彼は、水鏡


スペッキオの私室は開かずの間と呼ばれる厳重に鍵のかけられた場所で、中はモップしか目につかない『がらんどう』、日常生活を想像できない無味無臭の部屋だった。窓を蹴破って侵入したルッチがハットリと共にそれを目にしたとき、ちょうど部屋の主が帰ってくる。盲目の男は、すぐに異状に気づいた様だった。


「────そこにいるのは、誰だい」

尋ねていながら、抑揚のない声にはひとの口を閉ざさせる厳しさがあった。扉の狭間に佇むスペッキオに、ハットリが怯えを見せている。パン、と手を打ったスペッキオは正確にルッチの方へ正面を向け、ルッチも又、靴先をスペッキオへと向けた。

「さっきは邪魔が入ったからな。待たせてもらった」
「──────け」
「……?」

スペッキオがなにかを呟く。



「出ていけッ!!」



物凄い剣幕だった。ゼロ発進でトップスピードに達したような気色である。ハットリが見えない威圧感に一瞬羽ばたいてしまった一方で、ルッチは瞼を下ろし、肌をぴりぴりと痺れさせる空気に、さわやかな風が体内をかけめぐっていくような心地をおぼえていた。安らぎすら感じている。吐息を洩らし、スペッキオの強張っている唇の端を見た。

「……フ。何をそんなに必死になることがある。こんな、『何もない』場所で」

思わぬ反応。向けられた激情。明らかな業腹。それらが酒でも呷った様に愉快で、もっと掻き乱せやしないかと、ルッチはハンガーラックを蹴り倒した。ガシャンと倒れた際、アクリルケースも巻き込まれ中身が乱れる。

「!?」
「どうした、長官殿と同列なくらい大切な物だったか?それとも部屋が整然としてないと不安になる病か……──見えもしねェのに」

スペッキオが剃をつかった。ルッチの背後へまわるも、肩を狙って放たれた指銃はたやすく躱され、却って仕損じたその腕をつかまれると背負い投げの要領で体をもっていかれる。スペッキオは足が浮く直前でゆかを強く蹴り、同時に体をひねった。どうにか地面へ叩きつけられる前に拘束から逃れ、ふたたび距離をあける。
スペッキオは着地と共に無言で部屋のそとへ駆け出した。何かに気づいたルッチがすぐさまその跡を追う。────スペッキオの手の中に、ハットリがいたのだ。

直角にまがって扉を抜けていくスペッキオ。同じルートをたどり室外へ飛び出したルッチは、スペッキオがどの方角へいったか動きながら捕捉しようとして────……視界の端に映ったものに、世界がスローモーションになった様な錯覚を得た。
扉のすぐ脇。壁にぴったりと背をつけて此方を見ているスペッキオ。
スペッキオはルッチの姿を確認するやいなや、ハットリを放し、ドアハンドルの輪を引っ付かんでどおんと扉を閉じた。扉に手を這わせ素早くカンヌキ錠をかけていく。その必死な背中はまるで、制限時間内に実行できなければ死が訪れるかの様だった。

カチリと最後の鍵がかけられる。肩にハットリがもどってきたルッチは、一部始終を興味深げに眺めていた。静止したスペッキオの後ろ姿は、電池の切れた様でもあり、真上に投げられたボールが最高点に達した様でもあった。項垂れていた頭が、すっと起きあがる。


「はーっ……びっくりした」


肩をだらけさせ、おおきな息を吐いて、スペッキオはルッチをふりかえった。沸騰したヤカンの火をあわてて止めたあとの様な暢気な声色。部屋をでた途端、さっきまでの凄みは嘘の様にひいていた。

「プライベートな部分というのは、誰だって見られたくないものだろ?あァ、いや。君は案外、扉を開けている人だったね」

ルッチがよく自室へ誰かを招き入れていることを知っているらしい。だからといって、いまさっきの排除っぷりが尋常でないことくらいはわかる。そもそもルッチだって誰彼かまわず招くわけではないし、扉の鍵をもっている人間だ。

「昔みたいにベッドの下にでも潜んでいようとしたのかい?そうやって暗殺を?わるいね、自分の部屋にあまり物は置かないんだ。それにしても困ったなァ、どうすれば君のその“情熱的な殺意”は──……!」

言葉が途切れ、スペッキオは自分の目元に触れる。ルッチがやれやれとでも言いたげに嘆息した。

「ようやく気づいたか」
「…………、」

ルッチの手にはスペッキオの“アイマスク”。ハットリが攫われたとき、ルッチもアイマスクを奪い取っていたのだ。あらわにされた因縁、痛々しい傷痕。

「……手癖のわるい子だ」

スペッキオは幼子のイタズラを窘める様に、微笑した。そんなスペッキオの足がじりじりと角度を変え、逃げるタイミングを計っていると察知する。あれだけ隙のある背中を襲わなかったというのに、まだ命を狙っていると思い込んでいるのだろうか、思い込んでいるのだろうなこの盲は。ムシャクシャしながら、今まさに横へ踏み出そうとしたスペッキオの、進路を────ドン、と扉に手をつくことで妨げた。

「殺さない」

反対側の手もつく。即興に設えた狭い檻。

「だから、逃げるな」
「………………」

扉のパーツが細かく揺れ、金具が硬質な音を鳴らしている。スペッキオは壁になっている扉にべったりと背中を押しつけ、口を引き結んでいた。

「……こんな体勢で言われても、ねェ?」
「逃げるつもりだろ」
「何なんだい、まったく。君はほんとうに乱暴だなァ」

不意に、ルッチの指がスペッキオの顔にある痕をなぞる。スペッキオは様子を窺いつつも好きな様にさせていた。今はもう乾いて固くなった皮膚、同じ間隔をあけ、同じ角度に刻まれている、肉の抉れた幾本もの線────。

「どうしてあのとき、本当のことを言わなかった」

事故≠ニして処理された一件、その疑念をぶつける。──スペッキオは「その前に」と口をひらき、胸の前でうでを組んだ。視力はなくとも目と鼻の先にあることがわかる顔に、真っ向から向かい合う。

「なんだか、距離が近すぎやしないかい?君は距離感ヘタクソか?」
「答えろ」
「ははあ、どうやら主導権を握らせたくないらしい。負けず嫌いか青二才」
「……安い挑発はやめろ」
「僕への敗北感を拭えないまま生き続けるなんてとても可哀想だと心底同情するよ。身体を細切れにすれば気が済む、そんな単純さがあれば楽だったのに君のプライドが良しとしないんだね、生きづらそう……バカみたいだね?」
「………………」

目を逸らさないまましばらく沈黙を貫いていれば──。フフ、とスペッキオが悪戯っぽく笑った。

「本気で殺さないのか、すこし試したくて……。成程、ほんとうらしい。それなりにおおきな“気”を感じていた気はしたんだけどな、君から僕に向けられる波動というか……」
「………………まずは、答えろ」

はあ、と溜息を吐き出すスペッキオに、それはこっちの気分だと毒づきたくなるルッチ。

「不思議なことを訊くんだね。事故≠セと報告したのは、君が先だろ?」
「目の前の任務の為だ、お前が起きればすぐにわかることだと理解していた。……なぜ、訂正しなかった」

────長年抱いてきた感情が復讐心とは異なると気付き、まもなくスペッキオがエニエス・ロビーに現れたとき。次に顔を合わせた際には直接言ってやりたいことが山程ある──筈だった。その前に、事故≠フまま片付けられた件の真意を訊いてからでなければならないと感じた。感じていながら、スペッキオに近づくことすらできずにいた。柄にもなく臆していたのかもしれない。恐ろしかった────。

スペッキオがルッチに、なんの感情も抱いていない≠ニ判明することが。

恐怖、怒り、恨み、憎しみ。負の感情でも構いはしない、傷と共に記憶に刻まれるならなんだって、気配を感じれば感情が揺さぶられずにはいられない、そんな存在になっているなら──。受け入れ難い可能性を忌避し、確かめることを先延ばしにしていた。
たとえば、最悪なのは、こんな答え。

「そりゃあ、僕にとってはどうでもいい事だったから≠ネァ」
「────…………」

考えていたひとつが現実の声となって耳に届く。悪意の欠片もないからこそ重量の増す鈍器。

「あの時点で生きているなら、もう君から命を狙われることはないだろうという確信があってね。……“あった”、が正しいか」

やはり何も感じてなどいなかった。スペッキオにとってルッチは外野に生きるその他大勢の一人に過ぎない。
“すこし前”のルッチであれば、この答えには多かれ少なかれ衝撃を受け、その情動の分だけ攻撃へと転化していた筈。だが、今なら平静でいられる。それはスペッキオに或る仮説を立て、観察し、だんだんと彼の特殊な『性質』に気づきはじめたから。


「お前は『鏡』だ」


突然の言葉に、スペッキオは茫然としてルッチを見つめ返す。まさに、ぽかんという反応だった。

「……どうした?急に……」

小首を傾げる姿は、むずかる子供をあやす様ですらある。だがもはやどう扱われようと構わないルッチは、無視してつづけた。

「お前は見る者の本質を反映する。凶暴な者には凶暴さを、愚かな者には愚かさを返す。恐らく、ほとんど無意識にな……そうして融け込む=B人の中に」

スペッキオの唇が薄くひらいたままうごかなくなる。

「すべての者に真摯で誠実、それゆえに空虚だ。どこにも、お前という実像はない。────誰のこともどうだっていい=Bそうだろ?」

息を止めたのかと思うほど、スペッキオは静かになっていた。予感がする。なにかが崩れる予感だ。たしかな手応えともいえる、触れてほしくないところへ触れていく、重い抵抗のある感触────────。








「鏡を壊したとき、どんなお前≠ェ見える?」








「…………面白いことを言うなァ」

至極真剣に突飛な見解を述べたルッチに、スペッキオは口角をあげ、微笑みらしいものを浮かべると、

「僕が鏡?……だったら君は……────池に映った、自らの姿に恋≠したんだね」

──────『笑った』。
深く、深く、頬を裂くように口端を吊りあげた歪な笑み。そこには最高の嫌悪が込められていた。ルッチは感じ取る。スペッキオの腹に蒔かれた、火種の気配を。自らの細胞が昂揚していく感覚を。


全身から拒絶の気を漂わせるスペッキオの顎をつかみあげ、その唇に──────噛みついた。


  
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