16


「あの、ローさん?」
「ん」
「見てのとおり洗い物が終わったのですが……」
「んー」

 私が洗い物をしている間、ローさんはずっと私の背後に立ち、頭の上に顎を乗せ、重力をかけるという悪戯とも、はたまたじゃれてるとも取れるような言動で私の申し訳程度の乙女心をこれでもかと揺さぶってきていた。心拍数が上がりっぱなしだ。極めつけが「んー」とか、しんどすぎて私が死ぬのでできればやめてもらいたい。
 本当に今この部屋に存在している人物はローさんなのだろうか。私があまりにも拗らせすぎて見えている幻覚だったり幻聴だったりするのだろうか。ぐるぐると思考を巡らせているとようやくお戯れから解放された私の頭頂部をローさんの手がわさわさと2、3往復した。

「さっきのクッキーまだあるか? あとコーヒーも飲みてェ」
「ありますあります! コーヒーも入れますから、あっちで待っててください!」

 ふぁっと口元を手で覆いながらあくびをしたローさん。うん、やっぱり目の前にいるのはローさんだ。深夜のテンションなのかな、あくびしてたし眠いのかな。眠いせいだなきっと。じゃないと私の心の蔵が持たない。打ち上げとかで酔ってもこんな姿は見たことない気がするけど、もしかしたら過去にはあるのかもしれない。今度サンジさんに聞いてみよう。
 ケトルに水を注いでマグカップを棚から取り出す。それでもまだあっち――ソファで待っていてほしいとお願いしたというのにローさんはキッチンに居座っている。さすがに棚の中まで整理整頓は行き届いてないのでまじまじと見られるのは恥ずかしいんですが。

「いい匂いだな」

 ローさんが私の髪の毛に指を通して遊ぶ。触れられた部分がくすぐったい。美容室で触られるのとは全く違う感覚。ダメだ、さすがの私だってこの距離感の友達はやってない。このままの関係でいいって思ったそばから、距離感をグイグイ詰めてくるのはもうそういうことでいいんですか? 決めに行っていいんですか? いいんですよね? もし違ったら怒りますよ私。今後のローさんの人生のためにも友人との一般的な距離感を夜通し説きますけど?

「えーと。シャンプーですかね、私も気に入ってる香りなんです、よ」
「ユメっぽいよな」

 私っぽいってなんだもう、褒め言葉なんだろうけどもうこれ以上普通の会話ができる気がしない。もう知らん、私は「あのですね」と、インスタントのコーヒーの粉をカップに入れたままでローさんの方へと振り返った。

「ローさん! 私だからいいものの、あんまり世の女性に同じようなことしたり言ったりするとさすがに勘違いしますよ。だからベビー5さんだって」

 私もよくはないんだけど……そう、ベビー5さんの件だって本人の性格だけじゃなくってローさんがそう思わせる言動を本人の気づかぬうちにしていた可能性だってあるんじゃ、そう言おうとしたところでローさんは視線を少し斜め上にそらして頭に手をあてると小さくため息をついた。

「おれだって誰にでも気を許すわけじゃねェ。お前に勘違いされたって何の問題もねェし」
「えっ」
「だから」

 そう言ったローさんの顔は急に私の視界から見えなくなった。目の前には私がコンビニで買った無地のTシャツの黒色が広がっている。パックから出したばかりの新品の服の匂いに嗅ぎなれたシャンプーの香りが混ざって、同時に温もりが伝わってくる。今までで一番、ローさんが近くて……これは物理的にもだし、うまく言い表せないけど気持ち的な部分もだ。酔っぱらったままぬくぬくした布団に入って夢うつつで、幸せなあのまどろみのような……ローさんが勘違いしてたっていいと言ったのは聞き間違いだろうか。

「あ、の。ローさん……これはその」
「お前が悪い」
「え? 私が!? あ、あの……ですね」

 ギュッと力の入ったローさんの腕は、私の身動きを完全に封じている。何が悪いのかはこの際置いておくとして……私が悪いと言うくせに、ローさんは全く離れようとしない。両腕は完全に行き場を失って、重力に任せてぶら下がったままだ。

「勘違い、してます」
「ん」
「私、ローさんに何か悪いことしましたか?」
「した」
「それなら、ローさんだってします……」

 バクバクとスピーカーから流れる重低音のように音を立てる心臓。ローさんに伝わってしまっているのではないかと思ったけれど、ローさんの鼓動も感じられて、この世界に今私達ふたりしかいないんじゃないかなんて思ってしまう。どうしてこんな状態なのか頭ではわかっていても、心が追い付かない。完全にキャパオーバーだ。

「ローさんだって、悪いです。私を勘違いさせて、私は勝手に舞い上がって……」

 自分でも何を喋っているか、何と言葉を紡げばいいのかわからなくなっていたその時、「お前と、初めて会った日」とローさんは急に私が初出勤した日の話を始めた。

「お前、ほかの奴らにはヘラヘラ笑って挨拶してたのに、おれにだけそっけなかったっつーか、適当だったっつーか」
「あ……あれはそのですね、私はご存じのとおり人見知りでして、好意的な人にはそれなりに対応できるんですけど……その」
「……そういうことか」
「ローさん無表情だったし、第一印象もぶっきらぼうな印象だったもので……えーと、その節は、すみません」
「おれも似たようモンだな。初日がソレだったから、べつにどうしようとも思わなかった」
「あはは……」

 そんな会話をしながらも、私は未だローさんの腕の中。ローさんの表情は見えない。声だけがさっきの雨みたいに空から降ってきていて、でもその雨音は優しい。

「なのに、だ。今じゃユメがいて当たり前みてェな毎日だ」
「わっ、私も! そうです!」

 そう言った瞬間、少しだけローさんの腕の力が緩んだので顔を見上げようとすると、後ろに回されていた手で私の肩はしっかりと掴まれてパチッと視線がぶつかった。真っ直ぐなその瞳を向けられたら、今起きていることは夢でもなんでもなくって、冗談でもなく全部現実の出来事なんだなって腹にストンと落ちた。
 まさか、ゲリラ豪雨のお陰でこんな展開になるなんて誰が予想しただろうか。私が無理に家にローさんを上げたからだけれど、そうさせたのは豪雨でびしょ濡れになったから。神様なんて信じていないけど、今だけは神様にありがとうと伝えたくなった。肩に置かれていたローさんの右手が私の頭の後ろに添えられて……これは、もしかしなくても。このまま目を閉じて……

『ピンポーン』

 目を閉じて。閉じたい。けれど『ピンポーン』と再び電子音が部屋に響いた。私とローさんは目と目を合わせたまま首をかしげた。常識人ならばこんな時間にインターホンを鳴らすことなどない。すると今度は私のスマホがブー、ブーと振動し始め画面が光を放っている。

「ああっ!!!」
「どうした」
「……一人だけ、こんな時間にも構わず訪問してくる人に心当たりがあるんです!!」
「!?」

 私は名残惜しさをどうにか心の隅に追いやって、その電話の相手を確認することにした。ごめんなさいローさんと心の中で叫びながらローさんから離れる。テーブルの上で規則正しく振動しているスマホの画面に表示されている名前は予想どおりだった。長いこの先の人生を考えたら取った方がいい。

「……はい! もしもし」
『お、出たな。たまたま近くに来たもんで寄ろうと思ったら、ベランダでタバコを吸ってる男を見たんだ』
「ちょ、って! え!? 嘘、いつからいたのそれ!!」

 ローさんが見られていた――明らかに動揺を隠せない私を、ローさんがなんとも言えない表情で見ているのがわかる。不安げにも見える。

『彼氏か? 友達か?』
「前に話したでしょ、バンドやってるローさん」

 ローさんの視線が、は? おれが何だ!? とでも言わんばかりの物へと変わった。これはもう、どうしたらいいのやら。冷や汗が出てくる。嘘もつけない。いやいや神様、なんでこんな展開にしてくれちゃったんですか、やっぱり神なんて存在しないなこんちくしょう。

『なるほど。それなら尚更、挨拶しとかないとな』
「あ〜〜〜い、さ、つ。 は、い……」

 ここで電話はプツリと切れた。こうなったらもう駄目だ、諦めて部屋へと通すしかない。スマホを静かにテーブルに置いてローさんの方に向き直す。

「……ローさん、申し訳ないのですが10秒で覚悟を決めてください」
「は!? 何の覚悟だ、しかも10秒って……今の電話と何か関係あるのか」
「ローさんはすでに見られてしまっているのです。ベランダで一服している姿を、私の兄に」
「……は、兄?」

 本当にごめんなさいローさん。「回避できない必中攻撃なので巻き込まれてください」と頭を深く下げ、私は足早に玄関へと向かった。



 ドアスコープから外の様子をうかがうとそこには私服の兄さんの姿。どこか飲みにでも行っていたのだろうか。ドアを開けると兄さんの左手には中身がぎゅうぎゅうに詰まったビニール袋。時々もらいすぎた野菜だとかお菓子なんかを持ってきてくれるから今日もたぶんそうだ。ありがたいんだけど、何度言っても前もって連絡をくれない。それだけは本当に勘弁してほしい。

「お邪魔するよ」
「はい……」

 玄関に入ると右から左へと視線を動かす。そして「玄関もきちんと掃除できているな」と呟きながら中へと入って行く。あぁ、何で今日来るんだ本当に。
 先に部屋に入ると立ったままのローさん。本当に申し訳なくて土下座したい。私の後ろからは兄さんが足早に歩いてくる。兄さんのペースにさせるわけにはいかない。ここは私がしっかり仕切らないと、と思っていたけれど部屋に入るか入らないかの所から「きみがローくんか! はじめまして」としゃべり出した。あぁ……これは私の入る隙がないかもしれない。

「聞いてるかもしれないが、あらためて。ユメの兄のドレークだ。ユメがいつも世話になってるようで感謝する」
「は、はじめまして。こちらこそユメ……さん、には……いつもお世話になってます」

 たぶんこれは……私よりもローさんのほうが想定外の出来事で混乱しているだろう。頭を下げた兄さんに対してぎこちない話し方で深々とお辞儀をするローさん。どうしてこんなことになっているんだろう。私はローさんへの申し訳なさも相まってつられて二人に向かって頭を下げた。

「立ったままもなんだよな。ユメ、何か飲み物を」
「あ、はい。すぐに」

 ついさっき入れようとしていたコーヒーを、カップを一つ増やしてお湯を注ぐ。いやそれにしても本当にこのクソ兄貴は……「来るなら前もって言ってほしいんだけど」と小さくぼやくと地獄耳なのかなんなのかしっかり拾われていた。

「さっきも言っただろう、たまたま近くに来たついで、だ。それにお前、この時間は起きているだろう?」

 起きてますけど空気読んでくれませんか!? もうちょっとでたぶんローさんとキスする流れだったんですけど。いや待って、私ローさんとキスするところだったの? 別にたまに遊びに来るのは構わないんだけど本当に今日は殺意しか湧かないんですけど。ちょっとイラっとしてきたので兄さんのカップにはコーヒーの粉を多くぶち込んだ。
 トレーにカップを乗せて二人の所へと向かう。すると思っていたよりも会話が成立しているようだった。バンドマンと元バンドマンならいくらでも話題はあるのかもしれない。

「バラティエか……ゼフさんは元気か?」
「……知ってんの……あ、知ってるんすか?」
「ハハッ、気にしなくていいさ。おれも昔あそこで世話になったんだ」

 私もテーブルを囲んで座ってコーヒーとクッキーの乗ったお皿を二人の前に置いた。バラティエの話をしているみたいだ。なんだか不思議な気持ちになる。

「へー、兄さんもあそこでやってたんだ」
「ああ。そのころユメはまだ小学生だったか」
「中学校上がるくらいかも」
「ローくんは、将来は音楽一本で?」
「はい、そのつもりです」
「なるほど……そういえばあのギターはユメのか? 買ったのか?」

 初代ギターとお古のベースの横のスタンドに立てかけられた2代目ギターを見つけた兄さんが少しだけ驚いたような、意外そうな表情をした。私は日々進化し続けるのだ。「超かっこいいでしょ」とちょっと自慢げにあごに手を当ててポーズを取ると、濃いはずのコーヒーを平気な顔でごくりと飲んでから一瞬ん「ん゛んっ」と咳払いをしたあとに「そうだな」と少し引きつった笑みを浮かべた。
 たぶん後でコーヒーがやたら濃かったことを指摘される。それは別にいいんだ、わざとやったんだから。ローさんの前では言わない兄さんの優しさだ。それを知っていて私はやってるのだ。このくらい許されるよね、キスしそうだったのに、なんて思っていると兄さんは流れるように「ユメ、酒あるだろ、何か冷えてるか?」と言った。
 酒。アルコール。うん、あるんだけれどそれってまさかローさんも一緒にってことだよね。血の気が引いた。いきなりこのメンツで会話していること自体イレギュラーなのにそこにお酒をぶっ込もうとしているのだ、このドレークという兄は。

「待って。お酒って言った?」
「ローくんも飲むだろう?」
「いや、おれは服が乾いたら帰るつもりで……」
「明日の予定は? 特にないなら飲んでいけばいい!」

 お酒がある、そして冷えている前提で話が進んでいく。ここで私がないと答えてもきっと兄さんは冷蔵庫をのぞきに行く。兄さんに嘘はつかないほうがいい。現にさっきの電話をスルーしてたとしたら、ローさんの存在は知られているのに居留守を使っているということになってめちゃくちゃ面倒なことになっただろうから。居留守使わなくても今こうしてめっちゃ面倒なことになろうとしてることはもう仕方ない。これが一番平和だ。ローさんの印象も悪くならない一番平和なルート。私は諦めて静かに立ち上がった。
 
「缶のビール、チューハイ、ハイボール、梅酒しかないけど」
「……しか?」

 ローさんが私の説明に突っ込みを入れた。普段はフルーツ系のリキュールとかワインもあったりするけど丁度切らせているので「しか」なのだ。

「十分じゃないか! ローくんは何にするんだ?」
「……じゃあ、ビール、で」
「二人ともビールね、かしこまりました」

 キッチンに向かい冷蔵庫を開ける。お酒を飲むとなると私の冷蔵庫ストックが真価を発揮する。火を噴く。ビールと共に軽くおつまみを引っ張り出す。兄さんは夕飯食べてるかなんて知らんけどローさんはすでにナポリタンをたっぷり食べた後なので軽めの物を……って。ちょっと大変な事実に気づいてしまったよ私は。キスする雰囲気だったけどめちゃくちゃにんにく入りナポリタン食べた後だったじゃん。あっ! でもウーロン茶! ウーロン茶飲んでるからセーフ? セーフだった? もう何が正解なのかわからなくなってきたな。

「ユメはそれなりに家事はできるからな、将来はきっといい嫁になるよなァ」

 ビールやらグラスやらを運んでいるとそんな身内の声がする。何がいい嫁だよ! こちとらあんたのせいでそういう雰囲気になるの逃してるんだよ! そうなる前に兄からの謎プレッシャーでローさんがドン引きするかもしれないじゃんか! 

「ちょっと!! 飲む前から何言ってるの!」
「あァ、さっきも飯食ったけど、アレはうまかった」
「ローさん! この空気読めないクソ兄に合わせなくても!! 大丈夫です!!」
「スイートポテトも美味かったしな」
「ほう、スイートポテトか。おれは食ってないな」
「当たり前でしょう!? ローさんに作ったんだから!」
「ほら、グラスがひとつ足らんぞ。お前も持ってこい」

 

 1時間後。結局兄さんに飲めと言われたので、まぁ言われなくても後から飲んだ可能性の方が高いけれど私も4本目に手をかけるべくキッチンへ向かう。最初のビールを出した時に常温の缶を念のために冷凍庫に入れておいてよかった。キンキンに冷えた頃合いだから3本を手元に抱えて残りを冷蔵庫へと移す。
 なんだかいつもより酔ってる気がする。一歩一歩気をつけながら二人の所へと戻る。音楽やバンドの話は尽きないんだろう、身振り手振りで話すローさんと兄さん。そんな二人の前に冷えた缶を差し出してゆっくり腰を下ろした。
 まるで昔から知り合いだったみたい。ローさんはすっかり敬語のけの字もなくなっていて、兄さんもそれを全く気にしていないようだ。私は近くの大きめのクッションを引き寄せて抱え込んだ。

「バンドを組んだってのは聞いたがもうライブもしてたのか……写真とか動画はないのか!?」
「ない」
「あるぞ」
「えっ」

 ローさんってば、やっぱり写真消してないじゃん。実は動画もサッチさんが編集してくれたDVDをマルコさんから受け取ったばかりだけど、今ここでは絶対に、口が裂けてもその存在は明かすわけにはいかない。ローさんにだって見られたくないのに兄さんもいるなんて地獄すぎる。

「しかも今は新たなバンドでオリジナルを作ってると」
「いちおー」
「そうか。ユメが曲作りか」

 そう言ってグッと缶ビールを一気にあおった兄さん。「ま、ローくんがいるならこの兄のアドバイスなどいらんだろうが」と、私を見ながらうんうんと何度か頷いた。頷いたせいかなんなのか、兄さんが分身しているように見える。なんならローさんも。

「にーちゃんはさぁ、作曲、してたの?」
「たまに、な。バンドをやめてからも弾き語りでライブをしたりな……おっ、これがその時の写真か!」

 ローさんが出したスマホをのぞき込む兄。なんてことを、してくれてるんだローさん。私はそれを阻止するべく手を伸ばそうとしたんだけれどうまく体が動かなくて、まぶたも頭も重すぎて、クッションを抱えたままテーブルに向かって体を倒した。



 いつもなら聞こえるはずのない人の、しかも男の低い声が耳にすっと入ってきて覚醒しきっていない脳を刺激した。ゆっくり目を開けると、部屋には朝日が差し込んでいる。朝、なのか。テーブルの脚が見えるということはここは床で、クッションを枕に寝ていたみたいだ。ベッドにあるはずの掛け布団がかかっていて、聞こえてくる声がテレビや動画ではなくってローさんと兄さんの話し声なのだと認識したところで私は超高速で現実に戻ってきた。

「ちょ、朝! 朝日出てますけど!」
「おっ、起きたか」
「結局朝になっちまったな」

 辺りには追加で冷やした分の空缶がちらばっていて、お酒のストックはほぼゼロになっているとわかる量だった。夜通し飲んでたのか。私はあわてて髪の毛を手櫛で整えて、一体寝ぐせがどうなっているか、不安しかない状況だ。なのに二人からは徹夜していたとは思えない爽やかさを感じる。バンドマンの胃、おかしくないですか?

「ユメも起きたし帰るとしよう。ローくん、また飲もう」
「あァ」
「ユメ、ちゃんと掃除するんだぞ」

 あっ、帰る? まだちょっと寝ぼけていてうまく反応できないでいると、兄さんは凄まじい速度で食器をキッチンへ運びごみを袋にまとめて何事もなかったかのように颯爽と去っていった。帰ると言ってからの行動が早すぎてまだ動けないままでいる。すると玄関先まで兄さんを見送りに行っていたであろうローさんがこちらへと歩いてくる。そして私の前でしゃがみ込むと「起きてるか?」と顔の前で手を上下に動かした。

「わぁ、はい! 起きてます!」
「正直どうなることかと思ったが……」
「本当に兄がお騒がせしまして……すみません」
「いや、色んな話ができていい時間だったよ」

 ローさんの手が私の髪を撫でた。ただただ優しく。たったそれだけのことなのに寝起きの私にはあまりにも刺激が強すぎて、兄さんが来る前の出来事がパッと脳内に蘇った。

「こっちこそ色々と悪かったな。酒のストックも飲み切っちまったし。近いうちにお詫びと言っちゃなんだが……どっか出かけるか」
「……! はい!」

 すぐに立ち上がってしまったので一瞬の出来事だったけど、お酒が抜けていないせいか、寝起きのせいなのか……私が返事をした直後のローさんの表情が今まで見たことのないような柔らかい、まるで天使のような微笑みに見えた。思わず鼻血が出るかと思った。
 私もどうにか立ち上がって乾いているはずの洗濯物を回収して玄関へと向かった。ヤバい、私の心臓が朝からバクバクとフル稼働している。

「これ、洗って返す」
「あ、あまり気を使わなくて大丈夫です」
「いいんだ、気にすんな」
「あっ、お酒も飲んでますし、気をつけて帰ってくださいね」

 夢を見ているみたいな気分だ。一緒にご飯を食べて、兄さんと一緒とはいえ宅飲みして、自分の家から帰るローさんを見送るなんてこと……いや、これは夢の中なのかもしれない。ほぼ無意識に「やっぱり……夢かな」と口にしていた。聞こえていたのかどうかはわからないけどローさんは頭をポリポリとかいたあと、もう一度私の方へと足を踏み出した。

「今日は休みだろ? もう1回ゆっくり寝とけ」

 そう言って私の腕を掴み引き寄せると耳元で小さな声で「おやすみ」と呟いてローさんは帰っていった。
 耳が自分の耳じゃないみたいな、ローさんの息がかかった所が溶けてしまいそうで……私は思わずその場に座り込んだ。こんなに目が覚めちゃうようなおやすみは初めてですよ。私は映画やマンガでよく見る現実か否かの確認方法「頬をつねる」を実践する。普通に痛いじゃん。力を入れすぎたせいかジンジンしている。あぁ、まだ信じられないけどこれは現実、なんだ。

 どうにか部屋へと戻ってフラフラとベッドにダイブして昨晩からの記憶を思い返す。心臓の高鳴りは収まらないし、顔は時間がたつほどにニヤついていく。二度寝できる気がしないまま、しばらく窓から見える眩しすぎる青空を眺めていた。

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