彼は、偏執 ────────君の所為だ。
盲が錐の様な声を落とす。
「君の所為でスパンダムは、僕に────関心≠持ってしまった」
「………………」
人獣化しているルッチは、普段から寄せている眉間をさらに寄せ、そこに刻まれている皺を深くした。ルッチの上に跨がり、指銃を手首を握り込まれることで阻止されているスペッキオは、全身を鉄塊で硬化させ防御の体勢になっている。だが一瞬でも気をゆるめれば隙を突いてくるであろう気迫に、向けられる純粋な殺意に、ルッチはにんまりとほくそ笑んだ。
「関心……?前から仲睦まじくやってただろ」
「何が慾しい、なんて。そんな僕の意見を伺う様なこと、今まで一度もなかった」
「お前の逆鱗はまるでわからんな」
「理解なんて必要ない、僕はイラついているんだ、ロブ・ルッチ」
そういえば以前にもこの盲は、スパンダムは他者を顧みることがない、だからいいといった様なことを言っていた。ルッチが最初に彼の私室へ侵入したときの激昂も、思い返せばなにかに関心を向けられたくなかったからの様に思う。
そのとき思い出したのは、長官室のバルコニーでスペッキオがスパンダムに語っていた言葉だった。
『君に会うまで、僕は無感動で、誰に対しても無関心だった。中身のない空っぽで、ヒトに生まれながら、なんにも生かせちゃいなかった』
なんだ、答えはすでに見えていた。スペッキオがルッチを哀れだと言い嘲笑していた答えが。人を映し出す鏡の裏、バラバラに見えていた行動と思想が、中心にある背骨の輪郭を浮き上がらせていく。ルッチはアイマスクの向こう、絶望を宿しているのであろう眸を見据えた。
「何もない=c…か」
呟いた途端、怒気がぴたりと止んだ。魔法が解けた古の番人の様に、硬化がすっと引いていく。
「………………………………はあ」
スペッキオの脣から盛大な溜息がもれ落ちた。体を引かせたスペッキオは、ルッチの上からしりぞくとベッドからも降りていく。手を叩いて家具の位置を把握すると、一人掛けの椅子を引いてどかりと座った。肘掛けに肘をおいて、胸の上に手を組んで。丸テーブルに脚をのせるとそれも組み、偉そうにふんぞり返った。
否、うなだれた頭の所為で、疲れ果てて椅子に沈んだアウトローの様になっている。
「君にはわからないだろうね。食べるもの一つ決めるにしても、苦痛が伴う人生なんて」
ルッチは人獣から元の姿に戻り、粗暴な振る舞いをするスペッキオを見つめた。
「僕には、僕自身の慾がない。オリジナルと呼べるものが何もない。すべて誰かの便乗、真似事。最低限、人の中に紛れて生きていく術を心得ているだけ。…………いや、なかった≠だ。スパンダムに会うまでは。慾を持ちたいという慾≠持つ様になった。僕はスパンダムの傍にいるからこそ、ヒトらしく生きていると感じ続けられる」
強い野望に乗っかることで自らも生き生きとしていける様な錯覚。
「君の言っていた通りだ。僕は恐らく、誰かに寄生≠オながら生きていきたいんだよ」
だから宿主に気づかれてはならない。なにも返すものがない奴だということに。すぐに飽きられて、振り払われてしまうから。
「つまらない生き物だと気づかれることが、僕には堪らなく恐ろしい」
「……あの男に拘る奴が、慾がないと言うのか」
きょとん、という様に。スペッキオが口を一文字にしてルッチに顔を向けた。
「……一つ、勘違いしないでほしいんだけど。慾がないって無感情ってわけじゃあないんだ。食べる物にも人間にも好き嫌いはあるし、動物をかわいいなァと思う気持ちもあれば、たくさんの鍵の開閉をいちいち面倒だなと思う気持ちもある」
「思っていたのか、面倒だと」
「当然だろう?あの数なんだから」
なにバカなこと言ってるんだと見下す様な声遣いに、ルッチがカチン、ときたと気づいているのかいないのか。顔を逸らし、あさってを向くスペッキオ。
「感情よりも前……。もっと、根本的なところに関わってくるんだよね。慾って」
きょうのスペッキオはやけに饒舌だった。話しぶりがだんだんと独り言に近い調子になっていく。
「慾がないってさ────『長続きしない』ってことなんだよ。慾とはつまるところ『目的』。目的がないということはがんばれない=v
たとえば────────
「生きることすら」
スペッキオはなんてことのない様に言ったが、それは重大な欠陥だと言えた。そもそも最初から“持ち合わせていなかった”という口振り。動物は自らをころさない。人間だけがそれをする。だがそこにすら挫折や境遇などといった動機くらいはあるものだ。理由も持たず、ただわきおこらないというのは、生き物として欠陥だ。
「だったら今、どうしてお前は生きていられる?」
「笑えるから」
即答だった。
「あとは、……うまく言えないけど……」
────スペッキオの脳裡には、『しぬならおれの為にしね!』と、すごい剣幕でスパンダムに怒鳴られたときのことが思い出されていた。
先程まで蝋石の様だったスペッキオの口元が、にわかに解けてほころびだす。
「わずかなもの────……。ほんの、わずかなものなんだよ」
「………………」
ルッチには勿論、スペッキオの浮かべている映像などわからなかった。しかし、スパンダムが関係しているであろうことは理解できた。この男がルッチにとって“気持ちのわるい”空気を醸すのは、スパンダムに関連したときしかないのだ。残念なことに。腹の立つことに。
だが一つ、わかって良かったこともある。
『君に出逢って……ヒト≠ノ近づけたんだ』
スペッキオがスパンダムに放っていたそのセリフを、愛の告白に似ていると思っていた。人間らしい感情がわくようになったのは、スパンダムへの特別な想いが芽生えたお陰──そう、告げているのかと。だがどうやらそれは見当違いだったらしい。元々感情への自覚はあったらしく、スパンダムに振り向かれることも望んでいない。
ヒトになりたい=B
慾を持つことと同義であるらしいそれが、スペッキオの追い求めているものであるらしかった。とはいえそもそも、慾がなければ人間とは言えないのだろうか?所詮は欠陥のある男が考えた穴ぼこだらけの哲学に過ぎない。真剣に考えるだけ、無駄なのかもしれないが。
ただ────。それが彼の最大の関心事だと言うならば、“利用”しない手はないと思ったのも、また確かだった。
「お前の言うヒトらしさ≠ニいうのは、具体的にどういったことなんだ?」
慾であればなんでもいいというわけではないことを、否定されてしまったルッチは知っている。
スペッキオは首を斜めへ傾けて、考える仕草をした。そこに、ルッチの質問にすぐさまおどけようとしてくるいつもの様子はない。きょうは真に素直だといえた。“聞いてくれ”と言っている様にさえ見える。
「そうだなァ……。文明の中で、多くの人と関わり合いながら生きていくこと。それが僕から見たヒトらしさだ。政治システムをもつ社会に関わるものは特に素晴らしいと思う、動物らしさから最も遠くにあるものだ。お金だとか、権力だとか、そういったのを求める人には憧れすら抱く。ヒトとして、ヒトらしく、ヒトの中で生きようとする意慾があるわけだからね」
話が途切れ、長い沈黙が降りた。ルッチはなにも返さなかったし、スペッキオもそれ以上言葉を重ねようとはしなかった。しん、と音が鳴る。ルッチはおもむろに背中を丸めて項垂れる。
「……クク、…………アッハッハッハッハッハ!!」
小刻みに震えだしたルッチの肩。かと思えば、彼は天井を見上げながら大口をあけて笑いだした。額に手をやって、至極愉快そうに、盛大に大声をあげて笑っている。
スペッキオは突然起こった現象を静かに見守った。ありていに言えば引いている。腹の底から笑う殺戮兵器などというものには初めて遭遇したし、おかしみを通り越して、もはや不気味でしかなかった。一頻り笑ったルッチは、平常を取り戻すと、よく呑み込めていないスペッキオの顔を眺め、さもおかしそうにニヤリとする。
「お前はヒトになりたい≠だよな?だったら無理だ。いつまで経ってもヒト未満≠フままだ」
スペッキオには聞き流せないワードだった。発言者を思えば尚さらだ。お前にだけは人間を論じられたくないと思う男、冷酷な殺戮兵器、ロブ・ルッチであるのだから。
「言っていたな。ヒトに近づけた≠ニ。それで?なれはしたのか?」
「……」
「長らく進展もないんだろ。──なぜか?答えは簡単だ。お前は、人間の表層しか見ていない」
スペッキオは微動だにせず聴いていた。ベッドから下りたルッチは、スペッキオの元へ一歩ずつ近づいていく。その足音を耳に入れながら、スペッキオは口端をあげた。
「僕は鏡。見る者の本質を反映する=Bそう言ったのは君じゃないか」
「たしかに真似はできる。が、理解し、共感しているわけではない。お前のそれは電伝虫の生態となんら変わりがない」
「…………」
スペッキオのすぐ隣まで来て、歩みが止まる。ルッチは椅子の背凭れに手を置いて、スペッキオに影をかぶせた。
「富、地位、権力……そんなもの目的になどならん。『手段』でしかない。その先にあるほんとうの慾求を、なにもわかっていない。なぜベッドを使わないことでスパンダムが激怒したのか……答えは出てないんだろ?」
「………………」
スペッキオは反論することができなかった。その通りだったからだ。言い当てられた箇所は、なんらかのピースが欠けていると感じさせられる場面そのものだった。
「おれの見解を述べてやろうか」
熊の前でハチミツを垂らして見せる様に、ルッチは勿体つけた言い様をする。
「お前は──────ただ、『怠惰』なだけだ」
「…………怠惰…………?」
ルッチの言葉に、スペッキオは腑に落ちないと言いたげに口を曲げ、首をかしげた。そうだと首肯き、ルッチは滔々と続ける。
「食べる物を決めるのも“面倒”、生きることすら“面倒くさくて”仕方がない。そしてあらゆる対立≠避けて生きている──。その術として、鏡という方法を、無意識にせよ選び取った。敵をつくることは膨大なエネルギーを必要とするからな」
「…………」
「通常人間は、自分とどこか似ていると感じた相手に親近感がわき、好感をいだく。仕草や話し方、価値観を真似ることで信頼を築いて、話を有利に進め、情報をひき出す……かつてグアンハオで学んだ基本だ」
訓練を早い時期に離脱してしまったスペッキオは学んでいないことだったが、スペッキオの性質がルッチの言う通りならば、たしかに無意識に選び取ったと言えるのだろう。
「手解きをしてやろうか」
ルッチの不遜な発言に、スペッキオはますます不快感を募らせるばかりであった。
「おれならお前を、ヒト≠ノできる。いや、おれにしかできない」
「……僕は君のことを、ヒトらしさを母親の胎にすべて置いてきた生き物だと思っている。学ぶことなどなにもないよ」
「ほんとうにそうか?」
「……逐一ひっかかる言い方をするね?」
「なんだ、気づいてないのか」
スペッキオは彼を『嫌い』だと思う。フ、と小馬鹿にした様な笑い方だとか。ふてぶてしく自信に満ちあふれた傲慢な態度だとか。
「お前はおれに対して……────鏡になっていない」
──────かつてロブ・ルッチを、富にも、地位にも、権力にも興味を抱かず、ヒトとしての決定的な何かが欠落した、己に近い生きものであると感じていたのに。いまや愉しそうに生き、人の中へ融け込むことに労苦はなく、そしてヒト≠フなんたるかについて一歩先を理解していそうな彼に、歯痒さをおぼえてならない。
するりと輪郭を撫でてきたルッチの手を、スペッキオは虫を相手にする様にパシッと払いのけた。
「……どうかな?ほんとうは君は僕を嫌悪していて、それが映し出されているだけかも」
「いいや。もう屁理屈は聞き飽きた」
払ったスペッキオの手をがしっと掴み、それをスペッキオの体へぐっと押しつける様にして上半身を折り曲げるルッチ。ガタリとテーブルが揺れ、スペッキオの片足が落ちた。不安定な姿勢になって、しかし目前にいるルッチの力に邪魔されているスペッキオは起き上がることも儘ならない。ほのかな緊張が走る中、ルッチは一切の曖昧さを残さない響きで、まるで天からの言葉を刷り込む様に、自信に満ちた響きを発した。
「おれに、すべてを委ねてみろ。思考も、体も、すべてだ。なにも考えるな。言うことにただ従えばいい。そうすればお前はほんとうの幸福を手に入れる。お前は、誰かに支配されることを、望んでいる」
「…………────」
スペッキオは唐突に理解した。
『その心臓。おれに捧げろ』
あの言葉の意味を。
目に見えないパーツ、確かな形などないモノまでまるごと、すべてが慾しいのだ、この男は。
スペッキオを空虚だと言い、つまらない生きものだと知って尚──────。
ルッチはさらに身を屈め、うごかないスペッキオの顔に、影を重ねていく。
「…………………………君、ハレンチの流れに持っていこうとしてないかい?」
ルッチの口が、手のひらで覆われていた。スペッキオの手だ。阻止されたのだ、接吻を。さらに言うならば、その先の思惑も。
「…………チッ」
「油断も隙もないなァ」
スペッキオがルッチの顎をぐいいと押し上げることで、ようやくルッチは顔を背け、離れていった。タイルに両足をつき、居住まいを正したスペッキオは、しかしそこで意外な一言を発する。
「────それだけ?」
肘掛けに肘をおき直し、腹の上に手を組んで。長い脚を組んだスペッキオは、ルッチの傍から去ろうとはしない。
「君のいう手解きは、それだけ?」
「……………………」
ルッチは意図を測りかねながら視線を下ろした。以前スペッキオは、その唇を蹂躙されたとき、ひたすら拒絶の気を漂わせていた。未遂におわったからといって、今回は意に介すこともないなんて結論には至らないだろう。
不思議な点といえば、殺気が消えたときからすでに始まっていた。きょうに限ってよく喋り、質問に答え、次から次へと自らの考えを述べる。干渉されることを厭うはずの男が、だ。
まるで暴かれたい≠ニ言っている様にも窺えた。だとしたなら────ルッチは初めて、この男にも可愛げがあるんだなと思うことができた。
「楽しみにしていろ」
──────誰かに愛を注ぐということを知らない二人の男。
「ヒト≠ノすると同時に、──」
欠陥と欠落を互いに哀れみ合って。
「お前には、おれが相応しいと、証明してやる」
ふしぎな変化を互いにもたらす。
干渉を好まなかった男が、他人からの働きかけに歓迎する素振りを見せたこともたしかに変化だ。
一方で、無駄を好まなかった男が、相手の価値観に付き合い、歩調を変えようとしていることもおおきな変化といえるのだが────……。
それを指摘する者は、誰もいない。
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