不寝番の彼との時間


 私が今の航路で感じている肌寒さなんか気にも留めずに不寝番をこなす男。早朝まで起きているから自然とその機会は多くなる。でも、みんなが寝静まった船から眺める景色も、酒を飲む肴のひとつなのだと出会った頃に言っていた。その背中は、2年前よりもますます頼もしくなったように感じる。
 何も言わなくても、その広くて温かな背中に自分の冷え切った体を寄せると、私というすべてを肯定してくれる気がする。大きな存在。

 以前立ち寄った島で飲んだたまご酒があまりにも美味しくて、まぁたまたま子供舌の私に合っただけかもしれないけれど、すぐに船に戻ってサンジに作り方を教わった。とは言っても、最低限の材料を温めて混ぜただけだから誰にでもできると思う。サンジは、何であんな奴のためにとぼやきながらもしっかり教えてくれたし、なんなら隠し味もプラスして酒場で飲んだものよりも美味しく、より体も温まるものにしてくれた。
 これを最初に差し入れた時、うまいなと言って笑ってくれたことがなんてことないのにたまらなく嬉しかった。私はバカの一つ覚えみたいにたまご酒を作っては、もう酔ってるようなテンションで深夜のキッチンを出るのだ。



 そっと、足音と気配を消して近づく。ゾロに気づかれずに肩を叩けたら私の勝ち、という単純なこの勝負に私は一度も勝ったことがない。
 今日の航海は今のところ恐ろしいほど穏やかに進んでいる。昔なら少し先で起こるであろう嵐やトラブルを想像し不安を抱えていた私の心も、今ではこの夜のしじまをありがたく受け入れている。私自身も強くなって成長している。それはルフィがいて、仲間がいるから。だから、この航海には不必要とも思っていた愛念という感情を今では真っ直ぐに彼へと向けることができる。
 キラリと光を反射した彼のピアスは漆黒の海を照らす月の道のように私を引き寄せる。おもむろにゾロは左手をヒョイっと頭の上まであげた。それは私に気づいた合図だ。私は今日も負けてしまった。ゾロの姿を見ると勝負であること、忍んでいたことをすっかり忘れてしまうのが敗因。わかっているのに、一生勝てないない気がしている。
 ゾロは真っ直ぐに海を眺めたままなので、ゆっくりと背中合わせに腰を下ろす。ついさっき作ったたまご酒のうちのひとつをトレーから取ってゾロの手元へと滑らせる。ゾロはそれを無言のまま持っていくので、すぐに私の視界からマグカップは消える。そのいつもの流れを見届けてから私もカップを両手に包んで、息をふぅっと吹きかけた。調理段階でひと煮立ちさせるから、あらかじめアルコール度数の高いお酒を使っている。卵にうまみが包み込まれていて、口に含むとじんわりと広がっていく。私はこれでちょうどいいから、もしかしたらゾロは物足りないかもしれない。
 両手と背中のぬくもりを感じながらちょびちょびとお酒を楽しむ、今日も生きてるなぁと実感する幸せな時間。一方でゾロはあっという間に飲み終えてしまうのですぐにトレーにコトン、とカップが置かれた音がした。続けてきゅぽっと、新しい瓶の蓋を開けた音と振動が私の体に落ちてくる。一体どうやって大量のアルコールを分解しているのだろう、と思うところまでがセットだ。

 さて、ちょびちょびも度が過ぎるとぬるくなってしまうから、いいところで残りをぐびっと一飲み。そしてトレーにコンッと、あえて音が響くようにカップを置いた。この音が、新たな勝負のスタートピストルの代わりだ。
 背中合わせのまま力を入れて、お互いを押し倒そうとする。ただの力比べ。もちろんこれも私が勝った試しがない。圧倒的な力の差で私はもはやゾロの座椅子の背もたれと化すのだ。フルフラットレベルでペッタリと前屈することになる。柔軟性がなかったらケガをしていてもおかしくはない。
 勝負をし始めた頃とは違って、ゾロが一瞬で私を打ちのめすことはなくなった。わざと力を緩めたり、強めたり。一瞬でも今回は私が勝てるのでは、と思うのもすべてはその日の気分によるゾロの戯れなのだ。今日も私は敗者として前屈姿勢のストレッチタイムに突入した。加減してくれてるんだろうけれど、ずっしりとゾロの重みがのしかかってくる。負けたのだという事実を除けば、これも私にとってはホッと癒される時間だ。ここまできてようやく私達は会話を交わす。

「今日もおれの勝ちだな。いい加減諦めたらどうだ?」
「ぐっ、私でもゾロに勝てること、あるよ」
「へェ。なんだ?」

 そう言って興味津々とばかりに私の背中に体重をかけることをやめ体を起こしたものだから、すぐに立ち上がってゾロの正面に回り込んだ。そしてあぐらをかいている彼と向き合うようにして腰を下ろして、重心をゾロの方へと移動させた。
 するとゾロは私が抱きつくよりも早く腰に手を回して私の体を引き寄せた。遠慮も何もなく顔を近づけ、唇に吸い付いてくる。何度も、何度も。そのうちにたまご酒のほんのりと甘い余韻はゾロの酒臭さで上書きされて、一気に酔いが回るようなこの感覚が心地良い。それから、ゾロがまず舌を入れようとする時はだいたい大量の、いつの間にかため込んでいた唾液を流し込んでくる。酒豪の唾液は、私にとってもはや立派な酒である。穏やかな美しい波の音とゾロが立てる激しいリップ音の差にクラクラする。アル中だ。
 ひとまず満足したのか、ゾロはゆっくりと顔を離した。その頃には大抵、私の口の周りはべちゃべちゃになっているけれど、私がハンカチを取り出すとパッと取り上げて拭いてくれる。一度あまりにもよだれまみれになって文句を言ったらそうしてくれるようになった。そういうところも好き。

「はぁ……キス我慢対決は私の勝ちだね」
「あ? んだよその勝負は。お前も気持ちよさそうにしてただろ?」
「それとこれとは別! これなら私が勝てるもん」
「いつから対決種目になった?」
「今決めた!」
「なら、今から本気で挑んでやってもいいが……お前が折れなければ一生キスできないことになるが。それでもいいか?」

 いや、それは困るんです――ゾロの大きな、くっきりと筋の浮き出た手がスッと顔に近づいてきて、親指が私の唇に触れ、雑に動き回る。への字に固く結んだ口をこじ開けようとそこに人差し指が加わった。ゾロは右の口角を上げながら挑発するように伏し目がちで私を見下ろす。獲物を狩ろうとしている強者の眼差しだ。本気を出したらやり遂げてしまいそう。
 ちょっとからかっただけ、的なやつなのに。いつもすぐにゾロからキスしてくるし、冗談と受け取ってキスしてくるんだろうなと思ったのに……あぁ。今すぐキスしたい。完敗です。あっと口を開けて指の侵入を許した私はだらしない吐息を漏らしてしまった。

「あっ……はっひの、はひへ」
「なしだって? 勝負をなかったことにするとは、情けねェな」

 すっと、指を抜くとわざと見せつけるようにして笑みを浮かべるゾロ。だが、一言だけ言いたい。私だって海賊だ。負けず嫌いだ。今のは酔っ払いの戯言なんだ。こんなに本気にするなんて思ってなかったんです。ごめんなさい。

「……ゾロだけだもん」
「ははっ、知ってる。それに、そんな勝負おれも困るからな」

 さっきまでの色気を孕んだ表情が一瞬でカラッとした笑顔になった。「まァ、お前の一勝にしといてやるよ」と私の頭をくしゃくしゃと撫でる。負けず嫌いな私も、ゾロにだけ向けているこの思いも分かってくれているだけでこんなに満たされる。
 この空気の中で変わらずに凛と佇んでいた酒瓶を手に取ったゾロはその中身を一気に流し込んでいる。どうしてそんなに度数が高いお酒を躊躇なく飲めるんだろう。まるで色気そのものが動いているみたいな喉仏をぼんやりと眺めていた。まもなくして「じゃあ、遠慮なく」と少し低いトーンの声が聞こえて顔を上げると、パチリと視線の合ったその瞳の奥の方が滾ったのがわかった。ゾロのこの変化を知ってるのも私だけだといい。私もゾロにとっての大きな存在になれていたらいい。いつか、そうなのだと聞ける日までは絶対に死ねない。
 今日はこのままここで寝ちゃうコースだな。一緒にいると肌寒さは感じないから、風邪をひく心配もないだろう。首に手を回し、今度は自分からゾロに抱きつく。暗闇に溶け込んで、彼だけを感じるために私はゆっくりとまぶたを閉じた。

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