Verweile doch | ナノ

Act.1 白い鴉 -02


「……。」

驚愕という言葉は、久しく私の脳内を埋めた。
状況を咀嚼し理解するのは、随分と時間を要されるだろう。目の前の光景を誰が信じようか。私の場合は受け入れるに難しだ。一度目をつむり、肺に酸素を送り込んだ。ゆっくりと息を吐き出す。現実を受け止める準備という行為とともに次に目を開けた時には自宅ということを願っての行動でもあった。

「……ここは何処だ…。」

少し、過去に遡ろう。



芝の上に転がっていた。目を覚ませば、紫紺の空が瞳に映り込む。酷く星が綺麗な夜だった。それに、西の空の色から察するに日が暮れたばかりだと言うのに随分と冷えるようだ。起き上がり、右肩に携えているバッグを漁る。ハンカチに、家の鍵、メモ帳、ペンケース、メガネケース、電子マネー、携帯、そして財布。財布の中には確認最後に確認した通りの額のお金に、身元証明証…何も盗まれてはいないようだった。
携帯を取り出して電源を入れるが、圏外。充電は67%だったが、圏外などという状況で使い物になるわけもない。携帯の時刻は13:39だったから、これは本格的に参った。少なくとも18時は回っているだろうに、一体全体どうしたというのか。
私はあたりを見回し、公園のようなその場所を歩き回った。人気はまばらだが、どこか服装がおかしい。洋装を身にまとった男性に、和装の女性。夢なら早く覚めてくれと、嫌にリアリティのあるこの現象に頭を抱えた。私の馬鹿な杞憂ならば、早いところそれを証明して欲しかったのだ。

歩いていると公園の出口にたどり着いた。大通りをはさんで向かい側は見たことのあるような建物が視界に映る。公園の出口に鎮座している石には、「日比谷公園」と掘られていた。はて、いつの間にやらここへ現れたのか。それにしてもおかしい。私は今後ろを通り過ぎた乗り物を横目に捉えて固唾を呑んだ。

恐る恐る振り返る。

人間が引く俥(くるま)という乗り物。乗合馬車。紳士淑女。澄んだ星空。そして…右読みの看板。何もかもが、私が明治時代にいることを突きつけてきた。と言っても、明治時代に実際に行ったことがあるわけでもない。歴史小説や、自伝小説などを読んだ際に身に付いたその周りの知識に酷似したこの街並みは、私に眩暈を起こさせるには十分のファクターだった。


ここまでで話は冒頭に戻るが、依然として開路を見いだせていない。
何度も道を振り返りながら歩き、自分の来た道を確認した。夜の帳は完全に降りて、空を一面黒い布で覆う。今日は満月のようだ。妖しく光るその紅月に、私は不気味な胸騒ぎしか感じることができなかった。今は満点の星空に感心している場合ではないのである。

「…っと、ああ、申し訳ない。
大丈夫…」

誰かにぶつかった感覚を頼りに後ろを振り返ると、外国人女性が驚いた顔で私を見つめていた。日本人では染めても絶対にそうはならないブロンドヘアはストレートでサイドに落ちていて、見開かれたその瞳は宝石のように深い碧を宿している。綺麗な少女だ。しかしその雰囲気は、どこか人間離れしているように思う。私はそれに親近感を覚えた。
彼女に非はないが、まったくもって驚きたいのは私の方である。先程からだんまりを決め込んでいるその女性に、私は再度尋ねた。

「あの、どこかぶつけましたか?
Are you suffering any pain?」

「Kein Problem...」

彼女はどうやらドイツ語圏の人らしかった。私は彼女のもつ雰囲気から彼女をを幽霊だと漠然的に悟り、安堵の念を抱く。私は彼女に、ドイツ語で再度話しかけた。

『それは良かった。ところで、いくつか質問しても良いかな?』

『はい、いいですよ。』

可憐に笑む彼女。私は彼女の隣を歩くように、人気の無い処へ場所を移した。

『君の名前は何と言う?』

『…エリス。エリスよ。』

『じゃあ、エリス。今は西暦何年か、聞いても良いかな?』

こくりと頷くエリス。白いスカートが風に揺られたカーテンのように靡いた。

『今は、多分1889年。』

『では、ここは?』

その問には首を振る。彼女もあてもない散歩をしていただけなのかもしれない。

『ありがとう、年号がわかっただけでも大きな収穫だ。』

明治中期。なんだってこんなところに私はいるのだろうか。
一先ず財布も携帯も何も役には立たないだろう。通貨を手に入れて…ああ、今の時代は兌換銀行券もできていないのだったろうか。どれかを質屋で売れば一日ぐらい凌げるはずだが…

『私も聞いて、いい?貴方の名前』

『ん?ああ、私は篠原文乃という。
どういったわけかは知らないが、しばらく家には帰れそうにないのでな。公園で野宿などした時は話し相手になってくれると有難い。』

私は彼女に手を差し出す。彼女はその手をしばらく見つめて、そして恐る恐る握ったのだった。私の態度が異質なのか、驚くような顔は依然として変化を見せない。手を握り合って、お互いの体温を感じてやっと、小さく微笑まれる。

『……来て』

「え?――っ!?」

私は、手を繋がれたまま、彼女に引きずられるように歩いた。
ズンズンと進んでいく白金の髪の少女は、何処へ行くのかを聞いても、答える気配は無い。暗がりに入らないところから察するに、別世界へ連れて行かれるという線は少なそうだ――行ったことがないので断定はできない――しばらく歩いていると、私の足取りは疲労で遅くなる。もうすぐよ、と呟く可憐な声に身を委ね足を動かした。

『ここ。』

『……ここ、は――?』

洋館だった。酷く風貌が新しく、築数年なのが見て取れた。どっぷりと日が落ちてしまったことと、私の視力が不十分なことから詳細な構造などを説明するには事を欠いてしまうだろう。ただ私が率直に思った感想として、この館に住んでいる人間は酷く金回りの良い人物なのだろう。

「なにしてんの、こんなところで。」

「…!」

扉から、誰かが顔を出した。館の住人なのだろう。電気の通った玄関の光に逆光して顔はわからない。私は不審者だと思われる前に退散しなければと、素早くそこを離れようと試みた。しかしそれよりも先にその人物は私の手を掴み、待って、と足止めした。
ああ、捕まった。人間と話すのは本当に力の使う作業なのだ。私は、後ろの青年声に呼応するように振り返った。

「……。」

「……。」

「……。」

私の右手を掴んだ青年は、顔を付き合わせるや押し黙った。夜の帳に塗られた花緑青(はなろくしょう)の髪と目は、深海を思わせる深みをたたえていた。癖のある髪を後ろで束ね、首にはマフラーのようなものが巻かれていた。年は十七、八あたりだろうか。大人になりきれない顔立ちは、儚さを思わせる。
青年はしばらく口も開かず私を見つめる。しかし右腕を掴む手のちからは一向に緩まない。

「あ、の…」

「………ってて…。」

「はい?」

「そこ待ってて。今すぐ戻ってくるから、そこを一歩も動かないで!!わかったね!!!」

そう言うと、青年は一も二もなく洋館へ駆けていった。私はエリスの手を握り、弾かれたように走り出した。






--------------------


当時は色々な通貨が入り乱れて、とにかく国の保証する金なんぞはいつただの紙切れになるのかしれませんでした。何度も政治体制が変わって憲法が作られる過程で、兌換銀行権というものができるまではわりと適当にお金を回していっところもあるのでしょうね。1889年はもう松方財政と言う政治が始まって、安定している頃だと思います。
後に本編でも触れますが、主人公はいわゆる幽霊の類を『視る』ことができる人で、原作ではそのような人を「魂依(たまより)」、霊の総称を「物の怪(もののけ)」と呼んでいます。本作もこれに合わせていきますので、わからない部分などございましたらお申し付けください。頑張って図で説明します。(笑)あと間違ってる部分もぜひご指摘お願いします。



|


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -