教室に入ると、ほとんどの生徒が着席していた。しかし、「闇の魔術に対する防衛術」の先生であるリーマスの姿はまだなかった。
ハリーたちと適当な席に座り談笑していると、少ししてやっとリーマスが教室に入ってきた。彼愛用のくたびれた古い鞄を教卓に置くと、笑みを浮かべたまま生徒を見回した。そして、俺と目が合うと、少しだけ目元をさらにゆるめてくれたような気がした。
「やあ、みんな。教科書はカバンに戻してもらおうかな。今日は実地練習をすることにしよう。杖だけあればいいよ」
全生徒が教科書をしまう中、何人かは怪訝そうに顔を見合わせていた。それも当たり前だろう。この授業で実地練習などしたことがない。何よりもこの授業が一番、実地練習が必要だと思うのだが、驚くことにこの二年間まともに杖を振ったことなどなかったのだ。
皆の準備が整うと、リーマスはついてくるように声をかけた。
教室を出て、廊下を通り、角を曲がった。
その途端、目に入ったのはポルターガイストのピーブズだった。空中でさかさまになって手近な鍵穴にチューインガムを詰め込んでいた。ピーブズはリーマスが近づいて初めて目をあげた。そして、くるりと丸まったつま先をごにょごにょ動かし、急に歌い出した。
それはリーマスをバカにする歌だった。その歌を聞いた瞬間、生徒はぎょっとしてリーマスを一斉に見た。ピーブズはどうしようもない無礼な奴だが、先生には一目を置いていたためだろう。大概、先生には逆らわないのがピーブズだった。それが、リーマス相手にはこういう反応だ。
思わず呆れて深いため息をつく。
リーマスは俺の方を見てウインクを一つすると杖を取り出した。
「この簡単な呪文は役に立つよ」
肩越しにリーマスは俺たちを振り返ったこういった。
「よく見ておきなさい」
リーマスが杖の肩の高さに構え、「ワディワジ」と唱え、杖をピーブズに向けた。すると、チューインガムの塊が弾丸のように勢いよく飛び出し、ピーブズの左の鼻の穴にみごとに命中したのだ。ピーブズはもんどりうって、さかさま状態から反転し、悪態をつきながらズームアウトして消えて行った。
俺は思わず吹き出し、腹を抱えて笑った。ディーン・トーマスがリーマスをかっこいいと誉める。
そのころには全員がリーマスを尊敬のまなざしでみつめていた。今までの先生とは全然違うことがわかったからだろう。
移動を再開し、俺たちがやってきたのは職員室だった。リーマスがドアを開け、生徒を中へいれる。
職員室は板壁の奥の深い部屋で、ちぐはぐな古い椅子がたくさん置いてあった。がらんとした部屋にたった一人、セブルスが低い肘掛椅子に座っていたが、クラス全員が列をなして入って来るのをぐるりと見渡すと立ち上がった。
「ルーピン開けておいてくれ。我輩、できればみたくないのでね」
黒いマントをひるがえして大股で生徒のわきを通り過ぎていく。そのまま出ていくのかと思われたが、セブルスはドアの手前でくるりと振り返り、午前中にあった魔法薬学の鬱憤を晴らそうとするかのように嫌味を言った。
「ルーピン。たぶん誰も君に忠告していないと思うが、このクラスにはネビル・ロングボトムがいる。この子には難しい課題を与えないようにご忠告申し上げておこう。ミス・グレンジャーが耳元でひそひそ指図を与えるなら別だがね」
先ほどの授業でネビルの縮み薬をハーマイオニーが見事に修正して見せたからだろう。別に教えあうことが悪いわけではないと思うのだが、ネビルの蛙を爆発させられなかったのが悔しかったらしい。
「術の最初の段階で、ネビルに私のアシスタントを務めてもらいたいと思っていましてね。それにネビルはきっと、とてもうまくやってくれると思いますよ」
リーマスが丁寧な苦笑でセブルスに告げると、セブルスは口端をにやりと持ち上げた。おそらく失敗する未来を予想したのだろう。そのまま彼は何も言わずに出ていった。
「さあ、それじゃあ」
リーマスは俺たちを部屋の奥まで案内する。そこには先生方が着替え用のローブをいれる古い洋箪笥がぽつんと置かれていた。リーマスがその脇に立つと箪笥が急に震え、飛び上がるようにして壁から離れた。その音に驚き、何人かが飛びのいた。
「心配しなくていい。中にマネ妖怪ボガードが入っているんだ」
俺はそれを聞いて苦笑した。なるほど、確かにこれはいい実地練習になるだろう。
ボガードとは、己の一番怖いものに成り代わる。そうして怖がらせるという妖怪なのだが、退治する方法はいたって簡単だ。それがボガードだとわかっているのなら、己の想像ひとつでどうとでも退散させられる。必要なのは恐怖を笑いに返還させることだけだ。
「よーし、ネビル。一つずつ行こうか。君が世界一怖いものはなんだい?」
ネビルはがちがちに緊張しているようで洋箪笥と同じようにガタガタ震えている。
リーマスに促され、ようやく口を開いたネビルが言ったのはセブルスだった。確かにあれだけイビられていれば恐怖の対象にもなるだろう。
そのあとは、ネビルのおばあさんの服装を尋ねた。
どうやら、リーマスはセブルスをネビルのおばあさんの恰好にさせる気らしい。これは面白いものが見れそうだと、にやりと口角をあげる。
そして、とうとうネビルが洋箪笥の前に立った。
そして合図とともに洋箪笥が勢いよく開かれた。その中から鉤鼻の、実物よりは二割ほど恐ろしさが増したセブルスが現れた。あれはキレているときの顔だな。ネビルのデフォルトがかかっているからだろうが、顔色も幾分か青白い。
「り、り、リディクラス!」
ネビルが上ずった声で呪文を唱えた。
パチンと鞭を鳴らすような音がして、セブルスが躓いた。その姿すら普段なら絶対に見られないだろうが、次の瞬間には、セブルスの黒いローブは消え、レースで縁取りしたモスグリーンのドレスを着て、見上げるように高い帽子のてっぺんに虫食いがある禿鷹をつけ、手には巨大な真紅のハンドバックをゆらゆらぶら下げている。
どっと笑い声があがった。
ボガードは途方にくれたように立ち止まった。
そいて、リーマスが大声で次の生徒を呼ぶ。いつの間にか、蓄音機にてBGMが鳴らされている。
生徒が出るたびにボガードは姿を変え、呪文を唱えられては様々なギャグのような姿に変えて生徒たちを笑わせた。
「いいぞ!祐希!次だ!」
リーマスが俺を呼んだ。俺が前に出ると、ボガードは前の生徒が呪文を唱えたときの恰好のまま数秒立ち止まった。探るようにこちらを見られる。止まったボガードに教室内が静まり返る。
しかし次の瞬間には形態を変え、俺の前には二人の人物が立ちはだかった。その二人は俺の知らない人だった。男性は中肉中背の男だが、目元は切れ長で整った顔立ちをしている。女性は男の肩ほどの身長で、やわらかそうなウェーブを描く黒髪が垂れ下がり、微笑みを俺に向けている。二人は肩を抱き合い俺に向かってきた。
男の目は俺に似ている。口元や鼻は女のほうだった。
「……え、祐希の親かな?」
誰かのつぶやきが聞こえた。
彼らが俺に向かって両手を差し延ばしてくる。少しずつ距離を詰め、柔和な笑みを浮かべたまま俺をその腕に抱きしめようとするかのように。
俺は一度大きく息を吐きだした。
そいて、杖を構える。
「リディクラス」
彼らは日本のマジシャンに姿を変え見事なマジックを披露した。
俺はすぐに後ろへと下がり次の生徒に場所を明け渡す。リーマスの目が俺を追いかけていたが、それに大丈夫だと手を振りかえして一番後ろまで下がった。
そのあと、ハリーの番になってリーマスが飛び込み、月夜が映し出されるとパチンとはじけ、それをネビルの前にやると、ネビルが最後のとどめをさした。
「よくやった!」
全員が拍手をする中、リーマスが大声を出した。
「ネビル、よくできた。みんなよくやった。そうだな、ボガードと対決したグリフィンドール生一人につき5点やろう。ネビルは十点だ二回やったからね。ハーマイオニーとハリーも五点ずつだ」
最後に課題が出され、みんな興奮状態で職員室を出た。
夜になってふと思い出したようにロンが問いかけた。
「どうして祐希はあの二人が怖かったんだ?だって優しそうな人だったぜ?」
「ちょっとロン!」
ハーマイオニーが厳しい口調でロンを咎めるが、それに対して俺は大丈夫だからと苦笑した。
「あの二人、誰だと思った?」
「え?祐希の両親じゃないの?すっごい似てたよ。ね、ハリー」
「うん。僕もそう見えた。…でも、祐希って…」
「ああ。俺は孤児だからな。両親は知らない」
「それって写真も?」
ロンが恐る恐るというように問いかける。ロンにとって家族はあまりに身近な存在であるため、両親も知らないという状態を想像しにくいのだろう。
ハリーは親戚の家に預けられ、一年生の時には両親の写真ももらっているため顔は知っているはずだ。
そのこともあって、ハリーはどこか後ろめたそうにしている。
「まあな。だが、たぶん、あれが両親なのだろう。生まれたばかりのころは見ているはずだから、記憶のどこかに残っていても不思議じゃない」
「…あの、祐希…。嫌なら言わなくていいんだけど…。その、ご両親に何か、その暴力を振るわれたりとか…」
ハーマイオニーが言葉を選びながら言ったが、その内容にロンがぎょっとしたように目を見開いた。
「いいや。そんなことはないさ。記憶にはないが、俺を孤児院に預けたのは何か事情があったんだろう」
「それなら、やっぱりどうしてボガードは君の両親を映したんだろう?」
俺の中にはロンのその疑問に対する明確な答えがあった。
一番恐ろしい事。
それを考えるだけで心臓が嫌な音を立てる。嫌悪感が湧き上がる。それは俺が前世であるゴドリック・グリフィンドールの記憶を持っているがために起こる生理現象でもあるのだろうが、こればかりはどうしようもないと思えた。
どう話を切り上げようかと思った時、俺の元に蝶が飛んできた。それは紙で作られており、俺の手元で止まると、かさかさと紙がこすれる音を立て、普通の手紙に戻った。
「なんだそれ?」
「手紙だ」
内容を読めば、それはリーマスだった。今夜お茶でもどうかという誘いだった。おそらく今日の授業のことを心配してくれたのだろう。存外過保護らしい保護者に苦笑する。
「悪い。保護者からお呼び出しだ」
「ルーピン先生ね?」
「ああ。心配かけてしまったらしい」
「とても大事にしてくださっているのよ。だって、あなたって時々何でもかんでも一人で抱え込んでしまうもの」
「それは俺にだけ言えたことじゃないだろう」
苦笑してハーマイオニーの肩を叩く。おそらく俺が何を言いたいかは伝わっているだろうが、ハーマイオニーは何も言わずにいってらっしゃいと見送ってくれた。他二人にも挨拶だけして、リーマスの私室に向かう。途中、抜け道を使ったために早く着いた。
「やあ、祐希。早かったね」
「隠し通路を使ったからな。にしても、先生が一人の生徒を贔屓していいのか?」
「君は私の息子でもあるからね。いいんだよ」
「職権乱用だな」
「権利は使うためにあるものだろう?」
リーマスがくすくす笑って俺を招き入れる。中にはすでにお茶とお茶菓子が用意されていた。
室内は昨日来た時よりもずっと整っている。
「今日の授業、大成功だったな。みんないい顔だった。評判も上々」
「それはよかった」
リーマスが紅茶を飲みながら笑みを浮かべる。
「リーマス。俺のことは心配しなくていい。なんてことない”んだ」
先手を取って告げる。しかし、リーマスは俺をじっと見つめ返す。
「あれは、君のご両親だ」
「かもな」
「?」
「俺は産みの親の顔を知らない」
「祐希…」
「俺が怖いのは、今、目の前に両親が現れることだ。受け入れられる気はしない。俺を捨てたことを気にしている訳じゃない。ただ、俺は普通の人間じゃない。今で言うと、マグルじゃなく、魔法使いだ。会わない方がいい」
たとえば、俺の産みの親というやつらがいま、目の前に現れたとして、俺は今更、無邪気に親が子に与える無償の愛という奴を受け入れられる気がしない。いや、無理だろう。俺には前世の記憶があって、精神年齢でいえばリーマスよりも果てはアルバス・ダンブルドアよりもずっと上になってくる。知識も知恵もある。
子供のふりなどできようはずもない。
受け入れられない俺にとって、親と名乗る人物が現れることは避けたいことだった。
「祐希は優しいね」
リーマスの腕が背に回る。引き寄せられた体に、リーマスのぬくもりを感じる。
「優しくなんかない。俺は、親が居なくてよかったと思っている。俺はここにいる生徒とも違う。わかっているだろう?」
「ああ。そうだね。君は聡明で、思慮深くて、同学年の子らと比べるとずっと大人だ」
「そうだろうな」
「でも、君が、祐希が祐希であることに変わりはない。君は私の家族で、私の問題を小さなふわふわしたことだと片づけ、しかも、今は脱狼薬の研究をしてくれているんだろう?」
「………」
「君が他とは違っても、私にとって祐希が大切であることに変わりはないんだ。たとえ、君が何者であってもね」
「俺も、リーマスは大切だ」
「ありがとう」
「もうちょっと待っててくれ。きっと脱狼薬を完成させるから」
「できれば苦くないようにお願いするよ」
「ああ。甘党なリーマスの期待に添えられるように頑張ろう」
「でも、無理はしないでおくれ。君の本業はあくまで学生なんだからね。学生であるうちの時間はとても大切なものだ。おろそかにしてはいけないよ」
「わかってる」
それはもう十二分に。
俺だってかつては教師だったのだ。子供の数年間というのをそばで見守ってきた側だ。それがいかに尊い数年間であるかはよくわかっている。
「ありがとう。リーマス。そろそろ俺は戻ることにするよ」
「ああ。気を付けて」
寮へと戻る道すがら、来る時よりもずっと軽くなっている心に、俺もまだまだだなと笑みを浮かべた。