黄金田でつかまえて


 信介が「名前。今ちょっとええか」なんて言うものだから、数学の問題から目を離さないまま「なに?わからんとこあった?」と答える。
 ちゃんと休む時は休む、を信条とする信介と時間を共にできるのは、一週間のうちバレー部の唯一の休息日たる月曜だけだった。かといって受験生である私達は遊び呆けるわけにもいかず、放課後は勉強するのが習慣になっている。世間一般の彼氏彼女らしくなくても良いのだ。強豪バレー部の主将で自分にも他人にも妥協しない、そんな彼を人間味がないと言う人もいるけれど、私は信介のそんなところがとても好きだった。のだけれど。
「俺、大学行かんことにした」
「……は?」
「前からずっと考えとったんやけど」
 手元が狂って、ノートに描いた放物線がぐにゃりと曲がる。素っ頓狂な大声を上げそうになるも、ここが稲荷崎高校の図書室であることを思い出し慌てて飲み込んだ。行き場を失った空気を思わず呑みこんで、ぐっ、喉が変な音を鳴らす。
 私の彼氏の北信介は質の悪い冗談を言う人間じゃない。ましてやこんな勉強中になら悪質すぎるだろう。つまり、他でもない本音だということだ。すぐ目の前に座るよく知ったはずの人間の考えていることが1oもわからなくて、困惑と衝撃で頭がくらくらとした。
「え、ちょっと待って。志望校変えるんじゃなくて? 大学に行かんの?」
「おん」
 正面に座る信介は、表情を少しも動かさずに仏頂面で頷く。反対に私の声は動揺でひっくり返っていた。少し震えてもいる。気づかないうちにパタリとシャーペンを取り落としていて、人は理解のキャパシティを超えるとこんなおもしろみのない反応しかできないのだと知った。きっと私は見るからに取り乱している。
 信介の手で何度も開かれ使い込まれてクタッとした英単語帳の、几帳面に引かれた蛍光マーカーのピンクが今はやけに目に痛かった。
「ウソ、なんで? え? 信介、成績ええやろ。センターぎりぎりまで春高出とっても受かるって! A判定やったやん」
「受からんから受験せんわけじゃないねん」
「いや知っとるよ。信介がそんな人間やないのは」
 十分に合格圏内の信介が、どうして今のタイミングで進路変更なんて。初心貫徹を体現するような男だ。困難だから諦めるなんて凡庸な動機は、到底信じることができなかった。「高校で辞める」と前々から語っていたバレーボールを、もしかして心変わりして続ける気になったのだろうか。それなら納得は行く。私は無責任にも、信介があれほどコツコツと積み重ねたバレーボールが近いうちに終わりを迎えてしまうのを、少しだけもったいないと思っていたのだから。
 いつの間にか心臓が全力疾走をした後のように早鐘を打っているのに気づいて、私は気を落ち着けるため小さく深呼吸した。自分でも思った以上に動揺している。当たり前だ。
「大学行かずにどうするん? やっぱバレー続けるん? 専門? 就職の人ももう決まっとるやろ」
 つい責めるような口調になってしまい、慌てて口を噤む。質問攻めになんてしたくないのだ。信介は思いつきで行動するような人ではないから、ちゃんと向き合って話をしようと思った。私が感情的になるのだけは避けたい。
 図書室で声を落として深刻な顔で向き合う男女は、傍から見れば異様だろう。私は顔を上げて信介を見据えて、ここで漸く信介の顔も珍しく強張っているのに気がついた。ずっと切り出すタイミングを窺っていたのかもしれない。
「米をつくろうと思う」
「コメ? 農家になるってこと?」
「せや」
「米……」
 バレーコートから田んぼへ。
 突拍子もないことのように聞こえるけれど、私は精一杯の想像力をかき集めて田んぼに立つ信介の姿を想像した。作業着に身を包み、黄金の稲の絨毯の中に立って満足げな表情で汗を拭う、北信介の姿を。農業にはてんで縁のない人生を送ってきた私には貧相なイメージしか湧かないけれど、不思議としっくりくるような気もした。
 ぼんやりと遠い目をする私の顔を、信介が気遣わし気な表情でのぞき込む。いつも淀みなく言葉を紡ぐ信介が言葉を選び逡巡しているのを見て、私は胸が熱くなった。機械のようだと形容される彼が私のために迷ったり困っているのがどうしようもなく愛しいと思う。
「爺ちゃん死んでから、婆ちゃんだけしゃ世話しきれんから他の人に任せとった田んぼを、俺が継ごうと思うねん。婆ちゃんが大切にしてきた土地やし……それに、俺のつくるものが人の血となり筋肉になって身体を構成するって、想像したらなんかすごいことやろ。俺は毎日ちゃんとバレーやったから、次はこれに挑戦したいと思ったんや」
「……うん」
「親と婆ちゃんと先生には伝えた。大卒で農家の道もあるって言われたけどな。でも決めたんや。それで、最初はお前に言いたかってん」
 赤本の表紙が急に色褪せて見えた。信介がずっと自らのために『反復・継続・丁寧』を続けていたように、私だって自分の人生のために勉強してきた。彼氏のために努力を放棄したり無駄にしたりするような恋愛脳でもない。それなりに自信を持てる程度には勉強してきたし、きっと何かあったって受験当日まで続けるのだと思う。
 ……だからって傷つかないわけでも、平気なわけでもない。
「……信介の気持ちはわかったし、すごい立派な事やと思う。ずっと考えてたんやな。でも、」
 ここで泣いたり引き止めたりしたら、とんでもなく厄介な女になってしまうのはわかっている。そして私が今さら何を言おうとも、信介を止められないのも経験則から明らかだった。別に止めたいわけでもない。「頑張ってね。応援しとるよ」と笑顔で身を引くのがいい女なのだろうけれど、未熟で聞き分けの悪い私は弱音を吐かずにはいられなかった。
「でも、やっぱり寂しいよ。一緒に神大行こうってゆうたやん……」
「……すまん。でも嘘は吐きたくなかったねん。黙っとてもそのうちバレるような嘘、吐いてもしゃあないやん。名前は強いから、俺がいなくたってちゃんと頑張れるやろ」
 いつも逃げも隠れもせず真っすぐ人の目を射抜く信介の茶色の瞳にも、寂しさと
意志の強そうな太い眉が、困ったように八の字になっていた。決して突き放すのではなく、優しく言い聞かすような気遣いの滲んだ口調。
 ずるい。そんな言い方をされたら、頑張らないわけにはいかないじゃないか。好きな人の望む姿でありたいと願ってしまうのは人の性だ。信介に肯定してもらえるたびに、私は少しだけ自分のことが好きになれた。
 傷は浅い方がいい。本番直前に私の心を乱さないようあえて早めに、正直に告白してくれたのが信介の誠意なのもわかっている。
「信介の他人にも自分にも馬鹿みたいに正直なとこ、嫌いやけど好きや」
「どっちやねん」
「信介のアホ。わからずや」
 視界が滲んでいるのを悟られたくなくて、私は誤魔化すように窓の外に目をやった。夕焼けのオレンジが燃えるように鮮やかで、見渡す限りの田園が広がる平地から見上げる夕空はもっときれいなのだろうかと思う。来年の今頃、私と信介は別の空を見上げているのか。
「信介は、地道で正しい努力を毎日ちゃんと丁寧に積み重ねていける人やから、どこでもやっていけるしなんでもできると思う。毎日ちゃんと食べてバレーでつけた筋肉が今の信介を構成してて、今度は信介のつくったお米が誰かの体の一部になんねやろ。素敵なことやんか。私は農業に詳しくないけど……天職なんやないかな」
「そう言ってくれて、ほっとしたわ。ありがとうな」
「信介も他人の言葉に一喜一憂したりすることあるんやな」
「普通にあるで。特に好きなやつの言葉は響くわ」
 ほっとした笑みを浮かべる信介に、私は照れ臭さと嬉しさで頬がむずむずした。
きっと無駄なことなんてなにもないのだ。私が稲荷崎で得た思い出も、信介とはじめて手を繋いだりキスをしたあの日も、勉強に費やした時間だって、すべてに価値があって結果は副産物に過ぎない。信介の受け売りだけど。
「アラン君に話したら腰抜かすんとちゃう?でも反対はせえへんと思う
よ。宮兄弟はブーブー言いそうやけど」
「あいつらは別にええわ」
 受け入れてしまえば逆に心が軽くなって、いつものようにポンポンと会話のキャッチボールが弾んだ。
「今日は別れ話するつもりやったん?」
「お前が別れたいってゆうたら俺に引き留める権限はないやろうな。でも俺は別れたくないねん」
「奇遇やな。私もやで」
 恋愛に関しては一等不器用な私達だけど、諦めの悪さに関してはピカイチな部類だ。どんなに困難な道に思えても、最善を尽くし続ける限りきっとどこかで神様が見ているのだ。いつだか侑くんに「老夫婦みたいやな」と笑われたのを思い出して、それが本当になればいいのにと願う。年若い私に人生の終着点なんかわからないけれど、もし好きな人と同じ目標のために生きられるならば幸せなのだろう。
「米農家の嫁にして」
 信介はきょとんと目を丸くして、呆けた顔をした。そして至って真面目な表情に戻る。
「自分はええの?」
「うち理系やし何かの役には立てると思うで」
「別に無理に手伝わんと、俺は兼業農家でもええけど。人手と収穫量とか状況次第とちゃう?」
「要検討やな」
 なんだか現実味があるんだかないんだかわからないような話をして、私はひとり満足して息を吐いた。とりあえず拒否はされなかったのだから信介にとっても満更でない提案なのだろう。
「卒業したら嫁に迎えてくれる?」
「ええよ。でも卒業の前にまず大学受からな」
「わかっとるし!」
「俺も応援しとるで」
 一旦進む道が分かれようとも、別れない道はあるはずだ。大好きな人に応援されて、今の私に怖いものなんてない。
 今度の模試では第一志望を農学部と書こうと思う。極めて前向きな戦略的路線変更だ。そのために必要なことも、現状の私に足りないものもこれ以上ないほどわかっている。明確な目標と、正しい手順。頑張るのは、心地がいい。まぶたに溜まった涙を押し込んで、私は再びシャープペンシルを握った。
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