こころを満たす味


 飲み慣れたあの味。温かな故郷の味。
 薬膳で人を笑顔にしたい。村を出てからたくさんの冒険をしてきたけれど、ばっちゃが淹れてくれたものよりも美味しいコブ茶にはまだ出会ったことはない。中でも故郷の名産品である超スッパウメェと自家製唐辛子が絶妙にブレンドされたピリ辛ウメコブ茶は、今の私でも再現できない。
 できないはず、なのに。今、目の前に出されたお茶はその特製ピリ辛ウメコブ茶よりも深く、じんわりと体に染み渡っていく。生き返るみたいに、私は生きていていいんだなぁと思えるような温かさが全身に広がる。
 すごい、こんな心を動かす飲み物を作れる人がいるんだ。視界はぼんやりしているけれど、いつの間にかテーブルの対面に長い刀を抱えて、ゆったりと腰かけている男性の姿があった。

「ねぇこれ、あなたが用意してくれたの!?」
「あァ」
「すごい……深いけど澄んだ出汁の味……コンブだけじゃないよね」
「わかるのか」
「うん、この旨み……キノコかな?」

 言葉数少ない目の前の人物の顔は未だにモヤがかかっている。けれど、すごく安心できるような、聞き覚えのある優しさの潜む声色だ。

「とは言っても、おれも指示されたとおりに淹れただけだ」
「でも、すごくおいしい! 私、ばっちゃのお茶が大好きなんだけどそれよりも美味しいよ!」
「ばっちゃ……?」
「うん。私のお母さんみたいな、オシショーさんみたいな人!」
「へェ……その人はどんな人で、どんな顔をしているんだ」
「どんな?」

 ばっちゃに興味を持ってくれたのだろう。どんな人だったのかと尋ねてきた。
 大好きだったばっちゃ。村を出る少し前にぽっくり逝ってしまった。厳しいこともたくさん言われた。けれどそれは全部、私のためだってことはわかっている。ばっちゃなりの優しさだ。そんなばっちゃの顔を忘れるはずがない。しわしわの、特に目元に深く刻まれた笑いじわに……あれ、えっと。大好きなところ、たくさんあったはずなのに。急に何も思い出せない。思い出をひとつひとつ掘り起こそうと手に取る。けれどすぐに真っ黒な砂に変わって、掌からこぼれ落ちていく。

「あれ……どうして、ばっちゃ」
「本当に大切な人なら思い出せるはずだろ」
「嘘なんかついてないよ? 本当にばっちゃからたくさん大切なこと教わって」

 急に冷たく刺すような語気になったように感じる。焦れば焦るほど、次の言葉が出てこない。少し待ってほしい、そう思って伸ばした手は振り払われてしまった。目の前の人は「失望した」とだけ言い放ち、背を向けて歩き出す。
 次第に遠くなる背中。痛い。その言葉があまりにも重くて、それをあなたに言われたことが何よりも辛い。大切な人、なのに。

「待って! 忘れてなんかいないから! 私のいつも作ってるドリンクだって、ばっちゃが基礎を教えてくれて……だから、本当なの!」


 ばっちゃは、私が作るものすべてに生きているんだ――ハッと体を起こすと、瓶や缶、木箱でいっぱいの見慣れたサニー号の自分の研究室だった。どうやら机に伏して寝てしまっていたらしく、メモ帳には少しだけよだれの跡があった。慌てて近くのタオルを取って口元を拭った。
 あまりにもリアリティがありすぎて、心臓がドクドクと大きな音を立てている。夢でよかった、そう思っていると夢の中の男性と同じ声で「起きたか」と聞こえてきて、思わず手からタオルを落としてしまった。急いで拾い上げ、鼻から下を隠す。口から心臓が飛び出るかと思った。

「あ、うん……びっくりした」
「びっくり?」
「ううん、こっちの話」

 今ではすっかりローの指定席になっている、座り心地が良いとは言えない小ぶりのソファ。その膝の上には読み終えたであろう本が置いてあった。ずいぶんと長い昼寝をしてしまったらしい。

「もしかしなくても結構寝てた? 起こしてくれてもよかったのに」
「寝れるときに寝たほうがいいだろ」
「いつもちゃんと寝てるよー?」

 髪の毛を手櫛で整えながら夢の内容を思い起こす。最初は幸せな夢だと思ったのに……大切なものが次々と消えてしまうような、背筋がゾッとする夢。目が覚めて、部屋にひとりきりではなくてよかったような、夢の中の人物がいてどきりとしたような。
 大きな幅の二重に透き通るようなグレーの大きな瞳、目元の深い笑いじわ、パーマをかけたみたいなふわふわした、柔らかな髪の毛。ぷっくりとした、いつまでも触っていたいお餅みたいな頬。断片的だけれどまだ、ちゃんと思い出せる。
 どんなに大切な記憶もいつか薄れて、忘れてしまうのだろう。人は忘れる生き物だ。それでも心にちゃんと、ばっちゃが生きていてほしい。そんな生き方ができたらいい。できているはず。

「何か飲むか」
「へっ」

 そう言ってローがソファから立ち上がって近くの小さなテーブルを兼ねた箱の上に本を置いた。一瞬理解が追いつかなかったけれど、何か飲むかと尋ねてきたということは、用意してくれるということ、なのだろうか。

「え、ローが入れてくれる……ってこと?」
「あまりにも複雑なモン以外ならな」

 そう言いながら作業台のお湯の入ったポットの前で立ち止まった。そしてコップが並べてある棚へと視線を向けた。
 まさか、ローが私に飲み物を入れてくれる日が来るなんて思っていなかった。夢の中だけでも幸せだったのに……もしかしてまだ夢を見ているのでは。そう思って頬を引っ張る。するとミィっと可動域いっぱいまで伸びて、じんとした痛みが走った。

「いてて」
「何してんだ」
「ちょっと確認をね」
「何のだよ」

 ふんっと、鼻で笑ったような声。その音が部屋の中でぽよんと楽しそうに弾んだ。それなら――今は夢の後半部分のことは忘れよう。この機会を逃したら二度とないかもしれないローの好意に甘えることにした。

「じゃ、コブ茶をお願いしようかな〜」

 夢のせいで完全にコブ茶の口になっている。立ち上がってコンブの缶と、小さな瓶に入っている梅を棚から下ろす。固形のものもあるけれど、どちらも粉末のものだ。これならお湯に溶かすだけ。ローでも簡単にできるはず。たっぷり飲みたいから湯呑では足りないな。シンプルな茶色と黄色のマグカップを手に取り、ことんと台の上に乗せた。

「こっちの缶からはスプーンで一杯、私のカップには追加でこれをひとつまみ入れてお湯を注ぐだけです〜」
「それだけかよ」
「そうだよ」

 あまりのお手軽さに拍子抜けしたのか、それでは不満なのか少し細めた目でじいっと私を見下ろす。けれどそこに拒絶とか否定といった負の感情は感じられない。純粋におれの力量をなめてんじゃねェぞ、とでも言いたげなものだ。

「じゃあ……ローがこれ! って思ったものをちょい足ししてみてよ」
「そもそもコブってのは何だ。何味なんだ」
「コンブだよ、出汁の味的なお茶」
「昆布……海系か」
「そうそう」

 私は安定の唐辛子のほかに適当にもショウガやシイタケの粉末、はちみつの瓶、貝柱、ドライレモンなど、混ぜても大事故にはならないであろうものをいくつか並べた。もしかするとお茶というよりはスープに寄ってしまうかもしれない。けれど美味しければよし。ローはもう一度私の顔を見た後、グッと眉間にシワを寄せながらその追加の材料達に顔を近づけた。
 もしかしたら今ここは、世界で一番の特等席なのでは。作業台に肘をつきながら、ひとつひとつ手に取り蓋を開け、香りを確認しているローの横顔を眺める。
 人のことなんか言えたもんじゃない目の下のクマ、そんな目元にひっそりと影を落とす長く伸びたまつげ。スッとしている鼻筋。サンジより少し多いアゴヒゲ。もみあげ、ピアスと視線を動かしてもう一度目元を見るとその瞳がぎょろりとこちらを向いた。そして蓋を開けた瓶を持った手を、こちらへと差し出すように伸ばした。

「組み合わせによる効果やらなんやらの解説はないのか」
「しちゃったら面白くないよ」
「面白さは求めてねェんだが」
「直感でいいよ〜」

 ニィっと笑いながらローの手元へ視線を落として体を左右に揺らす。早くちょうだい、とアピールするように。するとその気配を察知したのか、ローは小さくため息をこぼした後、何やらぶつぶつとぼやきながら私のマグカップへとスプーンを動かし始めた。

「あっ、見ちゃったらつまらないか!」

 私はすとんとその場にしゃがみ込んだ。すると「いいのか、見張ってなくて」と、何やら不穏なセリフが頭上から降ってきた。「おれの能力を使えばこの部屋の大抵のモンは混入できるぞ」と、人をからかうような、よからぬことを企んでいるような物言い。
 確かにそうだ。辛子マシマシにされたらフランキーみたいに火ぃ吹いちゃうかも。でもローはそんなことしないよね。きっと、そんなことしない……たぶん、しないはず。サンジにはしそうだけれど、私には……えーと。

「もう! そんなことしないくせに!」

 私がぴょんと跳ねるように立ち上がると、スプーンでクルクルと混ぜながら、ルフィを同盟に誘った時のようなあの悪〜い顔をしたローの姿があった。この表情を見るのは何度目だろう。もう手遅れ、混入しているかもしれない。

「してない……ですよね?」
「さァな」

 昔絵本で読んだ悪役みたいな笑み。それはビビってしまうやつです。あーもう。少し隙を見せたらこれだ。でも……何というか、ただのやんちゃな男の子みたいな、そんな姿を見せてくれるようになったのだと思うと、じわじわと熱く込み上げてくるものがある。
 私達の関係性が、同盟相手であること以外の形になる日が来たらいいような、それはそれで大変なことがたくさんあるような……
 思考が少し寄り道をしていたけれど、ローが私の目の前にマグカップを差し出したことで現実に戻ってきた。「ありがとう」とそれを受け取って、両手で顔の前へと運ぶ。
 ふわ、と優しく、心温まるような香りとスッとしたスパイシーさが一緒に鼻を通り抜けていった。

「これ、絶対美味しいやつだ〜」
「飲んでもいねェのによく言うよ」

 まったく、と付け足しながらローは自分のカップの中身を混ぜ終えてスプーンを小皿に置いた。私はその動きを見届けてから「ではありがたく、いただきます」とカップを口元へと運んだ。
 口に含んですぐに、予想どおりお茶というよりはスープだと思った。ショウガとウメが舌の上で転がり回ってから、まろやかなほかの素材達が絶妙に絡み合って旨味が全身に広がっていった。

「おいし! 天才じゃん、何入れたの?」
「……ショウガやらシイタケやら、適当に」
「よく色々入れてケンカにならなかったね……めっちゃ温まる〜」

 体が温まると同時にしゅわっと顔の力が抜けていった。自分でも思い切り目尻が下がっているなとわかる程に。幸せってこういうことだよなぁ、と次の一口を含む。
 懐かしい。けれど新しい。芯の部分にばっちゃを感じる。誰かを想って作った気持ちはきっと伝わる。健康はもちろん大切だけれど、それは何より笑顔から作られると信じていたばっちゃの想いは今日も生きているんだ。

「ところで……お前のだけに指定してきたその粉は何だ」
「あ、せっかくだから味見してみる? そっちは何足したの? 少し飲ませてほしいな」

 ローがウメ嫌いなことはパン嫌いが発覚した後、おにぎりを巡ってサンジとケンカをしていた一件で把握している。あの酸っぱさに嫌な思い出でもあるのだろうか。
 確かに超スッパウメェはそれだけで食べたら口がこれでもかとキューッってなるけれど、あれがいいのだ。植物性乳酸菌も含まれているし、代表的なのはやはりクエン酸。疲労回復に効果抜群だし血行も良くしてくれる、いいこと尽くしのスーパーフードなのに。医者なのになんだか不思議だ。
 嫌いなのだとわかってはいても少しだけ、ローにウメの入ったお茶を飲ませて反応を見たいという気持ちがムクムクと大きく育っていった。そこまで酸味は強くないから、もしかしたら梅嫌いのローでも大丈夫なのでは、という期待も含まれている。
 疑うこともなくローは私が差し出したカップを手に取って、私もローからカップを受け取る。すんっと鼻を近づけるとショウガっぽさの後にゴマと思われる香ばしさがふわりと漂ってきた。

「……!! おまっ、これ」

 ローが勢いよく目を見開きながらこちらを向いた。最初から私のものにだけウメを入れると指定していたし、少量だったことで匂いをしっかりと確認していなかったのだろう。大注目の口元はもちろんあの酸っぱい顔である。キュッと口をつぼめていて、端正な顔がまさにウメ干しのようにくしゃっとしている。激レアな瞬間である。

「香りもそんなにしないし、言うほどウメ感強くないでしょ?」
「薄かろうと存在してりゃァウメはウメだ!」
「スーパーフード! 体にいいんだから! ウメ!」
「へェ……」

 健康食材だと押し切ろうとしたけれど、ぴきっとローのこめかみが引きつったのがわかった。私は心を落ち着けようと手の中にあるカップの、本来はローのものであるお茶をごくりと一口。こちらもゴマの風味がいいアクセントになっていて、ごくごくと飲めてしまいそう。なんならこのスープでおじやを作ったら美味しそうだ。
 おじやのことを考えながらローと視線が合わないようにしていると、「おい」と低い声がする。カップを顔の前で固定したままそーっとローの様子をうかがうと、より距離が近づいていた。あ、これはまずい……私は反射的に一歩後ずさった。

「口直し、しねェとな」
「ほう……口直し? それなら、これでおじやを作ろうよ。絶対美味しいと思うんだ〜」
「話をそらすな」

 コトン。作業台の上でカップが置かれた音が鳴って、私が手にしていたもう一つのカップもぐんぐん上に引っ張られていく。背伸びして持っていられない高さにまで達して、私はやむなくカップから手を離した。ローが奪い取ったのだ。その黄色のカップはすでに台に置かれている茶色のカップの横に並べられ、私はいつの間にか壁際へと追いやられていた。
 こんなこと、前にもあったような。左側は壁へと伸ばされたローの腕、右側には作業台。機嫌を確認するために顔を上げようと思っていると、その前にローの顔がゆっくりと私の肩口にまで降りてきた。
 息が顔にかかるほどの近さ。ウメのせいでキュッとしていた唇は、もうどこにも見当たらない。余裕も挑発も含んだような弧を描いている。触れたい。キス、してほしいな。なんて、いつからそう思うようになったのだろう。惚れた弱みだ。それでもこんな感情を忘れなきゃいけない状況はきっとくる。わかっている。

「油断もクソもねェな、本当に」
「それはさ……その、油断しちゃダメなときはしないよ」
「信用できねェ」
「そうだよね。知ってる」
「……まァ、今だけは信じてやる」

 そう言ってローは左手で私の顔のラインをゆっくりと、何かを確認するようになぞってから少し上に傾け、がぶりと噛みつくように私の唇を奪った。ずいぶんと乱暴な口直しだと思ったけれど、それがなんだかローらしいような気がしたし、違うのかもしれないとも思った。まだまだ知らないことだらけ。もっとローのことを知りたいだなんて、私も海賊になってわがままになったものだ。

 しばらくしてようやく私を壁から開放したローは「おじやか。腹も減ったし食いてェな」と私の頭に手を置いて、満足げに微笑んだ。その表情は、優しさや慈しみに満ちているようで――泣きそうになるのをどうにかこらえて、柔和なローの姿をそっと胸の奥に焼き付ける。

「じゃ、キッチン借りに行こう! 何入れたか教えて!」

 人の笑顔からは生を実感できるし、見返りを求めているわけではないけれど、向けた思いが相手にもしっかり伝わっているというアンサーのようにも感じる。
 なんてことのない幸せ。どんな小さなものも見逃さないように。いつかばっちゃの話もできたらいい。ローの作ってくれたお茶にも、ばっちゃと同じ気持ちを感じたんだよって。
  お茶のものではない甘さが体中に広がっていくのを感じながらカゴに材料を詰め込む。半ば無理矢理ローの手を取り、キッチンの主に使用許可をもらうべく部屋を出た。

 ロー。私の心に、あたたかな未知の感情を注いでくれる人。今だけかもしれないけれど……私の心には、生きていてもいいのだと思えるような強い炎が灯っていた。

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