16.Engagement ring


目を開けたら目の前にはイタチさんの綺麗な寝顔があって、抱き締められたままの身体はぬくぬくと暖かい。この状況に慣れたのは一体いつ頃からだっただろう。
最初は抱き締められただけで心臓止まりそうになって、キスされただけで爆発しそうになって、でもそれを当たり前のように受け入れられるようになったのは、いつ頃からだっただろう。(私の心はいつだって爆発しそうだけど!)
もちろん、今も多少は恥じらいの気持ちとか、照れくさい時もあるけれど、それを抜きにしても我ながらものすごく素直になったなぁ、なんて他人事のように感心していたりする。

そんなことを思いながら、ふと、彼に出会う前の自分を思い返す。

頑なに亡くなった婚約者との婚約指輪を左手の薬指につけて、合コンはおろか飲み会さえも遠ざけて。今思えばあの時の私は何を考えていたんだろう。いや、そりゃあ傷心していたんだろうけれど、それにしたって、女友達からの誘いまで蹴って、なんて孤独な日々を過ごしていたんだろう。もし、あのままあんな日々が続いていたら。そう考えたらとてつもなく怖くなった。

それでも、当時の私はそれでいいと思えていたんだろうけれど。

するすると目の前のイタチさんの頬に指を滑らせる。顔にかかる髪を上げてそのまま寝顔を見つめる。こんなに綺麗で頭もよく仕事もできる人が、私なんかと一緒にいてくれること自体奇跡的だ。
出会った当初は彼に対してまるで爪を出した猫のように可愛くない性格剥き出しだったのに、今じゃすっかりなついてしまっている。むしろ私のほうが彼なしじゃ生きられないくらい、それくらい、大切。

溢れ出す気持ちをそのままに、吸い寄せられるように人差し指で彼の唇をなぞるように撫でた。

「好き…」

はっ、と口をつぐむ。
思いに耽っていたら思ったことをそのまま口にしてしまった。恥ずかしいことこの上ない。恐る恐る彼の顔をもう一度見る…、大丈夫、たぶん、起きてない。慌てて手を彼から離して布団の中に戻し、寝返りを打つ。ばくばくと音を立てる心臓、顔の火照りは一向に収まらない。
ああ、もうこれはいっそのこと起きて朝ごはんでも作ろうか。そう思った瞬間、腰に絡み付いた2本の腕、引き寄せられた背にぴたりと貼り付く厚い胸板はイタチさんのに決まってる。

「い、イタチさん、おはようございます、」
「…火芽」
「は、はい!」
「もう1回」
「え?…おはようございます。」
「違う。…もう1回。」

ねっとりと舐められた耳、絶妙な力加減で撫でられている脇腹。
絶対に解ってやっている彼に少し悔しいと思いながらも、それでも逆らえない私はきっともうイタチさんから逃げることなんて絶対にできなくて。

「…好き…です」

結局、彼の言いなりになってしまうのは所謂惚れた者負け、というやつだ。

「俺も…好きだ」

途端に捲られたTシャツ、摘ままれた胸の頂、背に舌を這わされたら声を堪えて悶えるしか出来なくて、思わず飛び出た絞り出すような声も強引なキスのせいで籠って消えた。
身体を向かい合わせに向けられて口に舌を入れられれてしまえば、あとはもう彼にされるがままだ。

「ん…っ、ふう」
「火芽、好きだ」
「んん、ぅ」
「だから一生一緒に居たい。」

え?

一瞬、思考回路が止まる。
でもイタチさんがキスを止めてくれることはなくて。ついでに身体もあちこち弄られているものだから力も上手く入らない。

だけど、だけど今のは、今の言葉は、

「火芽と、結婚したい。」

やっぱり、流しちゃだめな言葉だ。

思い切って目の前の胸板をこれでもかと押しやる。不意打ちをつかれたであろう彼は驚いた顔で私を見た。でも、流石にこの言葉を聞き流せるほど私も馬鹿じゃない。
息を整えてひとつ深呼吸をすれば、割かし言葉はすんなりと口から出た。

「わ、私も…そう、思ってました」

言い終える前に力一杯抱き締められて呼吸が止まる。押し付けられた胸から聞こえる鼓動は激しくリズムを刻んで今にも飛び出してきそうなほど、でもそれは私も同じこと。なぜか急に溢れ出した涙が止まらなくて、鼻をすすれば熱い唇が目尻に落ちた。そして鼻先、そして頬、そして、唇。ぬるぬると侵入してくる舌を必死に追いかけて、絡み付いて吸い上げて、"愛してる"をたくさんたくさん注ぎ込む。

今思えば、私は最初めんどくさい女以外の何者でもなかったと思う。亡くした婚約者にすがって、今好いてくれている人を遠ざけて、可愛くないことばかり言って。イタチさんのことが好きになっても、付き合ってからも忘れられなくて迷惑ばかりかけて、私のせいで命まで落としかけたのに。
それでもこんな私を好きだと、結婚したいと言ってくれる人を手放す理由なんてたったひとつも見つからない。

「泣く必要なんてないだろう?」
「大好きなんです」
「…火芽、」
「大好きすぎて、苦しいんです」

私を包んでくれるこの大きな腕も、広い胸板も、つまりは彼の心も身体も、絶対絶対手放したくなくて。
失くすのを恐れてばかりいるんじゃなくて、私もそのぶん強くなろうって思わせてくれたのも、彼が初めてだったから。

そうして、今日から私の左手の薬指には新しい指輪が光る。



(20130924)


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