大切な人が目の前から去るようにしていなくなってしまったのは、人生においてこれが初めてというわけではなかった。

「友樹、あんたはお父さんの方に行くんだね」
「……うん」

 小学校五年生の時、両親が離婚した。それから約五年近くは、そんな両親の事を心底軽蔑していて、心が荒みそうにもなった。――が、今、ここまで生きてみると二人の気持ちも理解できなくはないと思えてくる。子どもから見れば親は親だが、実に軽い言い方をすれば、何らかの縁で偶然一緒になっただけの元々は他人同士なのだ。

 原因なんてもはや思い出せないくらいに些細な事の積み重ねだったように思う。母親の浪費癖がああだとか父親の親がやれ干渉してくるのに耐えられないだとか(いわゆる嫁姑問題とか呼ばれるやつか)、生活時間でのすれ違いがどうのこうのとか。
 
(でもだからって、簡単に別れていい理由にはならねえだろ)
(自分達が楽になったらそれでお終いなんだな?)
(子どもの気持ちはどうでもいいのか、無視かよ)

 それからの話は恐ろしいくらいにとんとんと進んでゆき、あっさりと家族はバラバラになってしまった――。

 こんなにあっけなく終わってしまうものなのか。家族ってのは。何が絆だよ、夫婦の深い愛だよ。そういうの、ほんと超くだらないです。



「柏木。お前、部活何入るか決めたか」
「うーん、どうしようかな……バスケ――はそんなに興味もないしなあ。サッカー? テニス? うーん、何かどっちもいまいちそそられないなあ……」

 柏木の進んだ中学校は、どちらかと言えば勉学よりもスポーツが盛んで有名だった。特に、サッカーとバレーボールは毎年県大会では優勝以外の文字はありえないとされるくらいに強豪とされている、との話だった。

「消去法っぽくなるけど野球かなぁ、今のところは。小学校の時もやってたし、新たにルール覚えなくていいしな」
「そっかぁ。でも、兄貴が言ってたけど野球の顧問クソ厳しいらしいぜ。しかもめちゃくちゃ強いらしい」
「強い? 野球の話?」
「違う、腕っぷしが。鬼の特訓にマジギレした先輩達が集団で顧問をリンチしようとしたけど、一人残らず返り討ちにしたって話」
「へぇ、すげえじゃん。そんなんじゃみんな嫌でも従うだろうな」

 顧問の教師は、西川という名の強面の教師だった。元暴走族(って、今も存在してんのかな?)のヘッドだったとかで生徒からは『総長』と呼ばれて恐れられている男だった。まぁ、そんな肩書なんぞは知らなくとも一見して逆らおうとは思えないようなガタイの良さを持っていた。
 年齢は三十半ばくらいか、角刈りと無駄にエラの張った顔のせいで一部の口さがない女子達からは『ホームベース総長』等と言われていた。

 それでも柏木は、結局のところはその規則や稽古が厳しいとされる野球部を選んだ。
 これでなくてはという絶対の理由があったわけではないのだが、この中では一番好きな運動であったし先に言ったように少しばかり経験があったから選びやすかった、というのもある。
 そして噂通りに、練習はきついものだった。ボールにさえも触らせてもらえず、肺活量を鍛える為だとグラウンドを全身の水分が尽きるまで何周も走らされ、夏になれば炎天下の下で無駄に大声を張り上げながら学校の周りを走らされる。走り込みが済んだら次は基礎トレーニングで、腹筋、ジャンピングスクワット、腕立て、体幹トレーニングを百セット、日が暮れるまで延々続けなくてはいけない。きついだけではなく単調で飽きの来る、二重の意味でしんどいものだった。

 また、辛いのはそういった練習メニューだけではない。

 先輩からの理不尽な扱いにも、耐えなくてはいけなかった。土曜も日曜も、肉体も精神も共に全てをそれらに捧げなくてはいけなかった。たまに与えられる休日は日々の疲れのせいで一歩も外に出る気になれなかった。

 柏木は小学校時代に野球を少しばかり齧っていただけで、その時はいつもレギュラーとして試合をこなしていたわけでもなかった。出場する時は大抵がライトで八番、攻守ともにワーストワンと言われている、いわゆるライパチだとか呼ばれるポジションが多かった。それでも人数の多い中でのレギュラー争いを勝ち抜き、スタメンとして試合に出場できたのは自分の中では誇りでもある。補欠としてベンチに控えていただけの選手は大勢いたし、また、彼らにいつ自分の地位を覆されてもおかしくはなかった。

 両親のゴタゴタのせいで、結局はその野球クラブを五年生の時に辞めてしまいブランクは空いてしまったけど当時は確かに『誰にも負けたくない』という強い意志があった。あの時のような強い気持ちがまた甦ればいいのに、と柏木は次第に考えるようになった。

「……いい加減にしろよ、この玉拾い! 何度同じミス繰り返せば気が済むんだよ、一回注意されたってのに一週間経ったらもう忘れてやがるのか」

 それから、先に聞いていた通り顧問の西川も中々曲者であった。ようやく嵐のような基礎トレの期間が終了し、ようやくバットやボールに触れさせてもらえるようになり、試合に向けてのそれらしき練習が始まったかと思うと次は彼のいびりが始まった。
 西川はその見た目や言動はまるで獰猛な肉食獣のようでもあったが、中身は狡猾で執念深い蛇のような奴だった。一人に狙いを絞り込み、ソイツを徹底的にいびり倒すのが彼のやり方で、時期が過ぎ去るのを只じっと待つしか逃れる方法はなかった。

(しかしホームベース総長……って)

 西川からの説教中に不意にそれを思い出し、意識した事はなかったが思わず観察してしまいまじまじと見つめてからほんの少し吹き出しそうになる。が、それを押しやったものも、僅かに顔がにやけてしまったのは事実だ。西川は、それをも目ざとく察知した。

「何だァ、柏木てめぇこら! 今笑ったろ、俺の話がそんなに面白かったのか、ええ!?」
「あ……、い、いえ……」

(しまった、つい……)

 彼に目をつけられた部員は、大方辞めてしまった。辞めてない者は、運良く彼のターゲットから外れただけだった。部員は一人、また一人……と徐々に減っていき、当初は賑わっていた新入部員達も半分近くいなくなった。

(このまま二年に上がるまで逃げ切れたらいいんだけどな)

 うまく目をつけられないようにこそこそと立ち回っていたつもりの柏木だったが、とうとう西川の矛先が柏木へと向いてしまった。キッカケなんてのは、多分思い出せないくらいに些細でチャチなものだろうと思う。もしかしたら、あの時の少し笑ってしまった事がそうだったのかもしれないし。

「お前、ホントに経験者かそのクソフォーム? 家に帰ってから素振りの練習、サボってんだろ」

 その日も顧問の指導に耐えながら、汗が塩分に変わるくらいまで特訓し、手にはいくつも血豆をこさえながら、それでも柏木は辞めるものかと思った。暗黙のルールだったけれど、一度入った部活を変える事だけはしたくなかった。
 意地もあるし、惰性でもある。
 しかし、学校にいる以上はこの部活をやり切れるかどうかは最低限クリアしなくてはならない課題のように思えた。同時に、大義名分でもあった。部活を理由にして、家に帰るのを避けていたのもある。

(先輩のスパイクかっこいいな。多分、あれ二万くらいするやつだよなあ……)

 父にはねだりにくかった。母への慰謝料と妹への養育費に毎月頭を悩ませている父の姿を知っている身分としては、そんな事が言えるはずもない。
 家に帰ってからも、柏木は素振りの練習や筋トレをかかさなかった。それを口実にして父との会話を意図的に避ける事も、多々あった。

 雨の日は部活が休みになるかと言えばそんなわけもなく、体育館内で隅っこの方で筋トレをする事が多かった。卓球部、バスケ部、バレー部がそれぞれ練習する中でやや窮屈そうに身をひそめながら野球部はそれぞれ怠惰そうに柔軟を始めたのだった。

 顧問がまだ不在なのをいい事に、各々何か喋りながらのだらけたトレーニングだった。……それにしてもこんな狭い場所に無理やり入り込むのってどうなんだろうな――柏木は窮屈なそのスペースで、先輩らの後ろで小さくなりながらストレッチしていた。
 案の定、背後の女子バレー部員のもろに嫌そうなひそひそ声が、程なくしてから聞こえてきた。

「ちょッとー。誰だよ野球部の連中に許可したの、すげぇ狭いし……」
「つーか野球部くっさ、ちゃんと消臭してから入ってこいよ〜。汗くっせぇんだよマジで」

 女子特有の遠慮のなさと目の付け所で、グサグサとこちらに対する嫌味が飛んでくる。汗臭いのはみんな一緒じゃねえか、運動してるんだから。
 そうは思うけど当然言い返すでもなく、むしろ先輩らの耳に届けば何か言い返してくれるんじゃないかなと人任せ気味に少し期待した。が、女子達の関心は野球部より別の方向へと飛んだようだった。

「それに比べたら木崎君は何か汗かいてても素敵なんだよね〜、あいつ超頭悪いらしいけど」
「え、そうなの? 結構かっこいいのになぁ」

 聞くつもりなどなかったその言葉が耳に入り込んだので、何の気はなしに柏木はふっと顔を持ち上げた。彼女達が噂している人物がそこにいるのだと知り、気になった。それとなく彼女達の視線を探り当てた。

(何だあれ? 空手部……ではないよな?)

 四隅の一角辺りで、空手の道義を身に着けた男子生徒が一人――空手部は、少なくとも自分達の代には存在しなかった。似たような武道の部活もなかった筈だし……と思わず内心で小首を傾げてしまう。
 よく見るとそこにいるのは噂されたばかりなのであろう『木崎』と、もう一人ばかり、指導者と思われる壮年くらいの男が一人。計二名、たったのそれだけで構成されたそのグループだったが、あの人数では部活ではないだろうし愛好会とも呼べるかどうか――木崎は同じ学年で、クラスは違う。一学年の生徒数も多く、実は顔を見てようやく「ああ、そう言えば見た事ある顔だな」と思ったくらいだった。

「手刀(しゅとう)回し受けッ!!」

 指導者の突然の声に「うわ、びっくりした」と肩を竦めつつ柏木がそれを見守っていると、先程の女子達が更に会話を続けたのが分かった。

「あれって、木崎くんの叔父なんだっけ?」
「そうそう。空手の黒帯三段持ってるとか、何とか。だからあーやって教えてるみたい。私も小学校まで空手してたからあのくらいの基礎は何となく分かる」

 なるほど。二人の関係性は分かったが、何故あんなところで練習しているのかは、今一つ把握しかねた。そもそもあれは部活なのか。一体、何の集まりだろうか。

「経験者から見てもあの構え、腰の落とし方に立ち方。木崎君は相当ヤルね〜」
「何知ったかぶってんのよ、さっさと練習戻るよ」

 二人の会話がそこで終わってしまったので、結局あれが『木崎』だという事、それから指導者が彼の叔父で、あれが正式な部活ではない事は何となく分かった。

「え、木崎? 知ってる知ってる、空手めっちゃくちゃうまいんだよなアイツ。体育館の隅っこでいつも型やってんの見るな」

 男子バレー部のクラスメイトならいつも見ているだろうから、と、翌日その話を振ってみると彼はあっさりと話し始めた。

「有名な話なんだな。俺、昨日初めて見たから何かすげぇ気になってさ。一体何してんだろうなァ〜って。叔父さんなんだってな? あの教えてる人」
「そうそう、そうだよ。空手部に入りたくても部活がないからどこも所属しない、っていう話からあの叔父さんとやらが『じゃあ体育館の隅っこで練習させてくれ』って乗り込んできたらしい。何でも教頭とあの叔父さん、同じ流派で習ってたのもあって結構仲がいいだとかで特別にあの場所提供してるらしいよ」
「へぇ〜、教頭繋がりなんだぁ。じゃあ特例ってやつか」

 なるほど。と、ようやくのように腑に落ちて、柏木は一つ頷いた。

「しかもめちゃめちゃ上手らしくてさ、文句言う奴もほとんどいないらしいよ。只、すごい成績悪いらしいからそろそろ禁止令出されてもおかしくないんじゃねえのって噂があるけど」
「ふーん、頭良さそうな顔してたのに」
「見かけだけで、五教科全部合わせても三十点いかないらしいぞ」
「そ、そりゃあ……」

 自分も確かに、部活動を免罪符にして勉強をおざなりにしている部分はあったけれど流石にそれは酷すぎるってものだ。普通、運動の出来る奴って連動して勉強も出来る筈だから単純にやり方が分からないだけで真剣にやれば取り組めるんじゃないだろうか、ってすごい余計な心配だろうけど。

 それ以来、木崎の存在を知ってからというもの、興味本位でついつい目で追う事が多くなってしまった。言われてみれば木崎は日頃は随分とぼーっとした印象を受ける生徒で、空手に取り組んでいる時以外は何だかきちんと生活できているのか不安になるくらい鈍臭い奴だと知った。

「って、大丈夫か木崎!?」
「あ……うん。平気……」

 偶然通りかかった時に見たが、この前なんかは大量のプリントを運んでいる最中に廊下で教師とぶつかり派手にぶちまけるというお約束な姿を目撃してしまった。散らばったプリントを拾い集めている最中、また別の人間にぶつかり更に惨事を引き起こしていた。

「おいおい何やってんだよ、もう〜!」
「ごめん……」

 おまけに、彼は敬語がまともに使えない。先輩にもそうだし教師にも同じだった。

「でも、先にぶつかってきたのはそっちでしょ」
「な、何だとお前……その口の利き方は……」

 更に言えば、空気も読めないらしかった。怒った教師に説教されても、木崎は「どうして叱られなくちゃいけないんだ?」という具合に顔をしかめていた。それはそれは心底不思議そうな表情だった。

(何か……、合計三十点ってのも頷ける気がしてきたな……)

 苦笑を浮かべながらその光景を見つめていたが――やはり稽古中の彼を見るともはや別人のようにキリっとしているのが今一つ信じられない。
 きちんと伸びた背筋に、まるで床を掴むような足の指先。あれが三戦立ち、という空手の基本的な姿勢だというのは後で知った事だが、彼がたまに演じて見せる型はとにかく圧巻の一言だ。体育館で練習していたバレー部や卓球部、部員は勿論の事教師までもがその手を止めて魅入ってしまう光景がしょっちゅう見られた。

(あれだもんな。フツー信じられんなぁ、やっぱ)

 天は二物を与えず、といったものだがまさしくそんな感じなんだろうか。只一つ言えるのは、空手の、少なくとも型に関しての彼は極めて『天才』だと言えた。同時に、柏木にとって何故かとても気になる存在でもあった。





透子兄、現在29歳。
柏木くん29歳。
そんな透子兄には男と同棲疑惑……
あ……あ……あ……?

19、合計三十点の男

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