黄猿に狙われる


ルクスという人物を認識したのは、彼が副官になるおよそ一年ほど前のことだ。



「――――死ね糞ハゲ!」

ガン、という音は壁でも殴った音だろうか。資料保管室の方角から聞こえてきた怒声に、遠征から帰ってきたばかりだった黄猿はふと足を止めた。言葉として拾えたのは最初だけだったが、その後も物騒な音と共に呪いのような呻き声が響いてくる。

「…………ろす……ハクセラァ……!抹殺……してやる……!」
「(オー……聞こえた)」

閉め切られたドアからは近寄りたくない負のオーラが漏れ出ていた。昼間は人でごった返している海軍本部内も、夕方以降は人も減り、待機場所以外はひっそりと静まりかえっている。そんな中聞こえてくるあの呻きはもはやホラーだ。

「(ハクセラ……ハクセラ……聞いたことある気がするねェ……)」

がちゃりとドアが開き、出てきた人物と目がかち合う。女子の黄色い声を攫っていきそうな整った顔立ちの青年だった。
誰かに聞かれているなどと思っていなかった彼は驚いたり慌てたりするんだろうか。密かに反応を楽しみにしていた黄猿だったが、その期待とは裏腹に、青年は軽く会釈をするとスっと黄猿の脇を通り過ぎていった。
口際をぴくりとも動かすことなく。物怖じせず、なんだ人がいたのかとだけ言うように寄越された視線は風景を眺めている眼差しだった。まさか大将の顔を知らないなどという事はないと思うのだが。ツカツカと足早に去っていく背中は針金を通したようにまっすぐで、一ミリの誤差も許さない神経質そうな印象を受けた。



「――……とまァ、表玄関の掲示板にこういった写真が何枚も張り出されておりまして。今朝から大騒ぎになってます」
「……ハクセラ中佐、ねェ」

数週間後、黄猿の遠い部下にあたる将校がひとり懲戒処分を受けることとなった。買春の現場写真が晒された為である。対面して話したこともない男だったので普段ならば報告を受けてそれで終わりとなる筈なのだが、聞き覚えのある名に何かひっかかるものを覚えデスクに並べられた写真を見つめた。

――――……ろす……ハクセラァ……!抹殺……してやる……!

……ああ、あの若い海兵が呟いていた名前だったかと思い至る。
その日のうちに青年の姿を再び見つけることができた。そして少なからず衝撃を受けた。初めて会ったとき、黄猿は彼に対して空っぽの人形に澱みを押し込めたような存在だという感想を抱いていた。しかし廊下の先で同僚達と何かを話し込んでいる姿は、道端の花を見つめて微笑みを浮かべそうな清らかさと煌めきに満ちている。容姿は確かに同じである筈なのに、全くの別人にしか見えなかった。
――写真を貼った犯人はまだ見つかっていない。今回の件にさして関わりもなければ犯人を知る為の情報集めも一切していないのに、黄猿の脳裏にはあの無感動な目がこびりついて離れなかった。

その後、いくつかの不祥事が相次いで発覚することとなる。検挙ノルマを達成する為の公文書偽造や、海賊に情報を提供をし、その見返りとして金品を受け取っていた収賄事案など。どれも上層部によって都合よく揉み消されたのでニュースにはなっていないが、情報元が明らかになっていなかったので見過ごせない事案として会議の議題にあがった。もちろんその会議に黄猿も参加した。

「処分を受けて当然の者達ばかりとはいえ、いささかやり方がな……」
「内部の者であることは明らかだ!」
「いつこれが記者へ流されることになるか分かったものではないぞ!?」

体裁を保つことに必死な面々を傍観していた黄猿の耳に、ようやく嫌疑をかけられているという人物の名が届けられる。――ルクス。映像電伝虫によって映し出されたプロフィール写真はあの青年のもので。そうか、ルクスというのか、とこの時初めて名前を知ったのだった。
彼が犯人と見なされたのは、処分となった三人に恨みを持つ理由があったからだ。一人目にはセクハラを、二人目と三人目からは理不尽な要求ばかりされるパワハラを受けていた――という周囲からの証言が得られている。セクハラという単語に一瞬空気がざわりとしたが、共感は出来ずとも納得できるだけの説得力が写真にはあったようで、誰も虚偽ではないかと申し立てることまではしなかった。
話は先へ進み、彼には怪しい行動の証拠もありほぼ黒だと言えることが判明する。すぐにでも依願退職させるべきだ、と議論が沸き立つ中、黄猿はゆっくりと手を挙げた。

「わっしのォ、副官にしていいですかねェ〜?」

会議室は一時しん……と音を消した。退職に賛成していた者達からは本気か?と正気を疑うような眼差しが向けられる。上司を引き摺り落とすような部下を進んで傍に置きたがるなど酔狂としか思えないのだろう。

「もうすぐ今の副官が退役する予定でしてねェ。細かい所に目がいく有能な人間を探してたんですよ」
「……何を考えちょるんじゃ貴様」
「これだけのネタを“外”へ洩らしてないんなら、軍の面子を気にするだけの忠義心はあるってことだろォ?」

正義の名を揺るがす不穏分子になるのでは、と警戒していた赤犬の顔がわずかに緩む。

「膿を見つけ出してくれることは、決して悪いことばかりじゃァないと思いますけどねェ……それに、空いたポストに収まるだけの野心と能力もある様だ。切るには惜しい人材でしょう」

最近“中佐”になったという彼の記録を見ていた者は少なかったようだ。実績あっての進級だとも理解したらしく、流れが変わっていく感触を得る。

「扱い方次第かと存じます。わっしにお任せ下さい」

そうして『大将の監視下に置くならば』と異動の許可が下り、黄猿は彼を手元に置くことに成功したのであった。いつもならばこういった話には口を挟まない黄猿の彼らしからぬ行動に青雉などから不思議そうな視線を向けられたが、そんなのは瑣末な事だ。

言うなれば一目惚れだった。
ただの外見の話ではない。目のコントラストに惹かれた。昼と夜が一場面に共存しているような不可解さに興味を掻き立てられたのだ――。



「お茶を淹れてくれるかい」
「お断りします」

ルクスがやって来て初めてした命令はにべもなく断られてしまった。「糞ハゲ」と叫んでいたとは思えない澄んだ声に、暴力を想像できない折り目正しい挨拶、今だって柔らかな表情を向けられているのだが、目の中にじわりじわりと暗い靄が掛かっていく幻覚を見て背筋がぶるりと震える。見たいものが見られた、歓喜の震えだった。

「俺の仕事は大将の業務を補佐することであり、身辺のお世話をすることではありません」
「……ん〜〜……?どう違うんだいィ?」
「スケジュール管理は致しますがお茶汲みは致しません」

後々知ることになるのだが、彼はその容貌と細づくりな見た目から揶揄される事が多く、雑用を押し付けられる事も多かったらしい。今回はそうならないよう最初が肝心だとでも考えたのだろう。『舐められて堪るか』という反骨心が前面に押し出されていた。
その情報がなくとも、女のような顔がコンプレックスなのだろうということは簡単に察せられたわけだが。

「……困ったねェ〜〜……」
「では、何かあればお呼びください」

礼をして退室していく青年は、黄猿がお茶の用意をしてもらえなくて困っていると思ったのだろうが実の所そうではない。ルクスの気位の高いつんとした様子に、年甲斐もなく胸を高鳴らせつい笑みが零れてしまったので、どうしたものかと頭を悩ませていたのだ。
黄猿は底意地が悪い。きれいに作られた仮面の下に薄暗いものを隠し気を張り詰めている――そんな歪な人間の外面を崩す想像をして、心を弾ませてしまうくらいには。


  
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