熱に浮かされて


 情けないことに、ローとの買い物中に体調を崩した。久々のことだった。チョッパーにも診てもらって、サンジのご飯でしっかりと栄養を摂って早めに布団に入った。
 健康というか、元気だけが取り柄みたいなものだから、こんな不調はアラバスタを出てすぐに熱を出して以来な気がする。あの時はローグタウンで半ば巻き込まれた形でメリー号に乗って、そのままアラバスタまでルフィ達と駆け抜けた疲れ。プラスして船医としてチョッパーも仲間になって、医者もコックもいる船に果たしてこのまま居続けていいのだろうかと、自分の存在意義が揺らいだことによる精神的なものが大きかった。特に、ナミがケスチアに刺されて熱を出した時、何の役にも立たなかったことを引きずっていたから。
 サンジも言っていたけれど、食事療法としてのメニューを出すことはできる。でもそれ以前に必要な診断を下すことは私達にはできない。未然に防ぐためのものとは違って、発症してしまっている以上、原因がわからなければ適した料理を出すことはできない。ましてや原因を取り除くことなどできるはずもない。
 漢方薬もあるけれど自然治癒力を発揮させたり補ったりするものが多い。中には即効性があるものもあるけれど、必要な時に効かなければ意味がない。ナミはずいぶん楽になったと言ってくれたけれど、何が『世界中の人達を笑顔にしたい』だと、悔しくてたまらなかったことは今でも胸に刻まれている。
 でも、だから。私はチョッパーの役に立てるように専門的には無理でも最低限航海に必要な医学についても学び始めて、バラバラになった2年もがむしゃらに知識をつけた。
 元々私の薬膳はドリンクに特化していたし、サンジにはコックのプライドがあるだろうからと完全に別物として線を引いていた普段の食事の調理。いずれはそのサポートもできるようにと調理法や食材も様々な角度から研究した。そしてみんなと再会して、胸を張って麦わらの一味なんだって思えるようになった。
 栄養配分が完璧になされたサンジの食事、日々の体調に合わせた薬膳ドリンクで体調には人一倍気をつけていた。あれ以来、不調とは無縁だったはずなのに。まぁ、たまにはこんなこともあるか。
 暗闇の中、私は懐かしい冒険の日々を思い起こした。


 パチリと目を開く。さっきまでいたクジラの胃の中やジャングルや極寒の地でも砂漠でもない。見慣れた、よく知った天井……寝ていたんだ。
 ベッドにナミとロビンの姿はなくて、バタバタとみんなが活動している気配を感じる。うん、気分もすっきりしている気がするし、大丈夫そうだ。問題ない。そう思って体を起こそうとベッドに手をついた。

「わっ」

 上半身を上げた瞬間、思い切り横から頭を殴られたみたいにぐらりと視界が揺れて、再びベッドに沈んだ。船が大きく傾きでもしたのかと思ったけれど、部屋の物が落下するなどの異常は見られない。つまり、揺れたのは私自身だ。

「あれ……?」

 女子部屋の天井がぐるぐるしている。めまいだろうか。そうなんだと認識したら一気に気分が悪くなって、お腹から、胸から不快感が押し寄せて一気に口から出そうになった。思わずぎゅっと目をつむる。
 おかしいな、サンジが以前試した疲労回復デザートの改良バージョンまで作ってくれたからそれも食べてだいぶよくなって、色々思い出しながら寝て……うーん。どうしたものか。とりあえずラボに漢方を取りに行って、その後キッチンで軽く胃に何か入れよう。
 それにしても、誰もいないとなれば自力で行かなくちゃ。私はそっと、ゆっくりと壁伝いに歩きながらどうにか部屋を出た。前へ進もうとする。けれど全然進むことができない。世界がぐにゃぐにゃと歪んでいるみたいだ。
 どうしよう。極寒の地に放り出されたみたいに体中が冷たいし、ミシミシと痛む。この症状、一体何を飲めばいいのだろう……ほとんど機能していない頭で必死に考えていると、曲がり角と思われる場所で誰かにぺちょんとぶつかった。反動で尻餅をつくように床に倒れ込んでしまった。

「わぁ……ご、ごめん」
「朝から何情けねェ声出してんだ」

 ゾロの声だった。歩いてくるゾロにも気づけないほど私は体調が悪いらしい。すぐに立ち上がることもできない。できるだけみんなにバレないようにと思ったけれど、もう時間の問題かもしれない。

「っておまっ、こりゃ熱すぎじゃねェか!?」

 しゃがみ込んできたゾロが異変を察知したのか、私のおでこを触って声を上げた。その声ですら今は頭に重く響く。それにしても、ゾロが驚くってことは本当に熱があるんだ。寝る前には下がっていたはずの熱、ぶり返しちゃったのか。

「ゾロ、ぶつかったついでにラボに寄ってからキッチンに運んでほしい」
「キッチン行ってどうする気だ」
「お水と何かご飯」
「ちなみに研究室は」
「漢方、飲もうと思って」

 いつもピンピンしているので基本的に漢方薬の保管はラボでしている。ナミやロビンが必要とした場合は私がラボへと取りに行っていたので女子部屋に非常用が置いてあったりするはずもなく。一度取りに行きたいと思ったけれど、すでに熱が出ているならチョッパーの所へ行って解熱剤をもらった方が早いかもしれない。漢方は落ち着いてから、かな。

「あ。やっぱりラボはいいや、チョッパーの所……」

 そこまで言って体から急に力が抜けていくような感覚になった。しゃがんでいるゾロに向かって倒れ込むような格好になってしまった。

「ったく、チョッパーなら呼んできてやるし、必要なもんも運んでやる。とりあえず部屋に戻るぞ」

 少しだけ呆れたような、でも優しい声。ゾロは私の背中と膝の下に手を伸ばし、すっと持ち上げた。この抱えられ方は……ちょっと恥ずかしいけれど、そんなことも言っていられない状況だと自覚はしている。私はそのままゾロに女子部屋まで運んでもらうことにした。

「お前がこんなになんのは、アラバスタを出た時以来か」
「わぁ、覚えてるんだ」
「久々に何か壁にでもぶち当たったか? それか、マジもんの奇病」

 壁にならぶち当たった。特大の、高くそびえ立つ分厚い壁に。でもどうしてそれをゾロが知っているんだろう。まだぶち当たったばかりだし、すぐに心の隅に追いやったというのに。

「時々吐き出すくらいならバチは当たらねェと思うぞ。こうなっちまう前に。頑張るのはいいことだが、それは無理をしたり嘘をつきながらするもんじゃねェ」

 つまり、私が体調を崩した原因があの時と同じく精神的なものが大きいと思っていて、なんならその兆しを感じ取っていたということだろうか。ゾロって何だかんだ私達のことよく見ているよね。それにこうしてはっきりと言ってくれる。本当に、頼りになるなぁ。

「ゾロってばすごいね。お医者さんみたい」
「どこが。お前がわかりやすすぎなだけだろ」
「そうかなぁ。ゾロがすごいんだと思うよ」

 普段は面と向かってこんなこと言わないけれど、今なら言ってもいいような気がした。ゾロは自分に特別厳しくて、私もそんなゾロを尊敬していて、そうなれたらいいな、なんて思っている

「ゾロみたいに強くなりたいって、思ってるよ」
「何だ急に……って、熱のせいか。大したことなかったんじゃなかったのか」
「寝る前には下がったんだけど、ぶり返しちゃったみたい」
「で、原因はトラ男か?」

 どくり、心臓が跳ね上がった。この男、恐ろしい。恋愛事情なんかまったく興味ないし、何かあったって勝手にやってろ、みたいな顔してサラッと核心を突いてくるなんて。逆にナミやロビンより恐ろしいよ。

「うーん、そうなのかなぁ」
「色々と詰め込みすぎだ、最近のお前は」

 あ、不覚にもときめいてしまった。熱のせいで沸点が下がっているからだと思うけれど……私がローのことをぼかしたら、それ以上突っ込んでこないその気づかい。原因がローだとしてもそうでないとしても、私は私のペースで、焦らなくていいのだと言ってくれたような気がして胸がぎゅっとっと絞め付けられた。この情けない状況の身体には痛いほど染みる。

「ゾロってば優しすぎでしょ。あんまり甘やかすと……ダメ人間になっちゃう」
「いいんだよ、たまには。今はなっとけ」

 こらえきれなくなった。ぶわっと、フランキーが間違って振ってから開けたコーラのように感情が抑えきれなくなった。ぽろぽろと涙がこぼれ出た。ゾロはそれでも真っ直ぐ前を見たまま、余計な振動が伝わらないように歩いてくれている。一度立ち止まったりした気がしたけれど、ゆっくりと、静かに。

「これは……ひとりごとなんだけどね」
「あァ」
「焦ってるんだ。私って戦闘に関してはみんなにすごく後れを取ってて、覇気が使えるっていっても、まだ全然使いこなせてないし」
「そうだな」
「七武海だとか、四皇だとか、立ち向かっていく勇気を持ってるふりをしているだけなんだ」
「そうか」
「最近ずっとキラキラしててね、キラキラ見えてね、それが好きとか嫌いとか、恋だとか、そうだとかそうじゃないとか、そういうの考えてる場合じゃないのにね」
「それで強くなるんならいいんじゃねェか、考えたって」
「……」



 ゆりかごで揺られているような浮遊感に身を任せているうちに女子部屋についていたみたいだ。ゾロはそっと、まるで壊れ物を扱うようにベッドへ私を下ろしてくれた。おかげで急に痛みが増したりすることもなかったけれど、それでもまだ頭は締め付けられているみたいだし、体もいつもよりもずっしりと深くベッドに沈んだような感覚だった。

「しんどいだろうが、もうちっと待ってろよ。すぐにチョッパー呼んで来てやるから。それまでこいつ頼んだぞ、トラ男」

 ゾロが私以外の人物にも語りかけた。トラ男って言った。ズキズキと頭の中で悪さをする痛みをこらえながらゾロの視線の先を見るとローがいた。女子部屋にローがいる。どうして、いつから……もしかしてひとりごと、聞かれてしまったのかな。
 さっきまでと違ってどすどすと足音を立てて部屋を出ていくゾロ、対照的にじっと動く気配がないローが私を見下ろしている。わからないけれど、怖いと思ってしまった。こんな弱々しい人間であることを知られたくなかった。知られてしまったら、ローはどう思うのだろうか。あんなに遠い存在からここまで近づいたというのに。嫌だ、まだ私、何もしていない。

「……大したことねェって言ってたよな」
「ゾロと同じこと聞くんだね」
「誰だってそう思うだろうが」

 ハァ、と大きく息を吐いたローは近くのイスを持ち上げ、ベッドの横まで歩いてきた。そのイスを私の近くに置き、ゆっくりと腰を下ろして足を組んだ。すっと伸びた大きな手が影を作って、私のおでこの上に乗っかった。ヒヤリ。嫌なもの全部、ローの手に吸い込まれていくみたいだった。やっぱり、ローの手には不思議な力があるのかもしれない。

「気持ちいい」
「そうか」

 目を閉じる。静かな部屋に私の呼吸音だけが響く。きっと、これまでのキラキラは好きってことで……私はローのことが好きなんだ。そんな気持ちだけが膨らんでいく。
 ゾロの優しさとローの優しさの中身が一緒のはずがない。ゾロが言っていた言葉の真意を考える。ローのことが好きだとして、それで強くなるのならゾロはむしろ歓迎するってことだろうか。ローのことが好きで、それを無理にしまい込んで見えない所に隠して、じわじわと体を蝕んで……そうやって体調を崩して迷惑をかけるくらいなら、堂々としていればいいのかな。
 そうか、考えが極端だったかもしれない。別に好きイコール告白しなくちゃいけないってわけでもないよね。素直になって、受け入れて、楽しめばいいのかもしれない。ローの優しさが私の勘違いだったり、一次的なものだったとしても、死の外科医って呼ばれたり、心臓100個海軍に届けちゃったりする海賊がこんなに人に、私に優しかったりするの? ってニヤニヤしたらいい。
 期限付き、なんだ。いつか同盟を解消する日が来る。必ず。それまでにこの気持ちをローがすくい上げてくれたらラッキー、くらいに思えばいいのでは。人が必ず死ぬのと一緒だ。死ぬときのことを考えてうじうじしているんじゃなくて、いつ死んでもいいように生きる。後悔しないように生きなきゃ。後悔しないように、一緒にいる間だけでも――

「おれは」

 ローの声がしてゆっくりと目を開けた。おでこに手を乗せるためにベッドに肘をついているせいかずいぶん近くにローの顔があった。ぼんやりしているけれど、確かに近くに。自分の呼吸音だけだった部屋にいつの間にかローの息づかいがあった。「なぁに?」と返した声は思っていたよりもかすれていて、情けないものに聞こえてしまったかもしれない。

「一船の船長……七武海を買い物の荷物持ちにする女を知ってる」
「わぁ、すごいねその人」

 急に何の話だろうかと思ってローの方へと顔を向けると表情を変えないままで「お前だ」と言った。そうか、私か。あれは荷物持ちというかブラジャー判定のための付き添いだった気がするんだけれど。そう思って「荷物なら自分で持ったよ?」と答えると「荷物を持ったお前を運んだのはおれだ」と返ってきて、そのとおりすぎて言葉に詰まってしまった。

「新しい武器を試すのにおれを指名してきた女も知ってるな」
「あれはさ……その、うっかりミスだし……」
「やべェ飲み物を飲ませて」
「それはローがどうしても飲みたいって言ったからじゃん」

 栄養元気ドリンクに関しては食い気味で反論してしまった。そこだけは譲れない。私は止めたし、飲ませる気はなかったのに。するとローはフフ、と顔をもう片方の手で隠しながら下を向いてしまった。

「何が、そんなにおかしいの」
「その図太さがありゃ勇気もクソもいらねェだろ」
「えっ、何の話?」
「それに、この一味の要とやらになるんだろ」
「かなめ……あっ、うん」

 確かにちょっと前にそんな話をした気がするけれど、話の流れがよくわからなくってムッと目を閉じると部屋の外から私を呼ぶチョッパーの声がした。ローは私の頬をムニっとつかんでから静かに体勢を元に戻した。そして「ユメ〜! ユメ! 大丈夫か!?」と慌ただしく部屋に入りベッドの近くまで来たチョッパーをひょいっと持ち上げてさも当たり前みたいに膝の上に置く。だから……だからその組み合わせは凶悪なんですって。ローに抱えられたチョッパーじゃなくって、チョッパーを抱えたロー。意識がぼんやりしていてもわかる、最凶の組み合わせだ。

「体、一度起こせるか? 無理ならそのままでいいぞ」
「うーん……ダメかも」
「わかった。口、開けて見せてくれ」
「うん」

 あーと、私は口を開く。チョッパーが喉の状態を確認し、掛け布団をどかしてTシャツの裾をべろんとめくりあげた。「ちょっと冷たいかもしれないけど、がまんしてくれ」と聴診器を胸に当てている。いつの間にかローによって体温計も脇に挟まれていた。熱のせいでまともに機能していない頭でも、この医者コンビ、阿吽の呼吸だな、なんてことを思った。そしてチョッパーが持ってきたと思われる小ぶりな氷のうがローによって私のおでこの上に置かれた。

「うん、心音も綺麗だし、疲れとかからくる風邪だとは思うんだ。とりあえずこの薬を飲めば落ち着くはずだ。でも一応、血液検査だけさせてくれ!」
「血液?」
「あァ、血液検査だ。すぐ準備してくる」

 チョッパーはそう言ってローに薬を渡すとぴょんっと膝の上から飛び降りてあっという間に部屋から出て行った。
 全身の血の気が引いていく。血液検査ってあの、血を抜くやつだよなぁと必死に頭を働かせる。子供のころのトラウマ。色々あって注射が怖くてダメになってしまった。だから絶対に健康な人生を送るんだと誓ったほどに注射が、針が嫌いだ。

「ロー、お願いがあるんだけど」
「何だ」
「チョッパーから逃げたい」
「は?」

 ローはこいつ何言ってんだと言わんばかりの表情で顔を歪ませた後、予想どおり「何言ってんだ」と言った。私は氷のうをどかして起き上がる。「採血、無理」とローの手をがっしりと掴んだ。ローはたじろぐ。

「いや、マジで何言ってんだ」
「採血、無理。私死ぬ」
「んなモンで死なねェよ。血なんか見慣れてんだろ」
「血じゃない、針。針が無理なの。わざわざ血管を探してプチって刺すの、あれがダメなの。本当に」

 一生に一度のお願いをここで使ったっていい。私はローの目をじっと見た。今までの悩みとか正直全部ぶっ飛んだ。注射の針、お前だけは本当に無理だ。

「……ハァ……わかった」

 ローは何かを絞り出したような声で頭を抱えながらそう呟いた。え、本当にチョッパーから逃がしてくれるの? そんな期待の眼差しを向けたけれど、どういうわけか掴んでいた手を掴み返されて私は再びベッドへと沈むことになった。思ったよりも勢いがよくて、少しだけ頭の痛みが強まった。

「諦めて採血されろ」
「え……うそ、今わかったって言ったじゃん? 言ったよね」
「待たせたな〜! さっさと取っちまおう!」
「ヒィ! 悪魔が来た!」

 チョッパーが戻ってきてしまった。今度はローの膝の上ではなく、ぴょんっとベッドに飛び乗った。助けて、本当に助けてほしい。私をあの針から救ってくれやしないのか。
 左腕に駆血帯が巻かれて、肘枕が差し込まれた。肘の内側をチョッパーが消毒している。ぼーっとしているけれど、あのアルコールの匂いはハッキリとわかる。刺激してくる。やめて、無理、死んでしまう。逃げようにも体に力が入らないし、右手をローに押さえつけられていて動けない。

「静脈、見つかったか」
「ああ! ここでよさそうだ」

 どうしてローはわざわざチョッパーに静脈が見つかったかを確認したんだ。針を刺すという行為を私に意識させるんだ。あぁ……ダメだ、見ないようにしてたけれど見ちゃいそう。

「ユメ、こっち見ろ」
「え」

 顔をそっと横に向けようと思ったその時。ローの手によってグイっと頭を固定された。動かすことは叶わない。「やれ、トニー屋」と言ったローの顔がまるで降ってくるみたいだった。そしてふにっと、決して艶やかではないけれど柔らかな、弾力のあるモノが私の唇に当たった。
 当たっている。ローの唇が、私の唇に当たっている。しかも何かの反動で間違って、ではなさそうで当て続けられている。人工呼吸が必要な場面ではない。これはキスだ。キスってもっとロマンチックにするものでは。あっ、でもロマンチックじゃないキスも世の中にはあるか……
 瞬きをすることを忘れた私の目はずっと、吸い寄せられるようにローの瞳を見ている。それ以外の選択肢がないのだ。これは一体何ですか、と問いかけるように、私は目を見開いていた。それが気に入らなかったのかはわからないけれど、後頭部に回されていたローの手に力が入って、よりローの唇が押し付けられて、私の唇とむにゅっと密着する形になった。
 キスだな。ローがゆっくりと目を閉じる。まつ毛、思っていたよりも長いな。クマ、濃くなってる気がするな。呼吸をすることを忘れた私の頭はただでさえ熱でぼんやりとしているのに……意識が飛んでしまいそうだった。瞼を閉じる。まるで時間の流れが消えたみたいに、私の意識は抑えらえている右手と、唇だけにあった。

「よし、終わったぞ」

 チョッパーが何か言ったのと同時に私の体は生きることを思い出したみたいにすぅっと大きく息を吸った。魔法が解けて、正しく呼吸をしている。ローは薬と水の入ったコップを手に「飲めるか」と私の顔をのぞき込んでくる。
 あれ、もしかして夢だったのかな。採血が無理すぎて見た幻覚。ちらりとチョッパーへと視線を向けると、左腕にあの特徴的な、忌々しい四角い絆創膏を貼りつけていた。

「え、血、もう採ったの?」
「ああ! 痺れとかはないか? 確か苦手だって言ってたよな」
「あ、うん。苦手って言うか無理」
「次から横になってやれば大丈夫だな!」
「ううん、無理なんだって。え、本当に血、抜いたの?」

 会話になっていない。チョッパーは私が横になれば平気なのだと勘違いしたようだ。そこへ割って入るようにローがもう一度「飲めるのか、飲めねェのか」と確認してきた。私のこのまともに動いていない頭の中では、もし飲めないと言ったらどうなるのか? という疑問が浮かんだ。

「飲めない……気がする」

 疑問はそのまま言葉になっていた。そして「血、抜かれたんだとわかったら急に力抜けたかも」と続けた。事実、左腕の絆創膏を見て血を抜いたのだと認識したとたん、全身がゾワゾワしてきた。やっぱり針は大っ嫌いだ。

「トニー屋、そっちのクッションをよこせ。それから黒足屋に飯より先にフルーツをジュースにしろと伝えてくれ。ゾロ屋には予備の水と替えの氷を運ばせろ」
「わかった!」

 私の体の上をクッションが横切った。それは私の足の下に差し込まれる。「血管迷走神経反射だろ、少しすりゃ落ち着く」と、頭の横に転がっていた氷のうが再びおでこの上に置かれた。そして「薬はそれからでいいだろ」と、ローはサイドテーブルにコップと薬を置いた。
 ああ、これがあのひどいと失神することもある神経の反射か、と理解した。そして薬は飲めないと言ったら先延ばしなるということがわかった。もしかしたら飲ませてくれるのかな、なんて思ったのに。こんな思考になるのはきっと、熱で弱っているからに違いない。

「情けないところ見られちゃったね」
「そうでもないさ」
「ねぇ、さっき、血採ってる時、」

 あれって、キスだったんだよね。そう聞こうとしたら急に「少し寝ろ」と突き放すような、冷めたような声がした。心臓がじりじりと小さく悲鳴を上げる。氷のうが落ちてしまいそうで目だけで恐る恐るローの方を見ると、その声とはまるで見合わない……トラファルガー・ローという人間の、何の鎧もまとっていないような優しい眼差しが向けられていた。
 そんな顔、反則だよ。私の前でだけなのかな、今だけだとしても、そうだといいな。うん。今のキスは幻覚なんかじゃないと信じられそうだ。

「さっさと治せ。買い物、行くんだろ」
「うん」
「覇気の使い方も教えてやる」
「はき?」
「ゾロ屋に教わってんだろうが……損はねェだろ」
「ゾロ、覇気。あ、うん。お願いします」
「ブラジャーの確認もしてやる」
「あー…………うん」
「今のは何の間だ」
「そうじゃないってわかってても……恥ずかしいって気持ちは、ある、よ?」
「……そうか」

 隠しきれていない笑いが含まれたような「そうか」だった。寝ろって言ったのに話しかけてくるじゃん、なんて思いながら左腕で目を覆う。そしてごそごそと布団の中から右手を出してローの方へと伸ばすと、何も言わなくても握り返してくれた。体温のせいか、重なった部分がこのまま溶けてしまいそうな、そんな気がした。
 熱を出したおかげと言ってはなんだけれど、ゾロの言葉でずいぶん気持ちを切り替えられた気がする。けれど、体調を崩すということはやはりいいことではない。キツいし、しんどい。何より、採血なんてもう二度とごめんだ。

「ロー」
「何だ」
「ちゃんと強くなるね」
「おれに言うことか?」
「うん。これはローに言わなきゃ、意味がないんだ」
「まァ……眩しすぎるくらいだな」
「ん? まぶし?」
「ほら、寝とけ」
「うん」

 おかしいな、ついに声までトクベツに聞こえてきた。声がキラキラ、している。そんなことがあるはずない。頭痛の、熱のせいだ。だけれど、絶対に。私はこの好きだという気持ちを力に変えて強くなってみせる。

 これがこの先何年、何十年分の熱でありますように。もう、何かに迷って、悩んで熱を出すことがないように。何かあってもちゃんと乗り越えていける自分になれるように。
 今出せる限りの弱々な出力で手に力を込めると、頑張れって、お前ならできるって言ってくれているみたいに、骨ばったローの手にもキュッと力が入った。

prev/back/next
しおりを挟む