Verweile doch | ナノ

Act.1 白い鴉 -03


しばらく…いや、実際にはほんの数分も走っていなかったのだろうか。私は息が切れて苦しくなるまで走り、疲れ果てたところでその足を止め、その場に座り込んだ。私に手を引かれたエリスは、私よりもずっと余裕な表情で大丈夫かと問う。

『一体なんだったんだ…あの家に何かあったのか?』

『…私のお父様が暮らしているのよ。
あの人ならきっと、文乃を助けて下さるはずなの。』

『Vater?(お父さん?)』

座り込む私から、しゃがんで様子を見るエリスの顔は聖女のように穏やかであり、神聖に映る。酷く長い両の睫毛の下から覗かせるマリンブルーの瞳は、私の一挙一動にせわしなく動き回っている。

『お父様は、私の生みの親。』

『ということは、エリスは化ノ神なんだな。
如何にして、物語から出てきてしまったのだ?』

物の怪(もののけ)というものには、大きく区切っても分けて三種類存在する。長い年月が経って古くなった依り代に神や霊魂などが宿ったものが憑喪神(つくもがみ)、成仏できずに常世を彷徨っている霊を陰摩羅鬼(おんもらき)、最後に、才能のある人間が創造した作品に魂が宿り実在化したものが化ノ神(ばけのかみ)。そして、それら物の怪を視ることのできる人種を総称して「魂依(たまより)」と呼ぶのだそうだ。
エリスはどうやら作家である「お父様」によって創造された少女で、作品から飛び出した結果ここに存在しているようだ。
彼女は私の言葉にひとつ頷くと、今ままでとは打って変わってその可憐な顔を曇らせた。ひどく不服な内容にでもなったのだろうか。

『……お父様が書くお話が、最近はどんどん暗くなってゆくの。
私はドイツの踊り子で、日本人の男性と恋に落ちたわ。とても素敵な方。
でもその方は、私と一緒に居た所為に誤解されて信用を失ってしまった。』

どこかで聞いたことのあるようなシナリオだと思っていた。喉元まで出てきた何かはそこで引っかかり、私にその物語について語らせてはくれない。私はきっと過去に、紙媒体を通してエリスにあっているはずなのだ。

『それでも二人、なんとか必死に仕事をして幸せだったわ。
彼は忙しなく働いていたけれど、初めて会った時よりもずっと生き生きとしていたの。それなのに…』

自分に言い聞かせるように言葉を紡いだエリスは、その先の言葉を口に出す前に、その瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちてしまった。次々に流れ落ちるそれを、彼女は両手で必死にぬぐい去ろうとする。私はそんな彼女に、バッグから取り出したハンカチを差し出す。

『もういいよ、ありがとう。
その先の終結が不安で、飛びだしてきてしまったんだな。』

『お父様は、きっと私からあの人を奪う気でいるの。
分かるわ、最近のあの人はどこか私に隠し事をしているもの。私は、私は…っ!』

エリスの柔らかなブロンドを撫でる。その肩を少しだけ抱き寄せると、彼女は自分よりも一回りは小さな私の胸の中でしばらく泣き続けた。私はそんなエリスを見て、漠然と主人公との別れを悟ってしまった。いつだって物語の中の彼女らは、自分の意志では動けない。

『おやおや、どうかしたのかい、ご婦人方。』

「そこのお嬢ちゃんは、足でも挫いてしまったようだな。」

気がつけば、私とエリスの周りには数人の物の怪が囲んでいた。どれも害をもたらすような感じではないことから、単純に心配で寄ってきてくれたのだと伺える。エリスは私から離れ、しばらく静かに涙が止まるのを待っていた。私のあげたハンカチは、既に多くの悲しみで染みていた。

「この子は大丈夫だ、落ち着くまで待ってやってくれ。
それより、事情があってどうやら家に帰れなくなったらしい。近くにしばらく止めてもらえる宿や、質屋などはないだろうか。食べようにも泊まろうにも先立つ金がないのだ。」

私は座った状態で物の怪の彼らを見上げる。袴姿の髷のお侍は、顎に手を当て考え出した。隣の外人には英語で同じニュアンスの言葉を繰り返すが、心当たりはないようだった。

「そんな都合の良い所、昔の江戸ならまだしも今のご時世じゃなかなか見つからないだろうよ。いっそ鹿鳴館にでも忍び込んで、貴族の懐に付け入ったほうが確実じゃあないのか。」

『おいおい冗談はよしておくれ、この娘は魂依だ。
仮に藤田なんぞに捕まったら良くて留置所行きだろう。』

紳士と武人は別の言語を話しているので、私はふたりの会話を逐一トランスレートして成立させていた。留置所という言葉に眉をひそめるも、私は結果的に宿が手に入る最終手段としてそれを候補に追加する。

「感謝する、お二方。それに君たち。
一先ず私は暖を取れる場所さえ確保できれば朝まで辛抱しよう。食事は何、二日と取らずとも人間活動に支障はなかろう。
そうだな、一度日比谷公園に戻って野宿の道でも考えることにしよう。人間の世は金がなければ話にならない。」

そう言って立ち上がると、エリスや陰摩羅鬼をはじめとしたその場にいた物の怪全員が私に歯止めをかける。

『待ち給えお嬢さん。野犬がウロウロしているのが見えんのかね。
今夜も冷える。どうか宿を探しておくれ。金なら私たちがどうにか致す。』

「良い、私は今夜、日比谷公園で寝ると決めたんだ。
人間の世話になる気もないし、ましてや君たちの世話になるのは不服の至だ。」

半ば意地だった。温室で育った私は当然家出経験もなければ野宿経験もない。野犬と一夜を共にするなど以ての外である。しかし、口に出してしまったからにはもう引き下がるわけには行かない。

『だめよ、どうかお願いだから、どこか宿を見つけて。
文乃、あなたの身になにか起きるのを私たちは見ていることしかできないのが一番苦しいの。』

「む…しかしだな…。」

どうやら野宿の線は早々に諦めたほうが良さそうだ。






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この時代は明治の東京府、栄えていたといえど野良犬が多く生息していたようです。また「俥(くるま)」と呼ばれるいわゆる人力車の他に、「乗合馬車」「馬車鉄道」というものもあったらしいのですが、地面は土なので土埃が立ちまくるし馬は糞垂れ流すし乗客は乗ってる途中で逃げるしで随分適当だったようですね。
設定としては初秋あたりなので、夜は結構冷えるんじゃないかな、と思っていただけたら幸いです。東京府の都市部では(停電は間々あったものの)街灯がついておりました。ガス灯と呼ばれるもので、自動ではないので暗くなると一々つけて回っていたそうです。星綺麗だろうなぁ…。



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