ラブソング


 パンクハザードを出航してすぐは海坂を滑り降りたり、ロング渦よりも勢いがありそうな渦潮に飲まれそうになったり、すさまじい暴風に見舞われたりもした。けれど夜になってからの海上の波は比較的穏やか。闇夜に浮かぶ月の光をたっぷり含んで揺らめいている。
 嵐の前の静けさ。もしかしたらこれがそうなのではという思いと、嵐なんて私達の冒険にはつきものだし、なんて強がりの攻防戦だ。
 息苦しさもあった。だから何度も深呼吸を繰り返して、いつもよりやけに鼻につく潮の匂いで体を満たした。そうすることで私は海賊なのだと言い聞かせていた。

 四皇を倒すための作戦を全員であらためて聞いたのはまだ明るい時間のこと。私達がパンクハザードで非人道的な科学者、シーザー・クラウンを誘拐、人質とし、ローが〈SAD〉という薬品を作る装置を壊したことで闇社会でのブローカー・ジョーカーである王下七武海であるドフラミンゴへダメージを与える。そしてこれから向かう先、ドレスローザにある〈SMILE〉という人造の動物ゾオン系悪魔の実の製造工場を破壊すれば材料も製造ラインも断つことができ、そのSMILEを買い込んでいる四皇・カイドウの戦力を削れる、というものだ。
 驚くべきことに、ローはドレスローザの現国王でもあるドフラミンゴを脅し、人質であるシーザーとの交換条件として七武海を辞めるようにという交渉をしたらしい。つまり、国王でもいられなくなる。カイドウの怒りをドフラミンゴに向ける策のようだ。
 トラファルガー・ロー。まるで以前から知っていたかのような空気感の不思議な存在。ローと初めて出会ったのはシャボンディ諸島で迷子のゾロを探して一人で島内を歩いていた時。私のことを"リュック屋"と呼ぶ少し変な人。
 パンクハザードで檻に捕らわれた時にその話をしてから、ルフィには私とローが友達だと認定されているし、そもそもルフィは同盟イコール友達と解釈しているし、もう仲間だと思っている節がある。ロビンからは何やら余計なお世話の波動を感じる。そしてロビンからその話を聞いたであろうナミからも。
 パンクハザードでの一件が落ち着いてから、ローは私のことを名前で呼んでくれるようになった。ローという男には思いのほか人間味がある気がする。心がある海賊だと思う。本質が根っからの医者なのだろう。子供達の手当てをしている姿を見ていそうなのだと確信したし、あの時の子供達を見つめる眼差しが、表情が頭から離れなくなってしまった。
 宴でも、島を出てからもチョッパーを交えて色々な話をした。けれどローの言うとおり、私達の関係性を示す言葉は同盟関係という以外にないだろう。そうなのだと頭の中で何度も繰り返していた。
 きっと、これまで以上に大きな戦いになる。気を、引き締めなければ。
 いつもなら寝る準備を始めるか本を読んでいる時間だ。けれど、とんでもない交渉が進行中ということもあって、いつ船に敵襲があってもおかしくはなかった。

「あのさ、折り畳みまな板の強度を上げたいんだけど、そうするとやっぱり重くなっちゃうよね?」
「そうだなァ……例えばだが、お前が重さに耐えられる力をつけりゃ」
「それってもっとムッキムキになれってこと!?」
「半分は冗談だ。そうなると素材そのものを変えるか……」
 この後見張りへと向かうフランキーを捕まえて、武器についてや、今後の私の戦闘スタイルついての相談をしていた。ただ、彼のメカニックな話はやはり少し難しい。それはフランキーも同じらしく、私の薬膳の話はいまだにわからないことも多いらしい。
 錦えもんに出してもらったヨロイカブトという装備を身に着けたルフィとウソップ、チョッパー、さらには何やらゾロに勝負を挑んでいるような様子の錦えもん。一気に甲板が騒がしくなって、私達は一度話を止めた。
 わくわくしているようなルフィとは違って、ウソップとチョッパーは目を血走らせていて、私の気持ちはどちらかといえば二人に近かった。
 刀から炎をまき散らしている錦えもんが再び視界に入ってくる。ナミが危ないと諭しているところに、サンジが夜食を食べるかと顔を見せた。
 お腹は空いているようで、そうでもなかった。何とも言えないもったりとした重さが、体の中に居座っていた。今日の夜食はピザらしい。それなら大丈夫だと返事をしようとしたところで、何やらお風呂がどうのと大騒ぎになって、サンジとブルック、錦えもんが一目散にお風呂場の方へと走っていってしまった。どうやらモモくんがロビンとお風呂に入っていることをよく思わなかったようだ。その話を彼らにしたナミも小さくため息をついてから追うようにして風呂場へと向かった。
 夜食を食べる組もダイニングへと消え、嵐が去った後のように少しだけ静けさが支配する甲板で空を見上げる。同じ空のはずなのに故郷の空とも、これまで旅してきて見たものとも違う。なんだか落ち着かなくて、でも眠れそうになくて、自分のラボへ向かうことにした。
 ちらり、柵にもたれて座っているローを視界へと収める。帽子を目深にかぶっていて表情は見えないけれど、きっと寝てはいないだろう。眠れないだろう。ふと隣に座りたい衝動に駆られたけれど、仲間もいないこの船では、一人この静けさに身を置いたほうが落ち着くのかもしれない。そう結論付けて視線を外した。



 私専用の小部屋、薬膳研究室に小型のウォーターサーバーがついてからは飲み物を入れるのが楽になった。だから特別なものでなければ準備はいらない。キッチンには寄らずに直行した。
 そんなに散らかってもいないけれど、なんとなく棚の整理をしながら拭き掃除をした。この茶色い瓶は村を出た時から一緒の瓶。こっちは新入り。そんな中でインテリアというか、ディスプレイ的なスペースに置いてあるのはカラフルなフルーツ柄の缶。ナミがくれたもので、ボディクリームが入っていたもの。見ているだけで元気になるし、中には絆創膏や軟膏を入れてミニ救急箱ならぬ救急缶にしてある。その隣にはロビンがくれた装飾がきれいなアトマイザー。これも元はコロンが入っていたものをもらって、今では消毒液が入っている。
 見ているだけでも元気をもらえるような気がする。ネガティブになってはいけないわけじゃない。たまにウソップとめそめそすることだってあるけれど、それでも前を見る。頑張れる自分を、強い人である未来を想像する時間が必要なのだ。
 掃除もその時間のひとつ。私がここまできたことを振り返る時間。そこでふと並べた覚えのない貝殻が目についた。灯貝ランプダイアルでもないし、音貝トーンダイアルでもない。あぁ、グランドシジミの殻によく似ている。力加減を間違えたら割ってしまいそう。角度を変えると部屋の灯りを浴びて緑や黄色、ピンク味をまとって輝く。なんだか懐かしいような、大切なもののような気もした。
 めったにないけれど、酔って置いたのだろうか。明日になったらよくこの部屋に出入りするチョッパーにでも聞いてみよう。布で表面をそっと撫でて元に戻す。手を丁寧に拭いてから寝る前によく飲むお茶を入れて、スッとした香りを吸い込んだ。何かしらの不調があるときにはキツく感じる匂いだけれど、今日はいつもどおり。大丈夫。
 カップを木樽の上に置き、小ぶりのソファにゆっくりと腰を下ろす。読み途中になっていた本を手に取り、しおりの挟まれているページを開いた。

 ガクッと頭が落ちたような、揺れた反動でハッとした。手元の本はしおりも挟まれずに膝の上で閉じていた。どうやら寝ていたらしい。マグカップにはまだわずかに温かさがあったので、寝ていたといっても長い時間ではないようだ。
 ふぅ、とゆっくり息を吐いてから、読んでいたページを探す。おぼろげな記憶を頼りに本をめくる。見覚えのある挿し絵を見つけてそこにしおりを挟み直してテーブルに置いた。
 ぐるぐる。思考が右から左、左から右へと忙しく走り回る。もう一度目を閉じてみても眠れそうにはない。こういう時はゾロに習って筋トレでもしようかな。そう思って再び甲板へと向かおうとラボから一歩踏み出した。
「わ、」
 その瞬間、人の気配がして急いで足を止めたけれど反動で思わずのけぞってしまった。長身の人物。けれどゾロやサンジの匂いでもない。ブルックはよほどのことがなければ寝ているだろうし、こんな時間にラボに用事がある人物なんているだろうか。そう考えている間にその人影が姿を現した。
「あれ、どうしたの?……まさか、迷子?」
「迷子なわけがあるか」
 小さなため息のようなものが聞こえて、眉間にグッとシワを寄せていた。ローだ。
「……寝るところだったか」
「ううん、筋トレしようかなって上に行こうと」
「は」
 私が人差し指で上を指すとちょっと間抜けな声がして、ローは私をまじまじと見下ろした。そして「筋トレ?」と繰り返したので「筋トレ」と返した。
「お前も眠れなくなるクチか」
「ローだって、徘徊してないで目を閉じているだけでもいいし、休んでたほうがいいんじゃないの?」
「ハァ……お前が下へ行ったからわざわざこうして」
 壁にもたれかかってそこまで言ったローが「ンンッ」と咳払いをした。少し体調が悪いのだろうか。それでわざわざ私を頼って来てくれたのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。すぐに喉の不調に効く飲み物でも用意しよう、そう思って「喉、大丈夫? ほかの不調も言ってね。お茶淹れるから」と見上げると、なぜかローは眉間を指でつまんでから天を仰いだ。眼精疲労もかな。
「……あぁ、甘くも酸っぱくもねェモンを用意しろ」
「フフ、わがままな七武海だね」
「海賊だからな、当たり前だろ」
 明日からのことを考えれば、私が筋トレするよりも作戦の軸であるローの体調を少しでも整えたほうがいいだろう。「じゃあ入った入った」と部屋の中へ入るように促すと「邪魔するぞ」と返事があった。帽子を取ってから再びこちらへと向いた視線は疲れているのか眠いのか、これまでの鋭さは影を潜め、目元は綻んでいるようにも見えた。
 ふと、一緒に旅をしてきた仲間のような感覚がして立ち止まった。ローも当たり前のように自然にラボに入る。昼間にチョッパーと来たから初めて入るわけではないけれど……もしかしたら波長が合うのかもしれない。ルフィが仲間だなんて言うんだもん、私にとってももう仲間みたいなもの。ひとまず、深く考えずにそう思うことにした。
 


 ローは鬼哭という名前らしい刀を壁へと立て掛け、そこに帽子をひっかける。それからソファーに座った彼は何をするでもなく、何度か棚の方を見た後はお茶を準備する私の方へと視線を向けていた。ずっと見られているのは何だか落ち着かないけれど、何もしていなくてもきっと落ち着かないから気にするだけ無駄な気がする。
「チョッパーじゃなくてここに来たってことは、二人はあの調子のまま警備中?」
「……あァ」
 何だか心ここにあらず、といった声色に感じた。明日のことで頭がいっぱいなのかもしれない。当たり前だ。同盟を組んだとはいえルフィはいつもおどり、彼の思うままに進むだろう。私も船長についていくだけだ。ローには悪いけれど、そこまで計算しなければ上手くいかないことも出てくるはずだ。
「やっぱりちょっと緊張してる?」
「いや」
 ずっとこちらへ向けられていた視線がふいっと下がった。その眉間には深いシワが刻みつけられているように思えた。否定はしたけれど、しているに違いない。
「そうだ、ローはサンジのお夜食食べた? お腹すいてない?」
「腹は問題ねェ。が」
「が?」
「何か面白い話をしろ」
「うわぁ、なかなかな無茶振りだなぁ」
 できたお茶をカップに注いで、テーブル代わりの木樽の上に二つ並べて置いた。私にとってはちょうどいい、ローにとっては窮屈であろうソファーの横に、小さなスツールを並べて腰を下ろす。ゆらゆらとカップから立ち昇る湯気をぼんやりと見つめた。湯気と一緒にすっきりとした香りが漂う。そのカップのひとつがローの顔の近くにまで移動して、私の視線も一緒に動く。はたと視線が合う。「匂いは合格だな」と口元をひくりと動かした。
「当たり前でしょ! 私を誰だと思ってるの!」
「……リュック」
「もう! 本体はリュックじゃなくて私だから! それにこれはばっちゃ直伝のお茶だからまずいはずがないもん」
 本当に失礼な男だ。ちゃんと要望に応えて甘くも酸っぱくもないお茶にしたのだから、つべこべ言わずに飲んでほしい。手を胸に当てて私が本体だと主張するとすぐに「ハハ」と無邪気さを含んだような声がして、ローはごくりと一口お茶を含んだ。
 そんな姿をまじまじと見つめる。帽子のクセがついて、くしゃりとおでこに張り付いた前髪がかわいいと思った。いや、そうじゃなくて。邪心を払うように顔を強めに横に振る。
 そう、面白い話。この七武海からの無茶振りは無視しても絶対にやれと言われる。脅される。短い期間だけれど把握している。それならさっさとしてしまおう。それにしてもローが面白がるような話。あるだろうか。
「えーと、そうだ。私ね、みんなと再会するまで無人島生活してたの、二年間」
「ほぼってことはそもそもそこは無人島じゃねェだろ」
「おう、さすが突っ込みが鋭い……正確に言うと、人間は老夫婦二人しかいない島。色々あって気づいたらそこにいてね、しばらくは本当に無人だと思ってちょっと絶望した。相棒のリュックはどうにか無事だったけど、中身は最低限の物しか入ってなかったから」
「……お前にサバイバル能力があったことに驚きだ」
「お師匠であるばっちゃから聞いたことや学んだこと、本で読んだこと、色んなことを実践するチャンスじゃんって」
「ばあ様っ子だな」
「……ばあさま?」
「バァちゃんっ子だな」
 ばあさま。あまりにも聞きなれない単語なので反射的に聞き返すと、眉をピクリと動かし、すぐさま訂正してきた。でも、そんなに指摘されるほど私はばっちゃの話を彼にしただろうか。う〜ん。宴の時にもしたかもしれないし、今日もたくさんしているかも。
 あ、これってもしかしなくても呆れられているというか……私は何気なく大好きだったばっちゃの話をしただけだけれど、大切な家族や身内の話が地雷の人だって世の中にはいるはず。心の支えであると同時に、ふとした時、苦しく思う日だってある。それはきっと、ローにだってあるだろう。
「ごめん。私、何かあるとすぐにばっちゃの話ばっかりで……深く考えてなかった。気をつけるね」
 ばあ様っ子だなと言った時の一瞬の表情の変化はきっとそうだ。それでね、と無人島の冒険談を続けようとすると遮るように「あァ、なるほどな。そうじゃねェ」と声が聞こえた。その声は想像よりもふわりとやさしく私の心の奥に触れた。
「お前がそうやって話していると……間違いじゃなかったと、正しかったんだと、思える」
 想定外の言葉に「へ、間違い?」と、自分でも間抜けだなと思うような気の抜けた声が出て部屋に響いた。
「要は気にするなってことだ」
「えっと、なるほど?」
「その能天気さに救われるやつもいるだろうよ」
「んーと……これって褒められてる? バカにされてる?」
「……さて。どっちだろうな」
 能天気が私のことだとして、ローはそれに救われているとでも言いたいのだろうか。そんなこと、あるのだろうか。もしもあるのなら、それは少しだけ嬉しい。現に、ローの顔色はさっきよりいくぶん健康的に見える。お茶のおかげだろうけれど、そのお茶を用意したのは私だ。つまり能天気さ云々は置いておくとして、お茶のおかげ、そしてそれは私のおかげ、そう思ってもバチは当たらないだろう。
「ま、私はそのために海に出たんだから。バカにされたっていい。それでも誰かのためにスーパーな飲み物を用意して、少しでも落ち着けたり、元気になったり、役に立てるのなら本望だよ」
「……飲みモンってより」
「より?」
 お茶を飲み干したらしいローがカップを木樽へと置いた。コトン、音が鳴ってそのまますぐにカップを持っていた手が私の手元へ伸びてきた。びくり、体が揺れてしまってそれを悟られぬようにカップを見つめたまま「あー、えっと、おかわりいる?」と声にしたけれど、その声もたぶん、震えていた。私の左手の甲を覆うようにして、まだ傷の治りきっていない、カサついているローの右手が時々引っかかるように、それでいてぬるりと滑っていった。
「それは誰にでもか」
「えっと、そうだね、世界中のみんなかな」
「それなら、おれの役に立ってもらいてェもんだな」
「へっ」
 視線を少しだけ右にずらす。私の左手があっという間にほとんど見えなくなった。D・E・A・T・Hと刻まれた骨ばっていてたくましい指がするりと動いて、一本一本私の指の隙間を埋めていくのが見えた。全神経が左手に集まったみたいに熱を帯びていく。まるで私の手ではないみたいで、でもそれは確かに自分の手だった。あまりの熱で顔を上げられない。
「まァ……緊張、してるのかもな」
「そ、そっか。そっ……そうだよね! 相手はあの悪名高いドフラミンゴ! 七武海だし、ってローも七武海だったネ……」
 ぎゅ、とローの握力が強まった。けれどそれは一瞬で、緩んだかと思えば今度は親指と人差し指の間をローの大きな手が通っていく。触れているかいないか、ギリギリに感じる温もりが私の手の神経を一層刺激していく。くすぐったくて、なんだか甘ったるくて、やめてほしくて、やっぱり離れてほしくなかった。手のひらと手のひらがぴったりと重なる。私の手から大きくはみ出して見えるローの手。大きくて、あたたかい。ばっちゃの手も大好きだったし、ロビンのハンドマッサージも気持ちがいい。けれど決定的に違うのは、同盟相手の男のゴツゴツとした手だということだった。心臓が酷くうるさく鳴っている。まるで警告するみたいに。
「……緊張したときに、手を握ってくれたの?」
 昔、幼いころ、ローにもそんな存在がいたのかもしれない。だから彼は今、こうして私の手を求めているのだろう。そうでなければ、そう思わなければもっと触れてほしいと願わずにいられなくなる。こんな大切な時に、考えることではない。
「……そうかもしれねェし、そんなことなかったかもしれねェな」
 私の欲しい答えではなかった。肝心なところは私自身に委ねる。心の内を教えてはくれない。それが私とローとの今の距離だ。それなのに、重なっているだけの手が、指が、私の指を確かめるように動く。わかっていてやっているのならあまりにもタチが悪い。でも、そんな海賊を好きだと思ってしまって隙を見せた私も悪い。私、好きになっちゃったんだ、ローのこと。
 このままずっと夜が明けなければいいのにと願うことは許されない。だからせめて、明けるまではどこにも行かないでほしい。私はようやく自分からローの手の温度を求めた。
 指と指が角度を変えて存在を示すように、そして形を確かめるように何度も絡まる。少ししてほどいたかと思えばローの指は手のひらから手首にかけてを流れる。脈を図るのとは違って壊れ物を扱うように手首を優しく撫でられた瞬間。うっかり手をびくつかせて「あの、ロー」と名前を呼んでしまったのが最後、私がそうした理由を理解したらしく、人を救う力強く繊細な指先は執拗に手首の血管上を往復する。何度も、力の加減を変えながら。まるで私の手首を、血管の形をも記憶しようとするみたいに。
 ギュッと唇を結ぶ。手と手が触れているだけなのに、まるで好きだと伝え合うように、愛の歌をささやき合うように身体中から熱がほとばしる。どうしよう、おかしくなってしまったのかもしれない。何か……何か別のことに集中しなければまともに意識が保てそうにない。
 再び指先へと戻ってきたローの指先。次第に私達の手はしっとりとした感触に変わっているみたいで、汗ばんでいるような気がして、それが嫌じゃない。こうしたことが何度もあったみたいに、元々ひとつのものだったように思えて、でもどうやってもひとつになれないもどかしさが湧き上がる。
 そうだった、早く別のことを。そもそも、どうしてこうなっているのかを考える。ローは緊張しているはずで、きっとこれからのことを少なからず不安に思ったりしているのだろう。仲間のことを思ったりもするのだろう。ひとりではないのだと思いたいのかもしれないし、まったくそんなことはないのかもしれない。とりあえずちょうどよく私がいて人肌への恋しさからくる行動かもしれない。他人だからわかるはずもないけれど、それなら、こっちだっていいはずだ。
「ああもう!」
 私は勢いよく立ち上がった。手と手が離れる。少し驚いたのか、ローは少しだけ体を横へずらし、こちらを見上げる。私は間髪を入れずにそんな彼の胸元目がけて飛び込んだ。残念ながら私は押し付けるほどの大きなおっぱいの持ち主ではないから飛びつかれても何とも思わないかもだけれど、ソファーの背もたれと背中の隙間に手をねじ込んで力いっぱいにローの体を抱きしめた。足元をどうしたらいいかわからなくて変な体勢だし、私がローを抱きしめているというよりは首元に顔を埋めているみたいな格好だ。けれど、気持ちは通じるはず。通じていてほしい。
「ルフィは自分の思うままに行動するから、ローの作戦とかぶっちゃけ意味ないと思うし、私の船長はルフィだから。でも、大丈夫。ルフィは友達を大切にする人だから。大丈夫」
「……」
 体が熱くて、胸の鼓動がやけに頭に響く。少しの間があって、頭上から小さな「そうか」という言葉と大きな手のひらが降ってきた。それはルフィのしてくれるものとも、ゾロがしてくれるものとも違う。頭をポンポンと跳ねたローの手は体を引きはがすように私の腕を掴んだ。あぁ、そうだよね。余計なお節介だったよね。
 私はおとなしくそれに従い一歩後ろへ下がる。けれど足元から視線を上げられない。勢いに任せてしたことの恥ずかしさで一気に胸が苦しくなって、でもここは私のラボで私が出ていくのもおかしな話で……それでもどうして、ローは動こうとしないのだろう。
 行き場をなくした想いを、泣きそうなのを必死にこらえていると、ぐにゃりと歪んだ視界があっという間に夜空の色に変わっていた。いつの間にか立ち上がっていたローに包まれて、抱きしめられているのだと理解するのに時間はかからなかった。
「本当に……能天気な女だな。お前はこうしてもらったのか?」
 こらえていた涙がローの服に吸い込まれていった。それと同時に、過去にばっちゃにこうされたのか問われたのだと気がついた。ばっちゃからこんなふうにハグしてもらった記憶はほとんどない。
「……ちがう、もん。その、私がこうしたらローがちょっとでも安心できるかもって、思ったから」
「……安心、か。さっきの話だが……麦わら屋はそうかもしれねェが、ニコ屋の言うとおり同盟には裏切りがつきものだぞ」
「ローがルフィを、私達を裏切るってこと?」
「あァ」
「……そうだとしても、私は疑いたくない。信じられる人になりたいから」
「恩を売りてェのか?……損するだけ、だろう」
「そう思われても損でも、好きになった人のことは信じたいんだ。そういう性格なんだよ。だから……もう諦めてよね」
「……諦めろ、か」
 顔が見えないのをいいことに、言いたいことをそのまま伝えられた気がした。ローがどうとらえたかはわからないけれど、こうして話を聞いてくれているのだ。きっと、たぶん、大丈夫。少しだけホッとして息を大きく吸った瞬間、ローはバッと音を立てて勢いよく私の体を引きはがした。二回目。さすがに引かれたのかもしれない。
 それならそうとハッキリ言ってほしい。諦めさせてほしい。どうして中途半端に優しいの。きっと今は涙と鼻水で酷い顔だと思う。でももう終わりならそんなもの関係ない、そう意を決して見上げるとそこには血行がよくなったのか何なのか、薄っすらと頬を赤らめ、目を大きく見開いた男がいた。
「は、いや、待て……好き……と、言ったか、今」
 ローはそう口にすると拳を顔の高さに上げて、口元を隠している。あれ。私、そんなこと言ったっけ。好きだなんて、そう簡単には……待って、言ってしまったかも、しれない。
「あっ、その、好きっていうのは仲間としてってことね!」
「だから! おれはお前らの仲間になった覚えはねェ!」
「私の中ではそうなの! ルフィもね」
「……そうかよ。それならまァ……そういうことにしておいてやる」
 真っ赤だ。ちらりと見える耳まで真っ赤なのがわかる。いつもなら帽子で隠すのだろうけれど、その帽子のクセでペッタリとしている黒い髪を覆うもこもこは、今は壁で刀と一緒に休んでいるからわざとらしく視線を逸らしている。どうしよう。それってつまり、拒絶ではなくて。
「もしかして、照れてる?」
「違ェ! あれだ、その飲みモンのせいだろ。ショウガやらなんやらのせいで」
「入ってないって言ったら?」
「絶対に入ってる。おれが間違えるはずがねェ! それにお前こそひでェ顔してるからな。人のこと言えたモンじゃねェぞ!」
「っふふ、はは、元気出た?」
 ひどい顔だと言われても、目の前のローは声を張っていて、顔色が良くて。ちょっとでも不安を吹き飛ばせたのなら、私がそばにいる意味はあるだろう。
「……ひとつ言っておくと、さっきみてェな馬鹿力で普通の人間を締めたら元気が出るどころか最悪意識飛ぶぞ」
「へっ?」
「突っ込んできた時の話だ。窒息するレベルだからな」
「あ……あ〜、あれ? 窒息って、え、そんなに……?」
「そんなに、だ」
「だからはがしたの?」
 ペラっとはがされてしまったのは、力の入れすぎが原因だったのだろうか。すぐに「そうだ」と返ってきた。確かに力いっぱいに抱きしめたけれど、まさか窒息しそうなほどだったとは。
「ご、ごめん」
「おれ以外にすんじゃねェ」
「はい……」
 もしかして面と向かって言わないだけで、今までみんなも私に抱きつかれて苦しかったのだろうか。でも、ナミとロビンに抱きついても文句を言われたことはない。男達に自分から抱きつく場面ってそうそうないけれど、特に苦情は出たことはないはずだ。あっても、暑苦しいって言われたり、サンジが鼻血を出して倒れたりしてしまうくらい。
 テーブルから掴み取った布で鼻水を拭きながらそんなことを考えているとローが小さく「ハァ」と息を漏らし、再びソファに腰を下ろした。そして何度か膝を手で叩いた後、私の方へと両手を広げた。
「ほら」
「ほら?」
「わかれ」
「わからないよ」
「座れって言ってんだ」
 ローがチョッパーを膝に乗せていた姿を見たけれど、それと同じ感覚だろうか。呼ばれているらしい。今の思考は正常ではなさそうだけれど、もう恥ずかしいと思うことはだいたいしてしまった気がするし、私は素直にそこに収まることに決めた。
 ゆっくり足を踏み出してローの前に立つ。早くしろ、と言わんばかりに彼は目を細める。いざ、私は体の向きを変え、ローはソファーだと言い聞かせながら恐る恐る体の重心を下げる。すると素早くお腹周りをホールドされて、あっという間に膝の上にいた。
「あ! その、チョッパーと違って重い……と思うんだけど」
「むしろもっと肉をつけろ」
「ぽっちゃりはイヤだよぅ」
 ぎゅう、と後ろから抱きしめられたかと思えば脇腹をつままれた。「ひゃ!」と声が出てしまった。乙女のお腹をつまむなんて。顔が熱い。「やめてもらえます?」とふり絞った声は届いていないようで「どっからあのバカみてェな力がでてるんだか」と、お腹周りを触診するようにむにむにとつまみだした。
「やぁ、くすぐったいって……ねぇ、」
「……ハァ……さっさと寝るぞ」
「は、ちょっと、勝手に人のお腹触っておいて何そのため息! 次からお代もらうからね! でも、少しは眠くなった?」
「ま、誰かさんのせいでな」
 眠くなったのならイイことだと思うのに、まるで悪いことをしたような物言いだ。それに、好き勝手しておいてそんなため息をつかれるなんて、ちょっぴりどころかとっても腹立たしい。
「私のおかげ、って言ってよね」
 ソファー、もといローの膝から立ちあがろうとするけれど、変わらずにしっかりとホールドされていてびくともしない。
「あれ、寝るんじゃないの? どくよ?」
「お前も大人しく休んでおけ」
「え〜っと、このまま?」
「いちいち説明が必要か?」
 どうやら私はこのままローの膝の上で休んでいいということらしい。どこまでいっても素直に教えてはくれないのだ。そういう男なのだ。嬉しさ半分、悔しさ半分。ゆっくりとローの体によりかかって自分の体を預ける。
「お肉……そうだよね、おっぱいなくてごめんね」
「お前はすぐそういうことを」
「ローだからだよ」
 お肉があった方が抱き心地がいいよね、お肉をつけろってそういうことも含まれているよね、やっぱり胸が大きい方がいいに決まっている。なんて本音は今は閉まっておくことにしよう。
「不思議なんだ」
「何が?」
「いらねェと思っていたものを、悪くないのかもしれないと思う自分が」
「この海には不思議がいっぱいだもんね。しんじられないことも、いっぱいおこるよ」
「……そうだな」
 優しく髪を撫でられているような感覚があった。「本当に、不思議な女だ」と聞こえたような気がしたけれど、いつの間にか眠りの渦に飲み込まれていた。あたたかなゆりかごに揺られているような、穏やかな気持ちだった。初めてではないような、やっぱり何度もこうしたことがあるような、そんな安心感が私を包んでいた。



 目が覚めたとき、私はソファーにうずくまっていて、お腹にはひざ掛けが乗せてあった。ローはいなかった。全部夢だったかもしれないと思ったけれど、木樽の上にふたつ並んだカップが現実だと教えてくれた。
 せめて夜が明けるまでという願いが叶わなかったことがあまりにも寂しかった。もう一度、彼の温もりを探してソファーに体を沈めてぎゅっと目を閉じる。
 次に目が覚めたら、気を引き締めて、麦わらの一味の私としてしっかりするから。だから今はまだ、あなたを好きな“私”のままで眠らせてください。 

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