金曜日の彼


 今日も私は仕事後のモヤモヤとした、鬱々とした気分を晴らすべくお気に入りのカフェバーまで急ぎ足で向かっている。
 今の仕事を始めてから見つけた癒しの場であるこのお店には、気づけば週の半分は通っている。若い店主であるサンジくんがまた、女性に優しくて、気さくで、色々と話を聞いてくれる。それもあって仕事が終わると、特に疲れた日は自然とお店へ。金曜日にいたってはほぼ100%。



「いらっしゃいませ、ユメさん!」
「こんばんは、パティさん」
「どーぞどーぞ。いつもの辛気臭い席、空いてますよ!」
「もー、確かにそうなんですけど!」

 いつものこの、一見残念なやり取りが私にとっては心地いい。フロアのテーブル席には、楽しそうに飲んでいるカップルや女子会と思われる人達のグループで賑わっている。でも私が向かう定位置はカウンターの一番右の席。ここじゃないと落ち着かない。
 パティさんの言うようにほとんどライトも当たっていなくて薄暗い店内の中でもさらに暗い席なんだけど、初めてここを訪れた時にとてつもなくへこんでいて、無意識にこの席を選んでからというものここは私のベストポジションなのだ。

「サンジくん! こんばんはー」
「ユメちゃん、いらっしゃい! 金曜だしそろそろ来る頃合いだと思ってたよ」
「いやぁ、いつもすみません」

 すっと吸い寄せられるように右端のイスに腰を下ろす。さっそくサンジくんが何か作ってくれているようだ。常連となった今では私が先に何か注文をしなければ、その日おすすめのカクテルを作ってくれる。スマホを取り出して通知が何もないことを確認すると今日はもう取り出すまい、と私はしっかりと鞄の奥深くにしまった。

「いやいや、今日も来てくれて嬉しいんだ……さ、ガルフ・ストリームです。少しでもリゾート気分を味わってもらえたらいいな」
「わぁ、ありがとう!」

 キレイな海の色を思わせるブルーのカクテルに私のテンションはぐんぐん上昇する。サンジくんが女性には平等に甘いことはわかっている。でも……やっぱりこうして素敵な言葉を囁かれると悪い気はしない。さて、今日の1杯目。見た目も素敵だけど、飲んでみるとイメージしていたよりも甘くて柔らかな口当たりだ。

「……美味しい! やっぱりサンジくんの作るカクテルは最高だね!」
「そう言ってもらえるなんて光栄の至り、なんてね」

 パチン、とウインクをしたサンジくんが、パッと入口のほうへと視線を変えた。それにつられて思わず私も振り返るとそこにはいつもの“金曜日の彼”がいた。ああ、今日も会えた。私はにやけそうになった顔をどうにかごまかそうと唇をしっかりと結んだ。

「ロー!  今日は早いな」
「あァ……思ったよりスムーズに片付いたんでな」

 もはや自然に、当たり前のようにサンジくんがローと呼ぶトラファルガーさんは私の左隣の席に座った。この金曜日の彼に初めて会ったのは半年くらい前だった気がする。いつの間にかこうして隣同士で飲み合うような仲になっていた。

「こんばんは、トラファルガーさん」
「おう、今日は来るのが早くて悪ィな」

 トラファルガーさんは基本的に私が一人でゆっくりしたい人だと思ってるようで、時々こうした言葉をかけてくれる。気づかいは嬉しいんだけれどそんなことはなくて、むしろ話し相手がいてくれてありがたい……でもそれをまだ、伝えることはできないでいる。

「いえいえ、今日もお疲れ様です」

 そう声をかけると「お前こそ、今日も忙しかったんだろう?」と本当に少しだけ微笑んでくれて……寡黙そうな見た目に反して、優しい言葉をかけてくれる人。トラファルガーさんのことを私は勝手にそう思っていて、今日もその存在だけで早々に酔ってしまいそうな気分になる。

「おれにも何か作れ」
「はいはい、かしこまりました。ネグローニでいいか?」
「あァ」

 手際よくカクテルを作るサンジくんを眺めていると何となく隣から視線を感じるので顔を向けると、パチリと視線が合う。時々こうしてトラファルガーさんからの視線を感じるけれど、目が合ってもあまりの顔の良さに耐えられずに私はすぐにそらしてしまう。この疲れ切ったバサバサの毛先に枝毛でも発見したんじゃないか、なんてことを思うようにしている。

「お待たせしました」

 そう言ってサンジくんからトラファルガーさんにグラスが渡されると、一気に飲み干してしまいそうな勢いで3分の2ほどを豪快に、ぐびぐびと流し入れた。確か、そこそこ強いカクテルだったような……そんなことを思いながら私も目の前のカクテルを飲み干した。

「サンジくん、私甘いのが飲みたいかも!」
「あァ、甘いのか……」

 私のリクエストにサンジくんが手を顎に当て「何にするかな」と呟くとすぐに
「じゃあユメにバーバラを」と、隣のトラファルガーさんの声がした。

「なるほどな、ユメちゃんには丁度いいかもしれねェ」

 今の会話は何だ……? 今私はビックリしすぎて、ポカンとしたお間抜けな顔をしてしまっているに違いない。トラファルガーさんの言葉を脳内で繰り返す。私にバーバラをと言った? 違うかな、ううん、言ったよね。何度かまばたきを繰り返していると「とりあえず気にするな」と言って私の肩を叩いたトラファルガーさん。
 今まで何度もこうして隣で飲み合うことはあったけど、こうしてトラファルガーさんが私のお酒を注文するなんてこと、なかったような……気がする。

「はい、おまたせユメちゃん。ユメちゃんの希望にピッタリだと思うよ」
「あ、ありがとうございます!」

 サンジくんからグラスを受け取ると、横で柔らかく微笑んだトラファルガーさん。あぁ、これじゃあ勘違いする女子は多そうだ。そんなことを考えながらもぺこりと頭を下げてカクテルを口へと運んだ。

「……わっ! 甘くて飲みやすい……なんかデザートみたいですね!」
「だろう? ローもよく出てきたな」
「何だかんだ週一で一緒に飲む仲だぞ、さすがに何が好きかどうかくらいわかるだろ」

 ほらまた、さりげなく私の心が躍るような一言を放り込んでくる。ちなみにここでだけのお付き合いなので連絡手段はない。純粋なこのバーの常連の飲み友達、なのだ。

「でもたまに金曜以外も来ますよね」
「なんなら毎日来たっていいくらいだ」
「あっ、私もです!!」

 そう、こんなに居心地のいいお店を見つけられて私は幸せだと思う。でなければもうとっくに今の仕事なんて辞めている、そんな気がする。

「ここに通い出してからなかなかお酒強くなったと思うんですよー」
「そういえばユメちゃん、初めの頃は今ほど強いの飲めなかったもんなァ」
「やっぱり、継続は力なりーってヤツですね!」

 トラファルガーさんが頼んでくれたバーバラというカクテルがあまりにも美味しくてすぐに飲みきった私は、もう一杯欲しいとサンジくんにお願いした。
 今日はとにかく甘いのが飲みたくて飲みたくて仕方がなくって、二杯目もすぐに飲み干してしまった。なぜかというと、今日の仕事中のストレスのせいだ。

「ほかにに甘くてオススメなのあります?」
「そうだなぁ、ベースを変えると悪酔いするかもしれねェし……」
「ルシアンとかどうだ?」
「あー、確かに……ってロー、お前な」
「はい! はいはいそれにします! サンジくん、お願いします!」

 一瞬サンジくんがトラファルガーさんに何か言いかけたけど、トラファルガーさんのおすすめするカクテルなら美味しいに違いない。トラファルガーさんも何だか強そうな名前のお酒をサンジくんに頼んでいて、こうして薄暗いお店で隣にトラファルガーさんがいて、お酒を飲む姿がすごくサマになっていて、CMだって言われてもおかしくない……それを眺めながらお酒を飲むのは最高だ。至福のひと時だ。

「はい、ルシアンだよ。甘いけど結構強いからね?」
「おう、どんとこいです」

 強かろうがなんだろうが、甘くて美味しければよし! なんてことを考えながらそれを口にする。チョコレートのような甘い味わいが広がってアルコールが全身に染み渡る。この幸せを実感する一方で私の心の影がムクムクと育つ。どうしても、頭から離れない今日の出来事がちらついて消えない。

「すごく、すごく美味しいんですけど……ちょっと美味しいついでに、聞いてもらってもいいです?」
「お、なんだなんだ? 言ってみなよ」
「例の上司か?」

 私がそう切り出すとサンジくんもトラファルガーさんも、わたしの話に耳を傾けてくれる。なんて素敵な人達なんだ。

「あまり、愚痴るのも良くないのはわかってるんですけど……今日のはちょっと、いただけなくて!!」
「言ってみろ。はいつも頑張ってんだ、たまにゃいいだろ」
「おおう、なんて優しいんですか、とらはるがぁさん」
「……ちゃんと言えてねェぞ」

 クスッと笑うとりゃ、トラ……あぁもう面倒だ、ローさんは、そう言って体をしっかりとこちらへと向けてくれた。真剣に私の話を聞いてくれるんだと思うと、もうその胸に飛び込んでしまいたくなった。いやいかん、それはいかん。お酒は入っているけれど私達は金曜日だけの、お酒を嗜むお付き合いなのだ。ここはグッとこらえてとにかく話を聞いてもらおう。

「今日! 私がパソコンでデータをまとめてた時なんれすけど」
「ん」
「あろうことか! あろうことかぁ! 私のマウスを持つ右手にですねぇ、奴は手を重ねてきましてね! ちょっと汗ばんでたしすごく気持ち悪くて!!!」

 ああ、なんか呂律が回らなくなってきたきもするけどとにかくこれ、ルシアンがすごく美味しい。お酒が美味しすぎることによるテンションの上昇と、上司のキモさによる下降を繰り返す。乱高下しまくっている。
 それにしても今日のあの上司の気持ち悪さは限界を超えていた。ついでに説明しながら人の顔の近くでハァハァと息を吐く始末で鳥肌ものだった。あの気持ち悪い感覚が、まだ顔周りに残っているようだった。

「すごく近くて! もぉ今の職場で続けていく自信、ないです……」
「なんだと!? ちゃんに何てことを!」
「……」

 私がひととおり話し終えるとサンジくんはいつものように私を心配してくれて、でもローさんは……何か考えるような表情で私を見ているだけだった。
 不安のようなものが私を襲う。愚痴りすぎたかもしれない。しかも、やっぱりお酒が強かったのかちょっとフワフワしてきた自覚もある。やってしまった。こんな醜態をさらしてしまうなんて。もうこんな女うんざりだ、なんて思われてしまうかもしれない。

「あっ、あの、ローさん」

 しかもうっかりローさんと名前で呼んでしまったことが不快だったのか眉がピクリと動いたのを私は見た。あぁ、もうこのお店には通えなくなるのか。そんなことになったら私は、何を楽しみに生きたらいいのだろう。
 どんどんと意識がネガティブなほうへと流れていくのを止められなくて、サンジくんに助けを求めようと顔を上げた瞬間。ローさんが身を乗り出したのが視界の隅でほんの一瞬だけ見えた。すぐに背中に温かい何かを感じてそれがローさんだということが私の右手を見てわかった。

「……ローしゃ、ローさん?」

 しっかりと私の右手を覆うように重ねられたそのごつごつとした男らしい手に、私の心臓の鼓動が一気に加速した。ドッドッドッと、私の心臓が音を立てる。何で、どうして私の手の上に忌々しい上司の手じゃなくて、ローさんのタトゥーの入った色っぽい手があるんでしょうか……

「おれで上書きしとけ」
「はっ、はい!!!」
「って、いつまでそうやってんだよ、ロー」
「いつまでっておれの勝手だろうが……のその時の気持ちを思えばまだまだ足りねェと思うが」

 はい、足りません……じゃなくて、普通に前からじゃなく、わざわざ後ろから回り込んで重ねて来るあたりもう私どうにかなりそうで、ローさんの胸が私の背中に密着してて、ああ……これはもう死んでもいいかもしれない。

「……私、幸せですぅ」
「そうか。ならいつまでもこうしててもいいぞ」
「はい〜、ありがとぉございます!」

 いつまでも、だなんてありえないことだけど、今こうしてここで一緒にいる間だけは何だか私だけの特権みたいで……そんなことを考えていると少しずつ、なんだか体の力がスッと抜け落ちて、みんなの声が遠のいていく気がした。

「……寝ちまったじゃねェか、お前がユメちゃんにルシアンを選んだ時点で何となく察してはいたがな」
「うるせェよ、誰かに渡してたまるかってんだ」
「ヘェ、連絡先も知らないくせに」
「それは! あれだ……今さら聞けねェだろうが!!」

 二人の会話が聞こえてくる。私はすごく幸せな夢を見ている気がする。都合のいい私の願望。でも夢ならいいよね。飲み仲間だと言い聞かせてたけど、ローさんのこといつの間にか大好きになってたんだなぁ。だからこうしてずっとずーっと、一緒にいたいなぁと思う。

「ロぉさん、ずっといっしょに、いてくらさい」
「……!! おい、今の寝言か!? くそっ、バーボンくれ、バーボン」
「ちょっと爆発してこい」



 目が覚めるとお店はとっくに閉店していて、気を利かせてくれたサンジくんと、そして私を心配してくれたローさんが起きるのを待っていてくれたらしい。いやもう本当に顔から火が出そう、泣きそう。でも、こんな出来事があってやっとローさんと連絡先を交換することができた。そして仕事は思い切って変えようという決心がついた。
 無駄に眩しい土曜の朝日を浴びて、まだ右手に残る熱を感じながら私は新しい一歩を踏み出した。

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