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 サンジさんとの話も落ち着いた後、気づけばたくさんの人がカウンターに集まっていた。音楽はもちろん、仕事に恋愛。色々な話を聞いているうちに、自然な気持ちで、フラットな状態でローさんを好きでいられるような自信がちょっとだけついた気がする。
 ユースタスさんと一緒にカウンターの方へとやってきたローさんとも、変に意識しすぎずに接することができてたと思う。
 でもそんな夢のようだった一日を何度も振り返って、浸っている暇など私にはない。



「ユメさん、ずいぶん練習したのね」
「はい! この曲に今の私を全部ぶつける心意気です!」
「シュロロロロ、こりゃ来週末にでも録音できそうだな」

 私は今日もスタジオでの定期練習に精を出していた。通っているうちにここニューワールドのオーナーであるドフラミンゴさんに顔も覚えてもらった。というよりは、なぜか私のことを知っていたんだけど、とにかくフレンドリーな方で大変お世話になっている。

「しかし、おれのマイクはどこにいった?」
「ヴェルゴさんはボーカルじゃないし、マイク用意してません!!」
「そうだった、おれはボーカルじゃなかった……」

 練習前にラーメンを食べてきたのか、ほっぺになるとをつけたままのヴェルゴさんは呟く。少しブランクがあると言っていたヴェルゴさんとクザンさんだけど、私達ひよっこ組からしたらそれはもう頼りになる存在だ。色々と指導してもらったりで、下手なりに手ごたえを感じている。

「ちょっとォ、早く1回通しでやってみないことには進まないでしょ」

 ペシペシとシンバルを叩きながらクザンさんがヴェルゴさんに準備するように催促する。私は再度チューニングを済ませ、いつでも合わせるスタンバイはできている。

「シュロロロロ……よし、録音の準備もオーケーだ。おれも適当にギターを入れてみる。モネもいけるか?」
「ええ、マスター」

 モネさんがいつも下ろしている長くてつやっつやの髪を後ろで一つに束ねた。そんな仕草だけで色気が溢れ出ている。うらや……うらやましくなんかないぞ、私にだってきっと、何かひとつくらいは長所が誰かがうらやむような何かがあるはず。あると思ってないと悲しくなる。
 気を取り直してマイクを手にしたモネさんからヴェルゴさんへ視線を移すと、サングラスをクイッとかけなおした。準備ができている合図だ。

「この曲、ちゃんと全員で合わせるのは初めてですもんね! ガツンと決めちゃいましょう!」
「じゃあ、いくぞ……ワンツー!!」



 3分とちょっとの短い曲。体感だと1分くらいだった気もする。私達はマスターさんが再生ボタンを押すのを今か今かと、無言のまま待っていた。そしてスタジオ内に流れ出したその音を、全員が一言も話すことなく最後まで聴いていた。
 本来大きな音を鳴らすためのスタジオに訪れた不似合いな静寂。これはマズいと思っていそうな固い表情のまま全員が顔を見合わせた。そんな何とも言えない空気を打ち破ったのはクザンさんだった。

「あららら……ひっでェなこりゃ!」
「少し走りすぎたな」
「ズレまくりました」
「音も外してるし」
「おれのギターもこうやって聞くと中途半端がすぎるな」

 クザンさんに続いてそれぞれが、とてもじゃないけど人様には聞かせられないような自分たちの演奏にとりあえずコメントをつける。それでも、自分だけじゃなくてみんなの表情も次第に笑顔にかわっていくのがわかった。きっと、このワクワク、高揚感をそれぞれ感じているに違いない。

「でも! 楽しい!」
「そうだな」
「若いころを思い出すなァ! それにしてもヴェルゴ、ちゃんと合わせなさいよォ〜」
「すまん。途中ピックを落としてだな」

 ピックというワードが聞こえて全員が一斉にヴェルゴさんを見た。なぜならば、記憶が正しければヴェルゴさんがピックを使って弾いていた姿を一度も見たことがないからだ。

「あの……最初から指弾きじゃ?」
「そうだった、おれは指弾きだった」

 私もよく変な人扱いされるけどヴェルゴさんもずいぶんと変わった人、というかクセが強い人だ。少なくとも私の受けた印象ではそうである。
 スタジオ内のメンバーを順番に見る。クザンさんは普段あんなにやる気がなさそうにダラけているのにドラムを叩いてる姿はまるで別人だし、マスターさんは言わずもがな私なんか足元にも及ばない音楽マニアというか変態だし、モネさんはとにかく抜群に美しくて料理も上手な大天使だし、共通して言えることはそれぞれが圧倒的なオーラをまとっているような雰囲気がある。私には見える。この中だと私のはすっかり一般人Aみたいな感じで霞んでいる気がする。私もオーラを出したい。オーラって出せるものなのだろうか。
  
「よぉし!! シャボフェスに向けて、もっともっと練習頑張りましょう!」
「シュロロロロ! 当然だ!」
 
 私はアニメキャラがオーラをまとう時のように拳に力を入れて、このみなぎるやる気を言葉にした。言葉を声にして出すということはすごく大切なんだって最近ものすごく実感している。まだ結成したてで付き合いも長くないしそれぞれ性格は違うけれど、このシャボフェスに向けての温度感は合っているように思う。私達は時間いっぱいまで特訓に励んだ。



 自身の成長を実感できる日々というものは、性格も前向きにするもんなんだなぁと思う。劇的にではないけれど、この数日のライブでサプライズ演奏した体験や濃度の濃いスタジオ練習がそう思わせてくれる。心配なこと、不安なことだってもちろんあるけれど、それを払拭できるように小さなことからコツコツ、自信を持てるようになっていきたい。

「ヘェ、なかなか順調そうなんだな」
「はい! 楽しく練習してますよ。来週にはレコーディングです!」

 今日も仕事を終え、食事に行かなくても私達は帰るというよりもはや散歩をしているような状態だった。今日の仕事の話、音楽の話、最近読んだマンガの話。ゆっくりと。色々な話をしながら歩く。
 あの日サンジさんと話してローさんが好きだということに自信を持とうと決めてから、バンドの練習に打ち込んでいることも手伝ってそれなりに自然体で過ごすことができていた。もちろんドキドキしちゃう時はあるけれど、あからさまに不自然な挙動はしていないと思う。だけど今はさすがに、ちょっとどうしたらいいのかわからない状態だ。なぜなら、今私とローさんは手をつないで歩いているからであります。

「あ、あの〜ローさん」
「なんだ」

 素直に「その手は何ですか?」と聞いてしまいたい。でも離してしまうのも、その発言で変にギクシャクしてしまっても嫌なので聞けずに「その、なんでもないです」と濁す。言ってしまえばそこから何か進展があるかもしれないけれど、今の関係性でも十分幸せだな、なんて思ってしまった。すると何か察したのかローさんは「お前はすぐこけるからな」とフンッと笑った。
 そんなことない、そう言いかけて私はそんなことある自分の姿を思い浮かべた。この前の打ち上げ中も、イスから立ち上がった時にうっかりバランスを崩してサンジさんに華麗にキャッチしていただいたり、仕事中もつまずいたり、積んである段ボールにぶつかったりしている。

「そうですね。私、そそっかしいんでしょうね……」
「うかうか目を離せねェ」

 何を言ってるんですかローさん。まるで妹、いや子供を見るような物言いじゃないですか。でも、それでローさんと手をつなげるというのならばラッキーと言いますか、役得でしょう。

「悪くないですね」
「何がだ」
「いえいえ、こっちの話です。って! 冷たっ」
「ん……? 雨、か?」

 ピチョっと冷たい感触が腕にしたかと思えば、続けて頬にも。これは、もしかしなくても雨というやつだ。しかも、傘がなくてもいいかと思うような瞬間はすぐに終わりを告げた。そう、ゲリラ豪雨というヤツが、この貴重なローさんとの帰り道をぶち壊しにかかってきたのだ。バケツをひっくり返した、と最初に表現したのは一体誰だろう。移動式の滝がやってきたみたいな大雨が私達を打ちつけてくる。さすがのローさんも少し慌てた様子で私の手を引く。私達はどうにかこの雨から逃れようと近くの喫茶店の軒下まで走った。

「大丈夫……じゃねェよな」
「なすすべ、ナシでしたね……」
「今日雨降る予報だったか?」
「いや……限りなく、ゼロに、近かったかと」

 ローさんからしたらこれでも気を使ってくれていてゆっくりだったのかもしれない。けれど運動能力はそもそも平均値で普段ほとんどしない私にとっては少しペースが速かった。思っていたよりも呼吸が上手くできない自分が情けない。完全に息が切れてしまった。

「はぁ……ふぅ」
「悪ィ、ずぶ濡れで意味ねェのについ走っちまった」
「い、いえ、大丈夫です……びしょびしょ、ですね」

 手を膝に置いてどうにか息を整えようとしていると「本当にびっしょびしょだな」と言いながら、ローさんは濡れて顔に張り付いていた私の前髪をかき分けた。ローさんの手が顔に触れた瞬間、私の呼吸はピタッと止まった。ただでさえ乱れていた呼吸がめちゃくちゃだ。どうにか息を吐き出す。ああもう、この天然王子は素でそういうことするんだ。
 だけど私だってやられっぱなしじゃないぞと顔を上げた。「ローさん、こそ!」とどうにか反撃。いつもはセットされた髪がくたっとしていたので、ローさんが私にしたように前髪を横へ流した。私もずいぶんと大胆になってきたなぁと思いつつ、やっぱり恥ずかしさが上回ってしまった。ローさんってばよく平気でこんなことできるな、なんて思ってる間もローさんとの視線は合ったままで、さすがに耐えきれなくなって「タオルあったっけ〜」と、持ってもいないタオルをバッグから探すふりをして視線をそらした。
 地面や軒に打ち付ける雨の音が私の頭に響く。一向に止む気配はない。このままでは私の心臓の高鳴りも収まりそうにない。私はやけくそ気味にええい! と軒下から踏み出した。一面水たまりのような地面にバシャっとしぶきが上がった。すでに靴の中まで浸水しているので新たに生まれる不快感はない。

「ちょ……お前、何やってんだ!?」
「だって雨宿りしてたって、タオルで拭いたって意味ないくらいずぶ濡れなんですもん! 子供の頃って、雨でもお構いなしで遊んだりしたなぁって思い出して」

 よく傘をささずに外へ飛び出して怒られたこともあったな。なんだか懐かしい感じだ。それに、ここ最近の不安が雨と一緒に流れていくような気分。
 雨が降ったら傘をさす。今では当たり前のことだけど、童心に帰ってそんな当たり前から飛び出してみるのもたまにはいいものかもしれない。悪いことをしているようでテンションが上がる。もちろん、濡れていない状態から飛び出すには勇気がいるかもしれない。でも今はタオルがあったってどうにもならないほど濡れてしまっているのだ。

「そうだな。じゃあ、このまま行くか」
「あっ!」

 私が勝手に飛び出しただけでローさんを巻き込むつもりはなかった。けどローさんも軒下から出てきてしまった。雨脚は少しだけ弱まったものの、傘は必須なレベル。私と向かい合って雨に打たれているローさん。でもその表情は予想以上に柔らかく、むしろ晴れやかなものに見えた。

「ユメの言うとおり、もうどうにもならない程濡れちまってるからな。それに、たまには悪くねェ」

 ローさんにだって子供のころは存在しているわけで、同じように雨の中遊んだりもしていたのかな、なんて思っていると「だが、危険度は上がったな」とローさんは再び私の手を取った。つまるところ、足元も悪くなってより私が転んだり滑ったりしそうだ、ということなんだろう。うん、雨の中はしゃぎまわってケガでもしたらどうしようもない。

「あの、こればっかりは自分でも大丈夫です! とは言い切れなくて……すみません」
「気にするな。家まで送る」
「あ、ありがたく」
「これがユースタス屋だったらブチ切れてたな」
「あはは、取っ組み合いのケンカになりそうですね」

 つまりユースタスさんではなく私だからこんな状況でも楽しんでくれているのかな、なんて思い上がっちゃったりしながら帰路を行く。雨に濡れながら帰るという非日常的なシチュエーションでおかしなテンションだからか、私の頭の中は次第にこのままローさんをびしょ濡れのまま帰すわけにはいかないなという思考で埋め尽くされていった。そして家の前に着いた私は現状で一番手っ取り早い解決策を実行することにした。
 
「あの、ローさん! ひとまずうちに上がりませんか? 風邪引いてもですし」

 そう、ローさんが風邪なんか引いたら100%私のせいである。だからその、他意はない。たぶんちょっとだけ驚いているような表情で「いや……」と小さく聞こえたけれど「雨、まだ止まなそうですし拭くだけ拭きましょう! 帰るのに傘も必要でしょうし」とローさんの腕を引っ張ってとりあえず玄関の中に入ってもらった。

「今バスタオル持ってきます」
「あ、あァ」
「あっ、いっそのことシャワー浴びます? そうだ、そのほうがいいかも!」
「……シャワー」

 あのローさんがさっきから片言だ。確かに今の私は家に無理やり連れ込んでシャワーを浴びさせようとしているヤバい奴だ。でもそれは純粋にローさんに風邪を引いてほしくないからである。

「ほら、冷えたらよくないです!」
「あれだ、そうしようにもその……着替えがねェだろ」

 確かに。私は「あー」と口にしていた。そりゃそうだ。彼氏でも何でもないのにこの家に着替えなんかあるはずがないい。私に今現在彼氏は存在しないし同棲を解消した時に荷物もきっちり整理してここへ引っ越してきているので男物の着替えなんか……そこまで考えたところで私はすぐそばに便利な存在があることを思い出した。そう、コンビニがあるじゃないか。

「私! 濡れてるついでにすぐそこのコンビニで調達してきますよ!」

 今度はローさんをぎゅうぎゅうと脱衣所に押し込む。「とりあえず脱いだ服はそこのカゴに入れておいてください! すぐ戻るんで!」と早口で告げてドアを閉めると再び私はそのままコンビニへダッシュした。
 ありがたいことに走れば2分もかからない。コンビニ近くのアパートを選んだ私、グッジョブである。店内に入ると同じように雨に濡れている人もいる。これなら着替えを買っても特に不自然ではないように思う。そもそもコンビニで何を買おうと何の問題もないとは思うんだけど、脳内の思考がおかしくなってきている気がする。ふるふると頭を左右に小さく振って棚を凝視する。
 もしかしなくても、少し強引すぎたかもしれない。よくよく考えてみれば、彼氏でもなんでもない人を勝手に風呂場に押し込んでパンツを買ってくるという行為は世間一般的にどう受け止められるのだろう。いや、確かにローさんは彼氏でも何でもないかもしれないけれど、今となっては職場の先輩と後輩という関係性は超えているんじゃないかと思う。今の関係性に今さら何か名前をつけるというのは難しい。だけれど、風邪をひかないよう心配するくらいなら、それゆえの行動ならば許されるんじゃ……ないでしょうか。
 私は数分間、パンツがトランクスかボクサーかで悩んだ。そして脳内会議での多数決で勝利したボクサーパンツを手に取り、無地のTシャツと共に会計を済ませた。もう関係性など知らんぞ。お節介なお母さんポジでも家に連れ込むヤバい女でも、ローさんが風邪をひかずに済むのなら何でもいい。そんなことを思いながら再び雨の中へと飛び出した。

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