無事に上手く逃げられる事を祈りつつも飛び出した先にも、既に動く死者が何人か待ち構えていた。希望は見事に裏切られる。そういう状況だった、今は。あの『神』が希望を持つ事さえも許そうとはしない。

「こ、こっち……!」

 ゾンビの手薄な側にいた七瀬が駆け抜け、先に見える階段を目指した。我先にとその手を伸ばしてくるゾンビに、前田が消火器を拾い上げて応戦する。太った女ゾンビは、顔面にめり込まされたその衝撃に後ろへ倒れ込み、更にその背後のゾンビも巻き込んだものの数秒の時間稼ぎにしかならなかった。
 その上を這い上がり、こちらに向かってくるのは坊主頭のいかつい男子生徒、もといゾンビとして生まれ変わった存在だった。前田が息を飲んでいると、那岐がすかさず血塗れの日本刀を構えながら飛び込んでいた。神速の太刀、けれど、相当消耗しているのが分かった。

「うっ……!」
「早く、上に行って」

 だが、それを感じさせない冷静さで那岐が言い放った。

「早く! 防火シャッターで封をするんだ!」

 はっとしたように七瀬が叫び、その声に従うように皆が駆け込んだ。……あと少し、もうあと少しで床の直前にまで降りようとしていた防火シャッターだったが、閉まり切るその瞬間だった。予想外の素早さで飛び込んできたその物体に、後方を走っていた新条が絶望を露わにしたような表情で振り返った。
 しばらく何が起きているか理解できないでいたが、すぐにそれが人間の腕で、そして自分の足首を掴んでいた事を知った。

「!」

 とてつもない力で引きずられ、閉まりかけたシャッターは新条の身体を巻き込んでガタガタとやかましい音を立てた。こちらの腕力を遥かに凌ぐ馬鹿力で引きずられ、再び元の位置へと。――残念。一マス戻る、ってか。……クソがクソがクソが! ざっけんなよ!

「新じょ、」

 七瀬の声がシャッターで遮られたのを最後に、その扉が閉まり切った。吹っ飛ばされた勢いで、新条は壁に背中を打ち付け、呻き声と共にずるずると床に滑り落ちる。

 しかしこんなところで気絶しては、餌になるばっかりだ。――新条は腰に差していたオートマ式の拳銃を抜き出し、慌てて引き金に手をやった。後頭部を打ち付けた代償なのか、指先が無性に震えて、同時に恐怖によって引き起こされた冷や汗のせいか――拳銃を指先から落としてしまった。つまらないミスだった。しかしそのつまらないミスが、命を奪う事だって。

(まずい。これは……)

 息遣いが音量マックスで両耳に響いてきて、酷くうるさい。全部、自分のものだったんだが。

(……やばい)

 獣じみた唸り声に囲まれる。死という名の運命に追いつかれる。ああ……、死ぬ。俺はこのまま死ぬ。八つ裂きにされて首筋を噛み千切られる……何て痛そうな死に方だ。でもそれもこれもばあちゃんの苦しみと比べたらマシなのかもしれないけど。
 生きるという事を諦めてしまった者のやるせない目をしていただろう、今の自分は。新条が堪えきれずに蹲り、頭を抱え、俯きその目を閉じた時だった。

「新条ッ!!」

 それから――その声に導かれるように顔を上げた。はあはあ、ぜえぜえ、と自らのうるさいくらいの呼吸音と、死者達の大合唱を耳にしながら、新条は這うようにして少し態勢を持ち上げる。

「撃って! 早く!」

 その太目な体格、クルクルの天然パーマ、鈍くさそうな動き。間違えようもなく、そう前田だった。――助けに、来てくれたのか。これで二度目だ。二度も貸しを作ってしまった。こんな取るに足らない奴に。

「もう……駄目だ……死ぬんだ……俺……」

 頭の中では強気な自分がいたが、喉を伝って出てくるのは情けないくらいに震えた自分の声だった。

「撃って! 最後まであきらめないで……だから銃を手にして!!」

 前田の必死の鼓舞も耳に入らないくらい、自らの呼吸がやかましかった。ついに前田の走り周る音が消えたと思い顔を上げると、彼のそのぽっちゃりした身体がゾンビ達によってしっかりととらえられていた。デブの腕力を持ってしても、その拘束を解くのは難しそうであった。

「ッ……!」

 ゾンビの筋力は生きた人間のそれを遥かに上回る。リミッターの外れた腕力が、前田の片腕を制服ごと引きちぎった。前田はこれまで経験した事のない激痛に、悲鳴も上げられなかった。それから、背後にいたゾンビがもう片方の腕も掴んでいた。制服もろとも、残る腕も肩から引き剥がされた。
 あっという間に前田の小太りな身体が、床の上に投げ出された。というか、拘束から逃れようと、前田が倒れてかわした結果そうなったのだろう。真っ赤な血飛沫が宙を舞い、壁にぶちまけられた。
 転倒した前田に向かって、死者の群れは更に襲い掛かろうとしていた。

(……今なら……)

 死の床に滑り落ちていた新条の意識がようやく覚醒した。恐怖と緊張で内臓がひっくり返りそうなくらいに痛んだが、しかし新条は拳銃へ向かって走った。ヘッドスライディングの要領でそれを掴んだ。

『誰がとかそんなの関係ないよ。生きてる人がいた、それだけでも十分じゃない。無事で何よりだよ』

 “二人目だったんだ。
 俺の事を考えてくれたのは。”


(今ならまだ彼を助けられるかもしれない――)
(全部俺がやれば、彼を救い出せるかもしれない)
(全部……全部片付ければ……まだ……!)

 引き金に、汗でぬるつく指を回す。

(間に合うか?――間に合うのか!?……クズ野郎でヘタレの俺が必死こいて戦ったところで、助けられるのかよ!?)

 気を落ち着かせるために大きく深呼吸をした。鼻からめいっぱいに息を吸い込み、今度は口で吐き出す。

(やるっきゃねえだろうが、間に合わなくても何でもあいつを助けたいんだろ!? だったらやる以外選択肢はないじゃないかッ! クソが!)

 こいつが、こいつが、二人目だったんだよ。
 俺の事を、そんな風に、ちゃんと考えてくれたのは。
 だったら何が何でも助けるっきゃねえだろうが。

 前田の腹をかっ裂こうとしていたゾンビの頭を目掛けて、その引き金を引いた。
 至近距離なのもあり、初弾で弾道はぶれたが何とか命中した。感じられる反動は重たく、しっくりと来なかった。こんなものか、と感じる程だった。
 一体殺すと、恐怖心は一瞬のうちに消え去り、代わりに怒りがこみあげてきた。好き勝手にされてたまるか。ふざけるな。

「クソッ、クソ!!」

 続けざま、その奥にいた腰の曲がったババアゾンビに目掛けて発砲したが、弾はその背後の壁に直撃し塗装を削り取っただけに終わる。しかし、止まるわけにはいかなかった。
 何とも言えない気力が全身に流れてくるのを感じる。それは矛盾しているが、熱いけれど、冷たい。

「俺が全部やればッ!……全部やれたら、終わるっ……かもしれないんだ……ッ!」

 果たして、前田は息をしているんだろうか?……クソッ! 確かめようにもまずはこいつらを一掃しろ。そうだ、まずはこいつらを倒す事だけを考えろ!
 そのあらゆる感情が一緒くたになった脳内が見せる世界には、一切の音がなかった。――無音の世界で繰り広げられる、殺戮劇だ。出来の悪いB級ムービーのような世界には生憎興味はないが、まさかこの俺が出演する事になるだなんて。生きて帰ったらこりゃあオファーがたくさんくるな? 

 自分の呼吸音と心臓の音だけが研ぎ澄まされたように響く。

「殺す! 全員、ブッ殺す!!」

 ランナーズ・ハイというやつか。すっかり息は上がっていたが、気持ちは昂揚したままだ。やるしかないという義務感が頭をもたげていた。
 すると、背後から抱き着かれ、右腕を引っ張られた後に耳を齧られた。
 甘噛みなんていう可愛いもんじゃない、もはや食いちぎられていた。ピアスは開けた事あったけれど、比じゃない痛みが跳ねあがった。いやいや当たり前か。でも、あれだって結構痛いんだぞ? 耳たぶを冷やして、感覚をなくしてから針でブスってやるのが通常なんだから――肉の抵抗が失われ、呆気なく自分の耳は消失した。

 しかし、その痛みこそが彼を覚醒させていた。
 背中にしがみつくゾンビを突き飛ばすと、一発撃った。自分の耳を咥えたままの女ゾンビの頭部が見事に破裂し、脳漿が辺りに飛び散る。

 扉を開けて部屋から出てきたゾンビに向けてもう一発発砲しようとし、弾が切れた事を知った。スペアはポケットの中にある、あいつがここに来るまでに変えている猶予はないか……。

「クソが……!」

 空になった拳銃でゾンビの頭部を殴り飛ばし、距離を取ったがあまり大した時間稼ぎにはならない。
 一気に疲労感が津波のように押し寄せた。
 ゼエゼエとその姿勢のまま立ち尽くしていると、足首を掴まれた。振り返ると、殺し損ねたのであろうゾンビが、こちらを見つめた後で歯を立ててきた。学ランもろとも食いちぎられていた。

「――もう……」

――終わらせてくれ……この、バカバカしい劇を、

 もはや身体のあちこちを負傷していた。そして、疲弊しきった新条には――余力など微塵も残されていなかった。



 防火シャッターの先での格闘を終え、七瀬達が二人を追いかけて駆け抜ける。気が狂いそうな程の赤一色の廊下は、金属のようなきつい血液の臭いで覆いつくされていた。しかし、そんなものに気を取られている場合ではないとばかりに走り続けた。とにかく祈りながら、七瀬は走った。
 距離にしてみればそう長くはないのだろうけれど、その道のりが無限に引き延ばされた時間のようにさえ感じられた時にようやく辿り着けた。
 辿り着けたが――、と、七瀬は足を止めた。まずは、何かに跨った姿勢のままでいる新条の後ろ姿が目に入った。

 そのおかしな雰囲気に、七瀬だけじゃなく他の者達も顔をしかめたようだった。

「前やん、新条!!」

 その場から、七瀬がありったけの声で叫ぶと、そこにはまず七体分のゾンビの死体がある事に気付いた。そしてそれらは全て、しっかりと頭を潰した上で手厚く葬られていた。だけどそれよりも――七瀬が視線を動かし、言葉を失った。その死体に圧倒されたわけではない、そんな事より……

「ま、前やん……」

 悪夢のような血の海の中で、前田が両腕を失った状態で倒れているのが分かった。慣れ親しんだ友人の、何とも衝撃的な姿だった。愕然と、七瀬が血だまりの上にくずおれる。

「前やん」

 友人はまだ生きてはいるようだったが、腕だけではなく首筋を真っ赤に染め上げていた。七瀬達の存在に新条が気付いたのか、ゆっくりとした動作でこちらを振り返る。

「!――し、新条……片目、」

 彼の片目は指でも突っ込まれたのか、まぶたの縁から内側にかけて真紅に染まっている。つまり、眼球を破壊されていた。制服もあちこちズタボロだったし、全身にかなりの出血が見られた。

「お前……」

 圧倒されたように柏木が呆然とその光景を眺めていると、新条は跨っていたゾンビの死体から起き上がった。咄嗟に駆け寄ろうとした柏木を片手で制し、新条は――持っていた拳銃を自らのこめかみへと、ゆったりと運ぶ。マガジンは取り替えてあった。そして、こんな時に備えて、一発残してあった。

「新条、駄目だ!」

 慌てて七瀬が叫んでやめさせようとする。けど、彼に迷いはなかった。新条の顔には彼本来のものなのであろう、作り物ではない安らかな笑顔が浮かんでいた。
 銃声が響き、脱力した新条の身体がその場に力なく倒れゆく。七瀬は手を伸ばした姿勢のまま、しばし呆然とするばかりであった。どうして、と声にならない思いが出かかって、結局出ないままだった。

「……馬鹿野郎」

 柏木が自分の前髪をぐしゃりと潰しながら呻いた。やり場のない憤りに、どうしようもない感情ばかりが溢れかえる。
 七瀬はすぐさま頭を切り替えて、ひとまずまだ息のある前田へと駆け寄った。

「あ、ま……前やん……!」

 かろうじて、といった具合に彼の命は繋ぎ止められている。前田は血だまりの中で無理したように笑顔を作って見せた。それから、言った。

「な、七瀬。分かってるよな? ゾンビもののセオリー通りに行こうぜ」

 随分とおだやかな口調で、前田は言った。

「駄目だよ……お、俺には出来ない……」
「でも、俺も両腕がないからお前しか頼りにできないし。痛くて痛くてもうしょうがないから……ほら、な? 俺達の大好きなゾンビ映画のお約束ごとだぜ」
「前やん……お願いだよ。息をするんだ、ちゃんと――頼むから死ぬな……」

 こんな会話など、したくもなかった。大事な友人と別れなくてはいけないのなら、ゾンビ映画なんか大嫌いだ。もう一生見ないと誓った。
 しかしもう前田が死にかけている事を悟った。というか、認めた。認めるより、もう他にはなかった。

「できないのなら、私がやってあげる」

 見兼ねたようにロッキンロビンがヒールの底を鳴らしながら躍り出てきた。今度は那岐ではなく、彼女の番のようだ。

「あ、お、お、お姉さまにやってもらえるのは、少し嬉しいかな?」

 前田がそれで少しふっと笑った。

「――どういう死に方が好み? 教えて頂戴」
「あ、じゃ、じゃあさっきみたいに首を切るのはやめて欲しいな。あと拳銃も脳味噌が飛び散っちゃうのはちょっと……一瞬で苦痛もなく、静かに死ねるようなやつ……」

 言う唇の端から大量の血液とヨダレが垂れた。笑っていたその目も、左右で焦点がずれているのが分かった。
 ロッキンロビンがしゃがみこむと、その豊かな黒髪がぱらっと落ち、毛先が前田の血に触れた。

「分かったわ」

 業務的に、そして端的に言い、ロッキンロビンは抱えた前田の背後からその首に腕を回した。もう一方の腕で、その頭部をしっかりと抱え込み、それから――目にもとまらぬ早業で、その首をボキリと捻った。

 多分、何が起きたのかも分からないまま、前田は死んでいた。

――ああ……

 馬鹿みたいだ、と心の底から思って七瀬は虚脱感を抱いていた。内臓が全部奪われたかのような空虚を覚えていた。

 何て説明すりゃあいいんだろう? 前田の親に。ゾンビに噛まれたので、彼は自ら命を絶ったのです。死を選んだのです。化け物にならない為に、首の骨を折って自害しました。アーメン。……ふざけるなよ、と叫びたくなっていた。




ああああああ〜
あああああ〜……あ〜〜〜
あ〜〜〜えぇいああ君からもらい泣き〜〜〜
肉食女はカラオケで一青窈のハナミズキを歌う
ソースは私の偏見です

35、破滅のデイライト

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