか私もおかしくなってきてプッと吹き出してしまった。これから先、こうしてペンギンが急に笑ったその時に、その理由もわかってしまうようなペンギンマスターになれたら、なんてことを思った。
「いや……あのさ、おれ、しばらくバイトぎっちぎちに入れちまったから、あんまり遊べないんだけどさ」
「……あ、もしかして店長の言ってた働きたい人って」
「おれです。あと、元カノも辞めるってさ。だから大丈夫だし」
 もう、本当に。それでも働きづらいだろうに無茶するんだから。ああ、でも。こんなペンギンだからだから好きになったのだ。
「それでさ、その、お願いっつーかさ、お願い的な超お願いがあんだけど」
「お願いね。すんなり辞められたのもペンギンのおかげだろうし聞きましょう」
「遊べない代わりっちゃなんだけど、週に何回かはここに帰ってきたいなーなんて思ったんだけどさ……ダメ?」
 再びぎゅっと抱きしめられた。めまいがしそう。突然の過剰供給でちょっとしたパニックだ。そんな可愛らしいお願いを断る理由なんてないし、私もこれから頑張らなくてはならない。ペンギンに心配をされないようなバイト先を早めに探さなければ。そう思いながらそっと手を伸ばし、抱きしめ返した。ひとつになれたみたいでクラクラして、目を閉じた。ペンギンの存在を全身に感じる。距離感なんて概念のなかったペンギンとの、たったこれだけの行為がこんなにも照れくさいなんて。
「いいよ、でもちゃんと学校も行くんだからね。二人にもお礼、言わなきゃ」
「ですよね〜。つーか、今から呼んじゃう?」
「あ〜、起きてそうだし、何なら連絡待ちしてそうだしね」
「おけ。送った」
「いや、早っ」
 起き上がってから送信までが秒だった。名残惜しさを感じつつ、二人が来るなら着替えなきゃと立ち上がろうとした私にペンギンはべったりと抱きついてきた。心臓が三つあるのかもなんて思ったけれど、いくつあっても足りないかもしれない。
 もう着くぞ、という連絡でようやく開放してくれて、慌てて着替えを済ませてシャチとローくんを迎え入れる。二人の荷物をよく見ると、袋いっぱいのお酒と麻雀セットが抱えられていて、朝まで眠れないのだということを瞬時に悟った。
 ペンギンはしっかりと新しい傷パッドも頼んでいたらしく、貼り直してくれた。もし傷跡が残ったとしても今日のことを思い出せるからそれはそれで、と小声でペンギンに伝えてみたら「キレイに治ったっておれは忘れないし」なんて言うから思わず抱きついたら、ローくんに部屋中のぬいぐるみとクッションを投げつけられた。
 いつもと変わらないようで、でも確かに一歩、前へと進んだ。新しい私達が始まる。これからもみんなと、ペンギンと一緒にいて、堂々と胸を張っていられる自分でいたい。

prev/back/next
しおりを挟む