私の生活は、一通のメールによって脆くも崩れ去った。
『七海。私、今の彼氏についていくことにしたの。あんたを置いて行くことになるけど、あんたはしっかりしているから大丈夫よね?でも、彼には私しかいないの。だから、ごめんね お母さんより』
届いたのを見た瞬間は目が点になった。なんのこっちゃと思った。
私は最近では珍しくもない母子家庭で育った。母は自由奔放な人で、いわゆる恋愛体質な人だった。いつだって自分を愛してくれる人が必要で、どこに行ったってそのスタンスが変わることはなかった。でも、母は私を邪険にはしなかった。
そして、なんだかんだいろいろあったけれど、私は現在普通に高校生活を送れる程度にはまともに育っていると思っている。
そんな私が高校二年に上がった直後のことだった。
今日だって、昨日から帰って来ていない母親のことをいつものことだと片付けて学校に来ていた。最近、新しい彼氏ができたようで、その彼氏にお熱みたいだというのは経験則でわかっていたからだ。
節約のために自分でつくったお弁当を友達と食べていたときに届いた一通のメール。珍しい名前に嫌な予感がしなかったといえば嘘である。
そして、メールの内容を見て頭を抱えた私はこう思った。
またかっ!!
実は、母が失踪するのはこれが初めてではない。彼氏をつくっては、家を出て行く母を私は何度見送ったことだろう。そして、彼氏に振られるたびに戻ってくる母を何度慰めたことだろう。
今回もどうせ長くは続かないとたかをくくり、放っておこうとケータイをカバンの中にしまおうとした時だった。再びメール受信を知らせる振動。
遣る瀬無い気持ちになりながらも開いたメール画面に書かれていた文字に目を剥いた。
『実は彼、借金があってね。今の家とか家財道具とか売っちゃったから!ごめんね(*・ω・)ノ』
教室のなか人目も憚らず、はあ!?と叫んだ私は悪くないだろう。
慌てて学校だということも忘れて電話をかけたけれど繋がることもなく、私は何の冗談だと頭を抱えることになる。
『ごめんね(*・ω・)ノ』じゃねえよ!と心の底から叫びたい。すでに40を超える大人がこんな重要事項に気軽に絵文字を使うなと心底罵りたい。
「ど、どうかしたのか?」
「七海、大丈夫?」
心配そうにかけられた声に顔をあげる。
いつもつるんでいる、田代貴子、垣内由衣、桜庭桜子、そして、苦労人の稲葉夕士。
昼休みは大抵このメンツだ。理由は、一人だけ混じっている男子、稲葉にある。彼が持ってくるお弁当がそれはもうめちゃくちゃ旨いのだ。どんな料理上手がつくっているんだと詰め寄ってもアパートの賄いさんが作ってるとしか教えてくれない。そのお弁当のお相伴に預かるのが目的だった。
この稲葉夕士、見た目はちょっと強面の普通の男子高生だが、実は結構な苦労人だ。中学生の時に両親を交通事故でなくしたらしく、それから天涯孤独の身。高校入学を機に、預かってもらっていた親戚の家を出て学校付属の寮に入ろうと思ったら、寮が火災、建て直しとなり別の下宿先を見つけたという、波乱万丈な日々を送っていたやつだ。
一年生のころも同じクラスだったが、最初はとげとげしく、寄らば切るみたいな雰囲気があったのだが、今はだいぶ落ち着いていて接しやすくなっている。
と、稲葉の説明はさて置き、おそらくあの母がこんなメールを送ってくるということは、本当にそうしたのだろう。家に帰ってもすっからかんだということが予想できる。むしろ、入らせてもらえるのかすらも不明だ。どうしよう。
心配そうに私を見る面々にへらりとわらい返しながらも冷や汗が止まらない。
「おい、本当にどうしたんだ?」
「あ−−−−」
ふと閃いた。
稲葉を見ると、彼は首をかしげる。
私は彼ににっこりと笑みを浮かべた。
バイトが終わった後、家に帰って見ると家の中はもぬけのからだった。見事に。
かろうじて私のものは残っていたが、タンスなどには差し押さえの札が付いている。旅行カバンに詰め込めるだけの衣服をつめて、スクールバックに勉強に必要な道具を詰め込んで行く。とても大荷物になってしまったけれどしょうがない。
思いつく限りの必要なものを持って私は住み慣れた家を出た。
自転車にカバン類を乗せてふらふらしながら夜道を漕ぎ出す。
私は貴子から聞いた、稲葉のアパートへと向かう。彼女がなぜ稲葉が住んでいるアパートのことを知っているのかはわからないが、彼女の情報網は甘く見てはいけないのだ。
稲葉が住んでいるアパートは夜に見るとどこかおどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。彼はこんなところに住んでいるのかと感心する。とりあえず、とポケットから取り出したケータイを開き、先に登録しておいたアパートの電話番号を開く。これも、貴子に聞いたものだ。なぜ彼女がそんなものを知っているのかって?そんなの私も知らないよ。
「はいはい、ようか……寿荘です」
「あ、えっと、私条東商業高校の田中といいます。稲葉くんと同じクラスの……。稲葉くんはいらっしゃいますか?」
「はいはい。稲葉くんね。ちょっと待っててねー」
軽い口調で返された言葉に、ようやく肩から力が抜ける。このご時世に文明の利器を持っていない若者の稲葉。そのため、彼に用があるときは、アパートに電話をかけなければいけないのだ。まったく。事情が事情にしても、ケータイ電話ぐらい持ったらいいのに。
「もしもし。田中?こんな時間にどうしたんだ?」
「あ、稲葉?悪いんだけどさ、今ちょっと出て来てほしいんだ。アパートの前にいるから」
「はあ!?」
すぐにガチャリと切られた電話。
しばらくすると、勢い良くアパートの扉から稲葉が出て来た。寝巻きなのかスウェット姿の稲葉は私を見て驚いたように目を丸める。
「田中!?こんな時間にどうしたんだよ!つうか、その荷物何だ!?」
「稲葉!一生のお願い!しばらく稲葉の部屋に住まわせて!!」
「はああ!?」
驚愕をあらわにする稲葉に、私は深々と頭を下げた。
「ちょっとまて!どういうことだよ!?なんで俺のところ!?つうか、家出か??」
「実は……親が、失踪して」
「失踪!?」
「家も、売り払ったらしくて住む場所がないの。だからお願い!」
「夕士くん。中で話したらどうだい?のっぴきならない事情があるみたいだし」
「一色さん……」
玄関からひょっこり顔を出したのは小柄で、落書きのような顔をしている人だった。浴衣姿に髪は後ろで結んでいる姿は何の違和感も感じさせないぐらいこの人によく馴染んでいた。
彼の促しにより私は部屋の中へ入れてもらえた。通されたのは畳の部屋で中央に大きな机が置いてあった。奥のガラス戸は開かれており、縁側を通して庭が見える。
稲葉が私の向かいに腰を下ろした。荷物は隅に置かせてもらい、私も座布団に腰を下ろす。稲葉に一色さんと呼ばれた彼は、お盆にお茶を乗せて持って来てくれた。
「あ、すみません。お構いなく」
「いいえ。アタシも聞いてもいいかい?」
「あ、はい」
おそらくこのアパートの人なのだろう。変わった人が住んでいるんだなと思った。
「それで?どういうことだよ」
「うん。実は、昼休みにメールが来たんだけど」
母から届いたメールを取り出し見せると、稲葉は顔をしかめ、一色さんはあらまあと声を漏らした。
「稲葉には話してなかったかもしれないけど、私の家っていわゆる母子家庭ってやつなの。父親のことは知らない。たぶん、どっかのバカな男との間にできたんだと思う。うちの母親って、すっごい自由奔放で恋愛体質だから、彼氏が途切れたことないの。まあ、だからよく男を作っては、その男にそそのかされて出て行ったりしてたんだよね。だから失踪自体は珍しいことじゃないの」
「珍しいことじゃないって……」
絶句する稲葉に苦笑する。まあそうだよねえ。普通ではないことだけは確かだ。
「本当に。失踪自体は珍しいことじゃないんだよ。問題はこっち」
次のメールを見せると、稲葉ははあ!?と驚愕をあらわにする。それにやはり苦笑を漏らす。
「と、いうことで、家なき子になってしまったので、しばらく泊めてください」
今度は正座をしたまま深々と頭をさげると、頭上の稲葉はあわあわとしていた。
「つ、つうか、なんで俺なんだよ!田代とか、普通女友達の所にいくだろ!?」
「これが、1日2日のことなら、私もそうするよ。でも、いつ帰ってくるかわからないし、いつまで泊まらせてもらえばいいかもわからないんだもん。そんなの頼るわけにはいかないじゃん?」
「俺はいいのかよ!」
「稲葉はまあ一人暮らしみたいなもんだし、あ、もちろん家賃とかその他諸々は折半させてもらうつもりだよ。あとは、寝る場所は私は隣でも構わないけど、稲葉が嫌だっていうなら、隅の方とかでいいの。だから、お願いします!」
「それだったら、ここに普通に入居したらいいんじゃない?」
「でも、私、保証人も誰もいないんです。だから、自分でアパートを借りることもできなくて……。最初は漫喫にでも行こうかとも考えたんですけど、未成年は夜は泊まれないし、童顔なのでどうしても身分証は求められるし……」
「なるほどねえ。ご親戚もいないのかい?」
「母はこんな感じなので、親戚からも勘当されてるらしくて、会ったこともないんです」
肩をすくめる。
母の自由奔放さには親族でさえ匙をなげるほどだったということだ。私だって投げられるなら投げ出したいところだが、それができないのが未成年の辛いところだ。
「うーん、そうだ!それならアタシが聞いて来てあげるよ」
「え!?」
「大家さんならいいって言ってくれるかもしれないしネ」
「ちょ、一色さん!本気っすか!」
「夕士くん。これも何かの縁だよ」
「縁って……」
ニコニコわらって出て言った一色さんを見送る。
「いい人だねえ。一色さんって」
「つうか、お前はなんでそんなに冷静なんだよ。普通もっと取り乱すもんじゃねえの?」
「取り乱して現状が打開されるならいくらでも取り乱すんだけどねえ」
苦笑を浮かべることにも、笑って流すことにも慣れてしまった。家族のことを友達に聞かれても当たり障りのないことを伝えられるぐらいになった。
「本当に、あの人がいなくなるのはもう小さい時から何度か経験してるんだよ。だから家事だって一通りできるし、一人暮らしも平気だしね。ただ、さすがに家が無くなったらこんなにも立ちいかなくなるとは思ってもなかったけど」
「……これから、どうしていくんだ?」
「学校は奨学金とかでどうにかなるかな。自己破産だし。借金は、私は関わる必要はないから、取り立てに来ることはないだろうし。さすがに高校中退したんじゃどこの企業も今時雇ってくれないしねえ」
稲葉はどこか苦しげに顔をうつむかせた。
「稲葉?」
「もっと、怒ったりしないのかよ……」
稲葉も声は少しだけ震えていた。どうやら怒りを覚えているらしい。それも私のために。やっぱり彼は優しい人だ。その優しさに漬け込むようにしてここに来てしまったけれど、こんな風に気に病ませてしまうのなら失敗だったかもしれない。
「怒る……っていうことはないかな。同じ日本語を話してるのに、言語が違う人っていうのが世の中にはいてね。それがうちのお母さんなんだけど、なんていうか、そういう人に何を言っても無駄なんだよね。あの人は風船みたいな人だから。私が捕まえておくことはできないの。ふわふわと風に揺られて飛んで言っちゃう」
「だからってっ!子供を置いていくなんて、母親失格だろ!」
「はははっ!私もそう思う。でも残念なことに、それが私の母親なんだよねえ」
「っ」
ちょうどその時、一色さんが戻って来た。
「七海ちゃん。大家さんが住んでも大丈夫だってさ」
「え!いいんですか!?」
「まあ、ここはちょっと特殊だからねえ」
一色さんはそういって笑った。それからはあれよあれよというまに、私の部屋は用意された。その部屋が稲葉の隣の部屋だというのには少し笑った。
「今日からよろしくお願いいたします!」
稲葉と一色さんに頭を下げ、新しい家に憂鬱だった気持ちが少しだけ浮上した瞬間だった。