17


 1曲通しで弾き終わり、ギターを一度スタンドに下ろしてふうっと一息ついた。ふと「ユメさん?」と私を呼ぶ声が脳内に響いて、その声のする方へと体を向けた。

「はい、何でしょうかモネさん!」
「どうしたの? そんなにぼんやりして」
「えっ、私ぼやっとしてました?」

 月に1、2回は作るようにしているBWもコンビニもオフな2連休の1日目、バンドの定期練習中。麗しのモネさんが心配そうに私の顔を覗き込みながら首をかしげた。
 さらりと揺れる艶やかな髪。飲食店で働いているから香水の類はつけていないと言っていたけれど、モネさんからふんわりと、爽やかなシャボンの香りがする。うっとりしてしまうじゃないか……じゃなくって、ぼんやりしていたつもりはなかったけれど、周りからはそう見えてしまっているようだ。これは由々しき事態……私は頭をペコリと下げた。

「全然そんなつもりなくて……すみません!」
「何か悩みごとでも?」
「いえいえ、すこぶる元気です! 気合い入れて頑張りますよ!!」
「……そう? ならいいんだけど」

 いいと言いながらも、私の言葉を疑うかのようにじっとこちらを見ているモネさん。本当ですよ、と主張するようにギターを肩にかけチューニングを直しながらニヤリと笑みを向けた。するとこれ以上の追及は諦めたのか、モネさんもふんわりと柔らかく微笑んでペットボトルを手に取り水をグビっと一口。どうにかこの場はしのげたようだ。
 さてと、と姿勢を正したところでマスターさん達の視線を感じたので、お騒がせしましたという意味を込めて再度頭を下げた。
 何度かスタジオでの練習を重ねるうちに、リズム隊――クザンさんとヴェルゴさんとも合うようになってきた実感がある。下手くそながらも成長というか、手応えを感じているし、やりたいことも次々に浮かんでくる。浮かんでくるんだけど……昨晩の一連の出来事も隙あらばとひょっこり顔を見せる。
 直後は嬉しさを抑えきれずにニヤニヤしていたけれど、一度寝て起きてから冷静になって思った。夢心地を通り越して夢なのではないか、本当に本当なのだろうかと。こんなことをナミに言ったらきっと、じれったいとか、そこまで言ったならハッキリさせろだとか、キスくらいしておけ怒られそうだけど……そんな具合の思考が課題曲のギターソロのように存在感を放って脳内をループしている。
 
「シュロロロロ……少し疲れてるのか? 休憩するか」
「いえ、そんなことは!」
「あらら、そういやクマができてるなァ」
「えっ、クマできてますか!?」
「寝不足か」

 それぞれ貴重な時間を使っての練習なのに、集中できていない上に心配までかけてしまっている。私は一体何をやってるんだ。私は、ローさんと同じ景色を見るんじゃなかったのか。
 まずは一歩、ローさんに近づいたんだ。だからここからさらに、もっと近づけるように踏み込んでいかなくちゃ。歩みを止めてはいけない。隣にいても胸を張れるように――

「大丈夫です! もう1回お願いします!!」
「ユメがそう言うなら、おれ達ァやるだけよ」
「あァ、そうだな」
「こっちもいつでもいけるぞ」
「シャボフェスに出るぞー!!」
「ええ!」



 シャボフェスのルーキー枠に出るんだと自分を奮い立たせて練習をやり切った。気合いを入れ直してからは切り替えてしっかり集中できていたと思う。でもそれで満足している場合ではない。新たな課題に向けてそれぞれ宿題を持ち帰り、次回の定期練の日までに仕上げなければならない。

「お疲れ」
「お疲れ様です。また来週よろしくお願いします!」
「ぼんやりしてねェで気ィつけて帰るんだぞ」
「忙しいのもほどほどに、店にも来いよ」
「はい、もちろん!! マスターさんこそあまり無理しないでくださいね!」

 あれこれと手広く仕事をしているマスターさんに比べたら私の忙しさなどかわいいものだ。しっかり頑張らねば。
 脳内に今日のベストなテイクを思い浮かべながら、手に持っていたギターをよいしょと背負って歩き出そうとしたところで私は異変に気づいた。普段とは違う重さを感じて、ギターを何かに引っ掛けでもしたのかと振り向くと、そこには私のギターケースにのし掛かるようにして体重をかけているモネさんの姿があった。気のせいだろうか、何やら不敵な笑みを浮かべているように見える。

「モネさん! どうしたんです!?」
「ねぇ、ユメさん」
「はい、何でしょう」
「私ね、勘は鋭いほうだと思うんだけど」
「勘、と言いますと」
「ローと何かあったでしょ」

 ぽそりと耳元で呟かれたその言葉。的確すぎる。気のせいじゃなかった。何かならあったし、今日心配をかけてしまった原因はそれだ。だけどまさか、そこまで気づいてるなんて……練習中の私を疑うかのようなモネさんの視線はそういうこと、だったのだ。

「あ、いえ、それはそのですね……」

 モネさんの目を一瞬だけ見てすぐに斜め上の、雑居ビルの看板へと視線をそらす。こんな時、私は上手にごまかせた試しがない。今後、例えば人の人生を変えてしまうほどの秘密を知ってしまったり、守秘義務のあるプロジェクトに関わったりした場合に私は完璧に立ち回ることができるのだろうか。
 今回のこれはもう、ローさんのことを、私達をよく知っているモネさんだからこそ隠し通すことは不可能に近いだろう。目の前のモネさんは「やっぱりそうでしょう?」とでも言いたげに含み笑いを浮かべながら、私が何か口にするのをじっと待っている。

「……モネさんてば! いじわる!」
「うふふ。私でよければ相談に乗るわよ……と言うよりも、私が話を聞きたいの」
「えっ」
「あっちにね、おすすめのお店があるんだけど」
「も、モネさんのおすすめのお店なんて……くっ」
「決まりね。行きましょ?」

 私の負けだ。モネさんの満面の笑みが夜の街に弾けて、鮮やかなネオン看板のように光って見える。理由はどうであれ、こんなレアなお誘いを断れるはずなどなかった。
 


 こうして私は「モネさんおすすめ」という誘惑と女神の微笑みに勝てず、看板からしておしゃれな居酒屋へと足を踏み入れた。ギターを持ったままなのでどうかと思ったけれど、居酒屋にしては広くてカジュアルな雰囲気、半個室がほとんどの店内に少しだけホッとした。
 まずビールを注文するとして……メニューを見ているとどれもこれも美味しそうなものばかりだ。近くの部屋からも私の大好きなニンニクをはじめとした様々な匂いが漂ってきて、食欲をこれでもかと刺激してくる。うっかり最初から飛ばしそうになったけどどうにか踏みとどまった。おつまみはモネさんのチョイスでお任せしてみることにした。

「それで、喧嘩でもしたの?」
「あ、いえ、喧嘩とかじゃなくてですね」

 一体どこから、何を話せば、説明すればいいんだろうか。頭の中で整理しているとまずビールとお通し、美味しそうな海鮮サラダが届いた。

「わ、美味しそう……とりあえず、乾杯します?」
「そうね」

「いただきます」とカツンとジョッキを合わせる。打ち上げで一緒に飲むことはあったけれど、こうして2人で飲むというのは初めてで少し新鮮だ。そして思うのは、やはり誰かと飲むお酒、練習後のお酒は抜群に美味しいということだ。

「あのですね、話すと長くなるのでめちゃくちゃ端的に申し上げますと、もしかしなくても両思いなんじゃないかという出来事が昨晩ありまして」
「ふぅん……両思い……って!? ちょっと待って、あなた達まだ付き合ってなかったの!?」

 モネさんが勢いよくテーブルに手をつきガタンと音を立てながら立ち上がった。予想以上に音が出てしまったのか「あっ、ごめんなさい」と言いながら恥ずかしそうにゆっくりと座り直した。

「付き合ってないんですよ……」
「……それは、驚きだわ」
「えっ、そんなに驚くところですか?」

 確かにモネさんは私とローさんが付き合っていないという事実にたいそう驚いているようだ。手にしたお箸が上下逆さまである。待ってほしい、つまり周りから見ると私達はそう見えていたということ……なんですか?

「だって、とっくに付き合ってるものだと。マスターともその見解で一致していたわ」
「それは逆にびっくりなんですけど……」
「あんな距離感で?」

 あんな距離感、というものについて色々と振り返ってみる。確かに、物理的な距離が日に日に縮まっていったことに関しては身に覚えがある。私もすんなりと受け入れていたけど、まさか……付き合ってると思われているとは。

「まぁその……仲良しではあるなぁって自覚はありましたけど……最近の私の人生の中では一番時間を共にしている人物なので」
「仕事にライブ、プライベートでも。確かにそうね」

 モネさんはようやくお箸を正しい向きに持ち直してサラダを食べ始めた。私もお通しを食す。うんまい。美味すぎる。何だこれ、悩みが吹っ飛ぶくらい柔らかくてジューシーで美味しいねぎチャーシューである。ビールとのコンボが止まらない。
 思わず瞬殺してしまった。ふと我に返るとモネさんがニコニコとビールをあおりながらこちらを見ていた。

「美味しいでしょう?」
「はい、とても!!」
「それで、具体的に何があったのかしら」

 どう説明しよう、言い出しにくいな……少し無言のままサラダを取り皿に盛っていると、無言の圧というか、モネさんの視線が鋭いものになったような気がした。そんなモネさんも素敵なんですけど、などと思いつつもこれ以上引っ張ると私に時間を割いてくれているモネさんに申し訳ないので素直に話すことにした。
 
「3行でまとめると告白紛いなことがあったんですが、兄のせいで台無しになりまして、でもたぶん夢じゃなかったんで混乱しています」
「へぇ? 何かしらその告白紛いって」

 私は突然の豪雨に見舞われた結果ローさんを自分の家にあげたこと、会話の流れでキスしそうな雰囲気になったところで兄が来たこと、その後3人で飲むことになって結局ローさんが朝まで家にいたことなどを説明した。モネさんはところどころ笑いをこらえ切れないような小刻みな揺れを伴いながらもしっかり最後まで耳を傾けてくれていた。

「ユメさんって見た目によらず、って言ったら失礼だけど行動力の塊よね。バンドの話をしに店に来た時にも思ったけれど」
「そんなことは決してなく……いえ、なくないですね。時々考えなしに突っ走ってしまうところがあると自覚はしています」
「それにしてもローったら、まだキスのひとつもしてなかったなんて」
「そりゃしてないですよ! 付き合ってないんですもん!」

 おや、もしかして付き合ってなくてもキスするのはありなのだろうか。もしあの時兄さんが来なかったら、白黒つく前にしたことになるな……キスのひとつやふたつ、もしかしたらその先も。私もいい大人だ。正式な手順を踏まなくても、あってもいいのかも? そもそも正式な手順ってなんだ?

「って……その、手順とかそういうのはこの際置いておくとして、ここまで来てもどうしても私がローさんと付き合うってビジョンが浮かばないんです!! なんなら、無理に今の関係に名前をつけようとして壊れるくらいならこのままでいいんじゃないかとも……思ったり、します」
「なるほど」
「お互いがいて当たり前みたいな毎日って、それだけですごく幸せなことだなって。でもどこかで、ローさんにもっとお似合いの人がいるんじゃないか……みたいな気持ちもあって」
「でも、ユメさんはローが好きなんでしょ?」
「……はい」
「それなら、自信を持ちなさいよ!」

 ガツン、と音が鳴った。モネさんが口調と同じようにジョッキを強めにテーブルに置いた音だった。お酒が入っているとはいえ、こんな感情的なモネさんは初めて見る。少しだけびっくりしてビールを手から滑らせそうになったけれど、どうにか持ち直した。

「世の中には数え切れない、星の数ほどの人がいて、知り合いになるだけでもすごい縁だと思わない?」
「それは、そうです」
「そんな中で、お互いが生活の一部になってるってことでしょう?」
「みたい、です」
「生活の一部って、欠けたらどう?」
「悲しかったり、辛かったり、ぽっかり穴が開いたみたいな……」
「お互いにそう思ってるってことは、ユメさんがローのことを好きなように、形はどうであれローだってユメさんのことを思ってるってことでしょう?」

 モネさんが全部はっきりと言葉にしてくれた。どうしても信じられなくて、私でいいのかという思いばかりが募っていって……だけど、ずっとローさんから感じていた優しさ、温かさの記憶が一気に胸いっぱいに広がった。

「ね、だから何も悩むことはないと思うわよ」

 グッとビールを飲み切ったモネさんは「おかわり、ユメさんは?」と呼び出しボタンを押す。

「お願いします! 私……自分に素直に、正直に……向き合ってみます……」

 急に涙腺が緩んで、あっという間に涙がこぼれ落ちた。モネさんが慌てた様子でペーパーナプキンをケースごと取って「ほら、拭いて」と私の方へと向けた。そこから数枚をつまみ取って涙を拭う。
 ぼやけた視界の先で微笑むモネさんがまるで美しい絵画のようで、神々しくも見えた。けれどその表情が陰ったかと思えば「もしローから付き合う付き合わないの話が一生出なくてもまぁ、あなた達仲良しだしそれはそれでいいんじゃないかしら」と少し恐ろしい言葉が聞こえてきて、スッと涙が引っ込んだ。
 ずっと仲良しでいられたらいい。でもいつまでもバイトをしながらバンドをして、ライブハウスに行ってなんて、そんな生活を続けられるだろうかとも思うこともある。私もローさんも思うままに生きるふしがあるし、一般的な彼氏彼女のお付き合いのようなものがまったく想像できない。

「それ、ちょっと可能性としてありそうですよね。バンドマンですし特定の彼女を作らなそうな、決定的な言葉がないまま時間だけがたって……あ、でもローさんって案外天然ロマンチストなんでそういうことはちゃんと言ってきそうな?」

 届いたおかわりのビールを受け取って飲もうとするとモネさんが身を乗り出して「えっ、天然ロマンチストって何? ちょっと聞かせてもらえないかしら」と先程の不穏な雰囲気から一転して目を輝かせ始めた。
 ナミ以外の人とこんな恋バナをするなんて……サンジさんには少ししたけど、とにかくモネさんとお酒を酌み交わしながら音楽以外の話をするとは思ってなくて、少し楽しくなってきた私はローさんのロマンチストエピソードを少しだけ紹介することにした。

 気づけば2時間弱話し込んでいた。モネさんにも長く思いを寄せている人物がいるらしい。詳しく話を聞きたかったけれど、すでに深夜2時を過ぎていたので今日のところはお開きという流れになった。
 別れ際に、モネさんにこれでもかという強さで背中を叩かれた。モネさんなりの激励だろう。痛かったけど、酔ってるから少しばかり加減がおかしくてもしょうがないし、何よりそんなモネさんの気持ちが嬉しかった。このお礼はもっともっと上達することで返していけたらなと思う。



 まだ眠らぬ街を歩き始める。酔ってる自覚はあるけれど、頭は思いのほかスッキリとしている。自然と、一刻も早くローさんと会おう、会ってこの気持ちを伝えようという気持ちになっていた。この時間ならまだローさんは起きていることのほうが多い。私はバッグに手を突っ込んでスマホを取り出した。
 ローさんと表示された通話履歴の画面。少し震える手で通話のボタンを押した。呼び出し音が耳を伝って全身に響き渡ってるみたいだった。きっと初めてのライブの時より緊張してる。けれど、途切れることなく呼び出し音は鳴り続けている。今日は寝ているのかもしれないし、起こしてしまったら悪い。私はふうっと深く息を吐き出して通話終了ボタンを押した。
 なんとなく空を見上げる。あの日、ローさんと見た星はキレイだったな。それよりもローさんのことで頭がいっぱいだったけれど……このまま星でも見て帰ろう。私はスニーカーの靴ひもを締め直して進路を変更した。

 次第に時間に見合った静けさがあたりを包んでいった。次にローさんとシフトがかぶるのは明後日だったかな、とスマホのスケジュールを確認する。踏みしめる感覚がアスファルトから、公園の土へと変わって……再び空を見上げて大きく深呼吸をしたら、ここまで歩いてきた疲れが少しだけ和らいだ気がした。
 あの時の秘密の絶景のスポットに腰を下ろす。こんな素敵な場所を知っているなんて、本当にローさんてばロマンチストだなぁなんて思ったところで一つの可能性が頭を掠めた。もしかして、元カノとの思い出の場所だったりするのでは――いやいや、考えすぎだ。
 私はローさんのそばにいたい、ずっとローさんのことを、ローさんの音楽を一番近くで見ていたいんだ。ローさんの一番は音楽だとしても、私が一番の人でありたい。するとチカっと、小さな流れ星が瞬いたように見えて、思わず「あっ」と声が出た。しんとした公園に、空気に響いた私の声はずいぶんと弱々しく感じた。

「こんなんじゃ笑われちゃうよね……しっかりしなくちゃ。私は、ローさんが好きです」
 
 小さく、でも力強くそう呟いた。頭では常にポジティブでいようと意識していても、ふとした時にめそめそしてしまいがちなところは私の悪い癖だ。私を思ってくれているであろうローさんのためにも、自分のためにも。もっとかっこいい人になるんだ。



 帰宅してからすっかり忘れていたスマホの存在を思い出して確認すると、ローさんからの着信とメッセージが入っていた。思わず「うわうわうわぁ!!」と声を上げてしまい、勢いでスマホを落とすもソファの上だったのでセーフ。慌ててアプリを開く。電話に出られなかったことへの謝罪と、何かあったのではないかという心配と、明日時間があったら会えないか、といった内容だった。
 しまった。電話の後に何か一言入れておけばよかった。余計な心配をかけてしまうなんて。本当に後先を考えないポンコツな頭を自分で自分を戒めるようにポコポコと数回叩いた。

『一言入れておけばよかったです! ごめんなさい! 大した用事ではなくて……夜中にすみません』
『明日、大丈夫です! 午後からとかどうですか!?』

 絶対に伝えるんだ。そう自分に言い聞かせながら返信する。ちょっとお茶をするだけかもしれない。でも、昨日の帰り際にお詫びにどこかに出かけるかとも言っていたし……うん。どちらにせよ、気合い入れろ、自分。鼓舞するように両頬をバチンと叩いたのと同時にローさんからの返信を知らせる通知が表示された。

『それならよかった、気にするな。とりあえず13時頃に迎えに行くからちゃんと寝とけ。おやすみ』

 たったそれだけだけど、ローさんはそんなこと思ってないかもしれないけれど……その短い文章には、たくさんの優しさが込められているような気がした。

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