- ナノ -
15


 ローさんがいる自分の家に帰るという行為は不思議なものだった。鍵を開けてドアを開けると普段はあるはずのない男物の、サイズの大きなスニーカー。お風呂場の方から聞こえてくるシャワーの音。ローさんが我が家でシャワーを浴びているのである。こんな状況にしたのは、ローさんを浴室に押し込んだのは私だけど。
 まず玄関に用意しておいたタオルを取り、びしょびしょになった体を拭く。確か部屋着用のだぼっだぼのスウェットパンツがあったはずだとクローゼットへ向かう。たぶん、腰骨というかウエスト周りさえクリアすれば足自体はローさんの方が細いだろうし入るんじゃないだろうか。自分で言って悲しくなりながらも無事にジャージを発見。すばやくお風呂場へと移動。

「あ、あの、ローさん! カゴに一時しのぎの着替えを置いておきますので!!」
「あァ、悪ぃな」

 よかった、普通に返事が返ってきた。カゴにスウェットとタオル、そしてコンビニで買ったTシャツとパンツを置いて、次の準備をしなければとキッチンへと駆け足で直行。さすがに私もローさんが出たらシャワーを浴びたい。けれど無理に家に上げた以上は最低限のおもてなしは必須だろう。飲み物と何かつまめるものでも準備しておかねば。
 バァン! と勢いよく冷蔵庫を開ける。視界に入るのはなめ茸、自家製にんにく醤油、キムチ、きゅうりのぬか漬け、余りもの野菜のピクルス、ちくわ、チーズ、豆腐、納豆、ウインナー。そして卵と野菜室の野菜たち。
 すぐにパッと出せるものが総じて酒のつまみじゃないか……私はウーロン茶のペットボトルだけを出して静かに冷蔵庫の扉を閉めると棚からおやつボックスを引っ張り出す。うん、とりあえずクラッカーよりはクッキーとかチョコがいいでしょう。もしご飯を食べるなら作ればいい。
 テーブルの上を急いで片付けて買い置きのお菓子とお茶を置いたところでガチャッ、とドアの開く音がした。振り返ればお風呂上りのローさんがドアの隙間から様子を伺うようにこちらを覗いていた。うわぁ、お風呂上りのローさんって実在するんだなぁ。

「あの、よかったらこっちでお茶でも飲んで休憩しててください」

 タオルを頭にかぶせたままのローさんは「あァ」とだけ言うとガシガシと頭を拭きながら部屋へと入ってきた。一応ドライヤーもわかるところに置いてきたんだけど、自然乾燥派なのか、色々と気を使ってなのかは今聞いている場合ではない。

「私が出たら浴室乾燥機を発動させますけど、勝手に服洗って干しちゃっていいです? 2、3時間で乾くと思いますけど」
「……そうだな、頼む。しかし、思ってたよりすっきりしてんな」
「一体どんな部屋を想像してたんですか」
「あれこれキラキラしてたり意味不明な小物がいっぱいあったり」

 部屋を一通り見回したローさんはお茶セットを用意したテーブルの所にあるソファに座った。私は物が多すぎると管理しきれなくなるので極力増やさないようにしていたことがここにきて功を奏するとは。緊急でローさんを家に上げてもギリギリセーフな状態にしていた私、よくやった。

「物が多いと大変なことになりますし、家では落ち着きたいんですよ。ところでローさん、よかったらご飯も食べていきませんか?」
「……まァ乾くまで時間もあるし、食ってくか」
「了解です! ではひとまずそれをつまんで待っててください! テレビや本、雑誌もご自由に!」
 
 パタパタとお風呂場に走る。普通に会話できていただろうか。鏡の中の私はシャワーを浴びる前から顔が真っ赤だ。そういえばちゃんとスウェットはけててよかった。でも裾をまくっていたのはもしかしてつんつるてんだったのかもしれない。ローさんの足めっちゃ長いし。ああ、私ってばかなり大胆なことしたよなぁ……こんなことするのマンガとかドラマとかの中だけで実際やばい女だったりする!? っていうかローさんじゃなきゃこんなことしないし、ローさんだって本当に無理だったらとっくに帰ってる……はずだと、そう思いたい。
 ぐるぐると、適当に混ぜ合わせた絵具みたいに私の頭の中は色んな思いでマーブル模様だ。そこでパッと発色の良い色が浮かび上がる。白いそれは、そう、ギターの近くの机の上に無造作に置いたままのA4サイズの用紙達。私は片付けずに置きっぱなしにしていることを思い出したのだ。
 まずい、急いで回収しに向かわねば――私は大急ぎでヘアパックを洗い流して、浴室から飛び出た。適当に体の水分を拭き取ってお肌のお手入れもほどほどに雑に髪の毛を乾かす。けれど譜面っぽいやつはともかく、あっちのメモをローさんが見ていたらという不安がちらつく。ダメだ、気になって仕方がない。ここまでにしよう……私は完璧に乾いたとは言えない状態のまま急いで部屋へと戻った。



 バァン!! と豪快にドアを開けた。私が駆け足で向かって来た気配には気づいていたようで少し離れていたけれど、どう見てもローさんは机の前にいた。勢いよく部屋に戻ってきた私にローさんは少し驚きつつも「そんなに急いで……虫でもいたか」と優しく語りかけてくる。でもソファでくつろいでいないのだ。つまりすでに見てしまっている可能性が高い。

「ろ、ローさん……もしかしなくても」

 私が息を切らしながらそう問いかけると「もしかしてコレのことか?」と机の上のメモ達を指差した。察しがいい。ご名答。「歌詞のほうもですよねぇ」とガクッとうなだれるように床に膝をつくとローさんは「読まれる恥ずかしさはわかってるんだが、写真とか見てたら目に入っちまって……悪ぃな」とばつが悪そうに頭をかいた。
 ローさんは写真とか、と言ったけれど実際に飾ってある写真は1枚だけだ。シンプルながらも何枚かポスターを貼ったり、壁のボードにライブのチケットやフライヤーとかシールなんかを飾っているんだけど、とある事情で写真はアルバムにしまわれている。でもこの前の企画の打ち上げでの集合写真だけはいつも目に付く場所に置いておきたくて、そのボードに混ぜ込んでいる。今の私の集大成みたいな、成長記録的な、そしてもっと頑張るんだというモチベーションになるからだ。

「あ〜、いやまぁその、ダメージは大きいですけど、片付けなかった私も悪いので……」
「それにしても、もう2、3曲できてんのか」
「はい! わからないなりにも色々浮かぶもんでして、って、私ではなくシーザーさん達がすごいんですけどね!!」

 そう、私がこんな雰囲気でどうですかと1で投げたものがそれぞれの解釈がプラスされて瞬時に5で返ってきて、今はそれを10にするために試行錯誤を繰り返しているところだ。

「この曲だって、なんかこんなコード使いたいんですけどって話してからものの数分で進行の感じは固まってびっくりしましたよ、経験者がいると頼もしいですよね! シーザーさんも本格的に音楽編集ソフトの勉強し始めて、どこにそんな時間あるんだ〜って感じなんですけど」

 人間向き不向きはあると思うけど、シーザーさんのやってることの多さにびっくりする。カフェ経営のかたわらネットで発信したり雑誌の連載持ったり、そんな中バンドをするだけでも大変だと思うのにやっぱりすごい人だよなぁ、尊敬しちゃうなぁ、とうなずいたところでローさんが私を見ていることに気づいた。そして一言「そういやすっぴんか」とからかうような笑みを浮かべた。

「すっ」

 すっぴんとはノーメイク、化粧をしていない状態のことである。すっと血の気が引いていく。すっぴん以前に、私は時々、いや、テンションが上がるとよくやってしまう早口トークを、風呂上がりの適当ケアのすっぴん顔で意気揚々としていたことに気づく。

「……そうでしたすっぴんでした。全てにおいて謝罪させてください。今すぐご飯を作りますのでそれで許してはいただけないでしょうか」

 顔を両手で隠す。この調子の良さは長所であり最大の短所だ。けれど聞こえてきたのはローさんの笑い声だ。そっと指と指の隙間を広げる。すると「フッ……なんで、そこで謝罪に……なんだよ」と何やら腹を抱えて震えているではないか。ツボったのだろうか、だとしたらローさんのツボがまったくわからない。でもとりあえず、ローさんが笑っているならもうなんでもいいとしよう。いや、やっぱりなんでもよくはないな。

「なんでそんなに笑ってるんですか!」
「どーせ頭ん中で、わけわかんねェこと考えたんだろう」
「わけわからなくはないです! 私なりに日々色々考えてます! ちゃんと熟考だってします!」
「その結果出てくる発言が突飛なんだ」
「もういいです!! いいです! もしピーマン嫌いでも死ぬほど入れてやります! むしろピーマンにナポリタンを和えます!」
「ほら、それが」

 ソファに戻りながらも再びローさんは笑いの発作を起こしている。「残念だが……ピーマンは問題ない」と聞こえてくる。私は「ちぇっ」と小さくぼやきながら、お腹を満たすご飯を作るべく台所へ足を運んだ。
 さっき冷蔵庫チェックをした時にほぼ決めていたのだ。今夜はナポリタンを食べようと。冷蔵庫から材料を取り出す。ウインナー、玉ねぎ、ピーマン。調味料。鍋でお湯を沸かしながら食材を刻み始める。
 ちらっとローさんの様子を伺う。テレビをつけ、ソファにゆったりと座っている。少しは落ち着いたみたいだ、色々な意味で。男女が逆の時点でこのもしもは成立しないかもしれないけど、仮に私がローさんのお家に雨のせいで偶然あがることになったら絶対に今以上に挙動がおかしくなる自信がある。ていうかローさんじゃなかったら大丈夫だって言い張ってダッシュで帰っている可能性のほうが高い。そもそもローさんじゃなかったらあんな雨の中ではしゃいだりしない。つまり全てはローさんだから、ということだ。
 茹で上がったパスタを具材を炒めたフライパンへと投入して味を整える。もちろんにんにく入りだ。ローさんの前で散々にんにく入り料理を食べてきたのだ。もはや気にすることもない。
 ローさん用に普段あまり使わない大皿を引っ張り出してもりもりにナポリタンを盛る。本当は付け合わせとかサラダとかも出したかったけどそこまで気にしている場合ではない。お腹ペコペコだし、変に凝りすぎて待たせるのはよくないだろう。
 どうにかギリギリ二皿のナポリタンを乗せたトレーを手に台所を後にする。「お待たせしました! 量、足りますか?」と確認しつつテーブルにお皿をのせた。

「あァ。それにしても……ユメは本当ににんにくが好きだな」
「はい、大好きですよ! チューブももちろん、丸ごと買ってありますし、にんにくを漬けた醤油も作ってあります」

 ナポリタンからふわりと漂うガーリックの香り。それにローさんが気づかないはずもなく。あぁ、自分で言うのもなんだけど絶対美味しい。私はローさんの反応よりとにかく自身の空腹を満たしたかった。対面に座ってしまうとテレビが見えないし、隣になんて座れるわけがないので無難にローさんの斜め前にシートクッションを置いて腰を下ろした。「いただきます」とフォークを手に取って、クルクルと麺を絡める。すると私がナポリタンを口に入れるより早く「……美味いな」と声がした。

「本当ですか!?」
「ん」
「それはよかったです、まだちょっとだけ残ってますよ」
「ならもらうか」

 顔の前でお預け状態のナポリタンが早くと言っている。なので「どうぞどうぞ」と返事をする前に口に放り込んで咀嚼しながらうんうんと大きくうなずいた。ローさんが食べたいなら食べてもらったほうがいい。どのくらい食べるか読み切れなくて多く作ってしまったのだ。じゃないと私は絶対にこの時間におかわりをしてしまう。乙女の味方だ。ありがたい。



「いやぁ、無理に家に上げちゃった感が半端なくって申し訳ないと思ってたんですけど」
「思ってたんだな」
「そりゃ、まぁ一応」

 残りのナポリタンもローさんがぺろりと平らげてた。作った甲斐があったというもんだ。テレビを眺めながら食後のまったりとした空気を味わう。自分でやったこととはいえ、こんな幸せ空間を作り出したことは称賛に値する。けれど少しずつ冷静になっていくにつれて、ローさんが部屋でくつろぐ姿と、私もオフの状態を晒しているという状況に急に恥ずかしさが込み上げてきた。

「あの! そうです! タバコなんですけど、お手数をおかけしますがベランダでお願いしてもいいですか? 多少の雨なら大丈夫だと思うので」
「ん」

 もしかしなくても私が言わなかったら家にいる間は吸わない気だったのかもしれない。よかった、ローさんはベランダに向かって食後の一服、私は心身共にクールダウンタイムというわけだ。「だいぶ弱まったみたいだな」とカーテンをめくって外を確認したローさんは窓を開けて外へと出た。
 その姿を確認した私は気持ちを静めるためにもまずこの間に洗い物を済ませてしまおうと食器を持って台所へ。シンクの中に洗い物を全てぶち込んでスポンジに洗剤をぽとぽとと垂らす。そして無心で汚れをこする。そう、ナポリタンは美味しいんだけど食器の油汚れはそれなりに手強い。雑に終わらせた日にはあのぬるっと感が残ってしまう。ひたすらこする。すると普段感じることなどない人の視線を感じて部屋の方を見ると一服を終えたのであろうローさんが部屋に戻ってきていた。

「おかえりなさい、ベランダに出しておいてなんですけど濡れませんでしたか?」
「あァ、大丈夫だ」

 それならよかった。そう思って食器に視線を戻して洗い流そうとしていると、ローさんの気配が近づいてくるのがわかった。ソファーを通り越してスタスタとこちらへと、台所の方へと歩いてくる。あぁ、お茶のおかわりが必要なのだろうか。そう思ったけれどローさんの表情は何やら難しい、というか真顔に近い。何か飲みますか? と尋ねようとする前にローさんは足を止め、神妙な面持ちのまますぐに口を開いた。

「ユメ、他の男も同じことが起こったら部屋に上げるのか?」
「えっ、そ……」

 そんなことは絶対にない!! と即答したかったし断言したかったけど、きっぱりはっきり宣言したらさすがにこの気持ちがバレてしまうのでは。そう思うと言葉を濁してうまく、やんわりとそうではないと伝えるしかなかった。

「ええと、あのですね! ローさんとは仲良くさせていただいてると私は思ってますし、もちろん他の人の場合はさすがに何というか、あの……」
「バーカ。何マジになってんだよ」
「……!! ローさん!! ひどい! ひどいです!」

 真面目なまなざしから、いつもの、わざといじわるなことを言ってくるときのあのイタズラっ子のような表情に変わった。自信がある。今私の顔は絶対に真っ赤だ。身体も熱い。なんだいなんだい、何を思ってそんなこと聞いてくるんですかローさん。危うくうっかりこんなタイミングでバラすところでしたよ。
 この動揺を隠すようにわざとらしくフイッと顔を流し台へと向け、洗い物を続行しようと体制を戻した。するとただでさえ熱くてパンクしそうな頭に急に何かが圧し掛かった。重みを、感じたのだ。

「……お、おおおお??」
「ん?」
「えーと、ローさん?」
「ほら、さっさと洗い物終わらせろよ」

 
 大好きな人の声が、近い。まるで頭から直接ローさんの声がしているような、つまりローさんは人の頭の上に顎を乗せているようなのだ。近すぎませんか? ふわりとタバコの匂いが鼻腔をくすぐる。人の気も知らずに「腕に泡、ついてるぞ」とケラケラと笑うローさん。そりゃ洗い物になんか集中できませんよ。泡も飛び散りますって。これにはさすがの私も参りました。なすすべナシ、だ。
 それにしても、なんて幸せな時間なんだろうか。もしも思いを伝えてこの関係が消えてしまうなら、このままでもいいのかもしれない。ケチャップ色をした泡を洗い流しながらそんなことを思った。

prev/back/next
しおりを挟む