スパークリングラブ-お風呂上りの話-


 お気に入りのオレンジとベルガモットのバスオイルの香りに包まれたままでしばらくたった。現実であって現実ではないような……もはやパラダイスとも呼べる湯船。そこに浸かっているという幸福を享受している時間は最高だ。ただ、お風呂は入るぞと思うまでが面倒で、出てからもあれこれとすることが多い。
 完全に出るタイミングを逃してふやふやになった手をぼうっと眺めていると、ガタンと家のドアが開閉した音がした。ああ、今日は早く終わったんだ。
 ドタドタと洗面所に入ってきた姿がすりガラス越しに見えた。私は少し声を張って「おかえり〜」と叫ぶ。するとただいまの代わりの「あァ」が返ってくる。「お風呂、すぐ入るー?」と続けるも返事はなく、もうドアの向こうに気配はなかった。
 手だけ洗って行ってしまったのか。どちらにせよ帰ってきたのならもう出よう。ローには聞かせられないようなうなり声にも似た音を発して立ち上がり、私は人間界へと戻る準備を始めた。
 バスタオルで雑に体の水気を拭き取る。ずぼらな私にぴったりの、濡れたまま使えるボディクリームを全身に伸ばす。これもまたいい香りで、どうにかボディケアを続けられているのは香りのおかげと言ってもいい。タオル地のワンピースをすぽっとかぶってから、普段は面倒で飛ばしがちな導入美容液のボトルを手に取った。早くローの顔を見たい気持ちと、しっかりケアしたプルプルのお肌でもう一度おかえりを言いたい気持ちがせめぎ合っている。そんな私の脳内に「毎日コツコツ継続してこそだぞ」というお叱りの声が響く。おっしゃる通りです。ありがたいお言葉を素直に受け止めて、オールインワンクリームのケースを棚に戻し、化粧水のボトルを手に取った。

 どうにか一連のケアを終えてリビングへ向かうとテレビの音がした。ソファにもたれかかっているローを見つけて近づきながら「おかえり」と声をかけるも返事がない。後ろから近づいてそっとのぞき込むと目を閉じて小さく寝息を立てていた。
 残業も多いし、今日も疲れているのだろう。珍しく起きている時間に帰ってきたから色々話したいこともあったけれど、しばらくそっとしておこう。
 そろりと踵を返し毛布を取りに行こうとすると、体が進行方向と逆に引っ張られた。その驚きは「わぁっ」と声になっていた。それなりに大きかった。これは起こしてしまったかもしれない。けれど、ワンピースが何かに引っかかったわけではなさそうだ。そもそもソファに引っかかる場所なんかあるはずもなかった。引っ張られた原因。それは寝ていると思っていたローがワンピースの裾を掴んでいたからだった。
「疲れた」
 あくびまじりでそうぼやいて、こっちに来いと言わんばかりにソファーの背もたれの向こうから私のワンピースをグイグイと引っ張る。「今日もお疲れさま」と声をかけてから「掴んだままだと動けないんだけど?」と服を力強く握ったままの手を両手で覆った。
「そっちに行くから、一回離して?」
「断る」
「え〜」
 半分寝ぼけているのかな。そう思っているとローの手が寝ぼけているとは思えないほど力強く動いた。服を掴んだまま腕を上げたせいで、私のワンピースがめくれ上がった。パンツが、丸見えである。ゆったりとしたショートパンツだけれど、ギリギリ裾にレースもついているのでセーフだと思いたい。背もたれ越しにローはじいっと私を、下半身を見ている。寝ぼけてなんかいない気がしてきた。
「ちょ、ローってば」
「おれは帰りてェんだ」
「んーと、帰ってきたよね? ここ、家だよ?」
 ここは私達の自宅である。なのに帰りたいとローは主張している。会話はしているけれど視線は合わない。ずっとパンツを見たままだ。私はワンピを握って離さないローの手をどうにか下げようとする。すると反発するようにローの手はさらに上へと動いた。今度は胸の半分くらいのところまで服が上がってしまった。たぶん、ローからは私のおっぱいがそれなりに見えている状態と推測される。ローの思考がよくわからなくて逆に冷静になってきた。
「ブラは」
「あ、うん。してないね」
「ナイトブラつけろって言っただろ」
「寝る前にはつけるよ」
 そこで会話は止まった。ガン見である。ローは私のおっぱいのあたりからずっと視線を動かさない。そして再びぼそりと「帰りてェ」と呟いた。うーん、やはり寝ぼけているのだろう。
「ここはちゃんと私達の家だよ? おかえり」
 ローの手をにぎにぎしながら、おかえりが足りないのだろうかとそう伝えてみるも反応がない。するとローはようやく服から手を離してゆっくりと立ち上がった。言動がおかしい。寝ぼけていないにしてもかなり疲れているのかもしれない。私はソファを回り込むようにしてローに近づく。おなかが空いているなら作ってあるシチューをすぐに温め直すし、お風呂に入るのなら着替えは持って行ってあげよう。
「大丈夫? ご飯食べる? お風に呂入る?」
「帰る」
「おお?」
 第三の選択肢の出現。ローの両手が肩にかかり、私は押し倒されるようにソファに尻もちをついた。年季の入ったソファからギシギシときしむ音がする。ローは私にまたがるようにしてソファに乗る。よほど疲れがたまっているのか、顔色も良くない気がする。
「あの〜、帰るとは?」
「疲れた。帰りてェ」
「……うん」
 堂々巡りだ。私の打ち出した言葉は帰りたいで打ち返される。疲れが限界突破しているのか、とにかく眠いのか、その両方か。生気の感じられない瞳に見下ろされる。とにかくどこかに帰りたいという気持ちが強いのだろう。そんなに帰りたい場所がここ以外にあるのかな。もしかしたら……そんな人が私以外にいるのかな。そう思うと胸がしめつけられるように痛んだ。
 まさか、そんなこと……あるはずない。けれど今となっては職場の人と一緒にいる時間の方が圧倒的に長いし、仕事の悩みは私なんかより分かり合える。サポートできる。寄り添えるに決まっている。こんなこと考えたって、仮想敵と殴り合っても仕方がないのに。そもそも敵視することに意味がない。こうして、物理的にはここに帰ってきているのだから、私がそれを信じないでどうする。こういう些細なもやもやや不安を積み重ねてしまったら、きっと私はうまく隠しきれなくなるし、ローは感じ取ってしまう。
 どうにかローの方へと両手を広げて、精一杯のおいでを、ここに帰ってきていいんだよという意思表示をしてみた。するとどうだろう、一気にローの顔が緩んだように見えた。けれどもう確認できない。私はローを受け止めるどころか抱き枕のようにしっかりと抱きしめられて、あっという間にソファに倒されてしまったから。ホッとしたのも束の間、それでもなお「……ハァ」とため息が聞こえてきた。私じゃダメなのかな。人肌は恋しいけれど、きっと求めているのは私ではないのだろう。これがローの本音なのだろう。
 それでもとりあえず、グチりたいことがあるのなら、今は私にぶつけたらいい。私に話してもしょうがないって思われたりしたら、余計にむなしくなるけれど、それでも――私は予防線を張りつつ問いかけることにした。
「何かあったの? って、私が聞いてもしょうがないか」
「帰ってきたって感じだな」
「ん?」
「風呂上がりのにおい、柔軟剤のにおい」
 ローはそう言って私の首元に、まるでにおいを確認するように顔をうずめた。すりすりと、猫ちゃんみたいに鼻をこすりつける。あれ……もしかして、もしかしなくても全部杞憂だったのかな。「それが混ざったお前のにおい」と続けたローの声があまりにも優しく私の胸の中に溶けていって、このぬくもりで長風呂する以上にふにゃふにゃにふやけてしまいそうだった。少しでもネガティブな思考になった自分が恥ずかしくなってくる。もしかして今なら――私はもう一度あの言葉をささやいた。
「おかえり?」
「……ただいま」
 ぎゅうっと、ローの腕に力が入った。嬉しくって抱きしめ返すと、もう一度「ただいま」と聞こえた。決着の時を迎えたのだ。
 
 ようやく聞けた素直な「ただいま」は、しゅわしゅわと発泡する入浴剤みたいだなと思った。私の心を芯までぽかぽかと温めてくれる。私もずっと、ローにとっての気持ちのいいお風呂みたいな存在でいたいな。そうであり続けたい。だから、もう少しだけ自分のメンテナンス、頑張ることにします。

prev/back/next
しおりを挟む