病室と渇慾1



ほのかに甘い匂いがした。


「──────…………」

ゆっくりと、薄目をあけていく。視界の端に、日の光を受けたカーテンがゆらめいていた。見慣れない白の天井。薬品と洗剤の香り。病室らしいことは窺える。うごくことが億劫だったルッチは、しばし頭のみを働かせ、気絶するに至った経緯を思い出していた。そうして蘇る、敗北の記憶。

意識を失ってベッドにまで担ぎ込まれたのは────『あの男』に、のされて以来のことだった。


「クルッポー……!?」

ようやくルッチが体を起こしたとき、聞き馴染みのある鳴き声が聞こえてきた。窓辺に留まるハットリが、翼をはばたかせて歓喜している。そのうしろに広がる景色は、エニエス・ロビーではなかった。当然ウォーターセブンでもない。ルッチは思い通りにならない体を見下ろし、そこかしこにある治療の痕跡を確認した。

「お前だけか、ハットリ」
「ポッポー!」

返事をしたハットリは、なにやら薬瓶のならぶ棚へ飛び移る。そこに置かれてあった丸められた紙を銜えると、ベッドにまで運んできてルッチを見つめた。ルッチが指をひろげれば、そっと放られる紙。手のひらにも満たないサイズだった。書き置きかなにかかと思ったが、紙面に触れ──すぐさま理解する。小さな穴の並んだ手触り。ああ、そういえば。『あの男』はいつも砂糖を持ち歩いていた。

目覚める前に感じた、甘い匂いが喚び起こされる。





『手解きをしてやろうか。おれならお前をヒト≠ノできる。いや、おれにしかできない』


ハッタリだった。

『男』のどこにコミュニケーションに於ける問題点があるのかは分かっても、ルッチは彼の言うヒト≠ニして欠けた部分──そのピースの答えまでは持ち合わせていなかった。そも盲目男ことスペッキオの哲学ごっこに真剣に向き合うつもりなど、はじめからなかったのである。
それでもふり≠したのは、ルッチが答えを持っていると思い込ませることができれば、スペッキオはルッチの言動に注意を向ける。無視せずにはいられなくなる。スペッキオの頭の中にある数少ない椅子に、ルッチが居座りつづけることになる────。
ルッチは確信していた。ルッチにとってスペッキオが特殊な位置づけにある様に、ルッチもまた、スペッキオにとって特異な存在であることを。あと必要な工程は、スペッキオ自身がそれを自覚≠キること。

手紙を送りつづけた理由はそこにある。とはいえ、始めたきっかけは、任務の一環からだった。







────潜入調査を始めて一年が経過した頃。調査は長丁場になるかもしれないという予測を、4人共が立て始めていた。
アイスバーグは強かな男だった。ガレーラカンパニーが一つの組織としてまとまりだした頃には、最も近づきたくないはずの世界政府へ自ら仕事の交渉をしにいく様にさえなっていた。一癖も二癖もある職人達からの信頼を集め、尊敬され、人の上に立つだけの高い見識と優れた人格も兼ね備えている。その人望はガレーラカンパニーだけに留まらず、ウォーターセブンの市長選に推薦されるまでとなっていた。
単に情が深いだけの人物であったなら、ルッチ達もそこまで手こずることはなかったにちがいない。アイスバーグは、慎重で用心深くもあった。嘘やごまかしに感づく厄介な人種なのだ。


『ポッポー、アイスバーグさん……手紙の書き方を教えていただけませんか?他の奴等じゃ頼りにならない』

名簿や戸籍も調べた上で、アイスバーグの監視を行っていた。周辺人物で要監視の対象となっているのは現在、シフト駅駅長のココロのみ。ほかに親類縁者や友人、恋人、それに準じた極めて親しい人間の存在は確認されていなかった。だが上手く隠し通している可能性も否定できない。そして隠されているとするなら、恋人だろう。いれば目的物・古代兵器プルトンの設計図に近づく有力な手段となり得る────。
ルッチは探りを入れてみる為、恋の相手へ手紙を送ろうとしている相談者を装った。アドバイスを乞うふりをすれば、多少プライベートな質問をしたところで不自然にはならないからだ。

「手紙?ンマー、誰に書くんだ?」
『────……』

このときルッチは、送り先の人物像を具体的には設定していなかった。履歴同様、架空のつもりで臨んでいた。しかしアイスバーグに問われたとき、困ったことに『ある人物』が脳裏に浮かび、そのままこびりついて離れなくなる。用意してあった答えは喉の手前で押し止められた。
アイスバーグの洞察力も懸念事項だった。果たして全てがまやかしでも通用するのかと。それで、とっさに────真実≠織り混ぜることを、選んでいた。

『これまで真面目に生きてきた中で、初めて────……消し去ろうとしても、消し去れなかった……唯一の人です』

「……!」

途中、目を瞑りながら告げれば、アイスバーグの頬がポッと赤く染まった。「お前にもそういう相手がいたんだな!」とうれしそうにルッチの背中をバシバシと叩き出すアイスバーグ。かと思えば、そそくさと本棚へ移動し、本を漁りだした。

「手紙か、手紙だな、すこし待てよ。手紙の作法……季節のご挨拶……そのまま使える文例集……いや、ちがう、もっと詩人のラブレターなんかの方が……」

その背中は思いの外ウキウキとして見えた。若干疲れた心持ちになりながらも、探りを入れてみるルッチ。

『アイスバーグさんには、恋人は?』
「おれか?いたら残業なんてもんしてねェだろ」
『あなたなら引く手あまたでしょう』
「そりゃお前もだろ?」
『……』
「ンマー……そうか。……忘れられねェ相手がいたんじゃあな」
『……アイスバーグさんになら、経験を交えたアドバイスを、いただけるんじゃないかと。本当に、いないんですか?』
「ンマー。いつかは結婚したいと思ってるが、今は仕事が恋人だな。他にやらなきゃならねェことが山程ある」
『………………』

本を数冊積んだアイスバーグは、「わりィが、そういう手紙はおれもあまり力になれん。ここら辺が参考になると思うぞ」と言って、本の山をルッチに寄越してきた。見下ろした背表紙のラインナップは、有名な著者と思われる人物の作品集や、アンソロジーと思わしき詩集など。

「ンマー。一番いいのは、たとえ不恰好だとしても、素直な気持ちをそのまま綴ることだとは思うが」
『………………』
「なァに、そんなに気負うこたァねェぞ、ルッチ」

黙って本の山を見つめていたら、なにを勘違いしたのか、アイスバーグはルッチの肩にポンと手を置き、励ましだした。

「こういうのはいざとなったら怖じ気づいちまうこともあるからな。……よし!」

一人で話を進めていった彼は、顎をなでさすったのち、なにかをひらめいた仕草をする。

「ルッチ、タイムリミットを設けるってのは、どうだ?一週間後までには渡して、おれに報告すること」
『…………』

手紙の中身まで教えろって意味じゃねェからな、と付け加えてルッチの顔を覗きこんでくるアイスバーグ。どうだもなにも……と特には言葉の浮かんでこないルッチ。ルッチとしては、ここまで世話を焼かれることになるとは予想していなかった。しかしこのエピソードによって、アイスバーグの中にある職人ロブ・ルッチという人物像に厚みが増すのであれば、それなりに意義のある芝居だと考える。

『……クルッポー。了解した』
「がんばれよ!」


────すこし考えた末に、ルッチは手紙を実際に書いてみることにした。話にリアリティを与える為だ。船大工として真面目に働いている様に、一市民としても真面目に私生活を演じようと。なんせアイスバーグの食いつきがよかった、今後も使える話題になるかもしれない。
……しかしどうにも、送り先の人物を思えば思うほどに、愛の言葉を綴る気には到底なれそうもなかった。そもそもこんな手段、ルッチにとってはまどろっこしいものでしかない。本来の性質からしても向いていないのだ。なにより容易く想像がつくのが────。

スペッキオはかならず、スパンダムに報告をする。

内容の如何にかかわらず、宿主スパンダムに判断を仰がずにはいられない筈だ。あの寄生者は、自らのことになればなる程、思考停止する。────気に食わないと思った。それではスパンダムに手紙を書く様なものだ、と。

「………………」

ふと、積まれた本の中に、見覚えのある一冊を見つけた。スパンダムの私室で見かけたものと同じタイトルの書物だ。スパンダムは、主義や思想こそくだらないが、おそらく趣味やセンスはわるくない。レコードや本の並びを見るに、存外文化に関する広い知識を持っているものと推測された。
ルッチが手に取ったのは、漢字を多く使った詩の選集。そのページをパラパラと捲りながら、ふと思い立つ。どうせならスパンダムが狼狽える文でも送ってやろうかと。直接的ではおもしろくない。深読みした者だけが、思わず二度と読ませるな≠ニ吐き捨てたくなる様な────。

そんな思惑のもと、一通目は送られた。



水都の夜雨 秋江に漲る

何か当に共に 西窓対酌して

却って話すべき 水都夜雨の時を



  
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