12 収束
「これで、終わり、ですね」
「あー終わったー!」

回廊に灯される火までもが消え去った頃。吏部には志津と櫂兎の二人が執務机に突っ伏していた。
終わりの兆しが見えた頃に、各自終わった者は帰宅してもいいと残りの仕事を全て振り分けたのだ。そこから皆火がついたように早かった。牛歩の如く尚書印を捺す紅尚書に愚痴を漏らす者もちらほらいた程だ。だが確かに尚書印が無ければ持っていけない書翰もある訳で、そこは志津も絳攸と共に頑張って捺させたものだ。
ちなみに櫂兎も、印を捺させる協力をといって尚書に働きかけるようにして、何かを書いた紙を渡していたのだが、その紙は奪われるだけ奪われたといった様子で特に印を捺す速度に効果をおよぼすわけでもなく、ただ尚書の顔がだらしなく崩れるという結果になった。櫂兎は力及ばずとうなだれていたが、むしろ何を見せればあの尚書がああなるのか気になる。聞けば、尚書のこの世で一番大切なものだよと教えてくれたのだが、櫂兎が邵可を知っているのも可笑しい話だ。結局わからずじまいで終わってしまった。

そして話は戻るが、あれこれと仕事を片付け、他の吏部官達が殆どの仕事を終えた頃。志津が締めや確認の為に残ると言ったら、櫂兎もそれを一緒に引き受けてくれたのだ。一人より二人の方が早いでしょ?と笑った櫂兎を志津はきっと一生忘れないだろう。神様仏様の類なのかと本気で考えたものだ。

「凄くすっきりしましたね……こんなに床が見える吏部はなかなかお目にかかれないですよ……」
「相当あったもんね……」

志津は苦笑しながら、随分冷めてしまったお茶を淹れ直しに行こうと立つと、櫂兎は机に上半身を転がしたままへにゃりと笑い、お礼を述べた。志津も同調するようにへにゃりと笑うと、簡易的な厨に入り、一つだけ燭台に灯りを灯す。それにしても一体彼は何者なんだろう。いくらなんでも"ここ"に同調しすぎている。今の吏部は歴代でも変てこな自覚はある。それに当たり前のように順応した彼が凄いのか、はたまた知っていたのか。志津はてきぱきとお茶を淹れながら、うーん、と小さく唸った。

「(まあ……考えても仕方ないですね…)」

彼が今日この吏部を悪夢から救ってくれたのは事実だ。それだけで充分であり、何も彼の出自を明らかにする必要性はどこにもない。吏部の人達に新しい刺激を与えた櫂兎には感謝してもしきれない。というか本当に吏部にいてくれないものか。珀明も秋も最後には凄く櫂兎に懐いていた。それを目に焼き付けながら志津はその癒しの空間が続けばいいのにと涙ぐんだものだ。

「あ、今日は饅頭食べ切っちゃったんだっけ……」

食べ切っちゃったというか、使い切った、というか。自分の胸にあった感触を思い出してぶるりと身震いしてしまったのは仕方がない事だと思う。

志津は、無い物は仕方ないか、とお茶だけを持って厨を出た。そして未だ突っ伏す櫂兎のそばに湯呑みを一つ、置いた。

「今茶菓子は切らしてしまっていて、お茶だけでご勘弁願います」
「いやいや、むしろお茶だけでもありがたいよ。ありがとう」

むくりと起き上がった彼の顔には疲れが出ていた。志津はそれに申し訳ない気持ちがむくむくと出てくる。

「これを飲んだら帰りましょうか。本当にすみません」
「んー、こういう時は謝罪の言葉は聞きたくないかな」

志津はお茶目に笑った櫂兎にぱちくりと目を瞬かせた。次いで、ふ、と肩の力を抜くように笑った。

「今日は本当にありがとうございました。助かりました」
「うん、どういたしまして」

二人は、互いの顔を見ると、ぷ、と同時に吹き出した。そのままくすくすと笑いあう。

「30も過ぎて、少しだけ恥ずかしいですね」
「えっ、30過ぎ?」
「あ、今更ですが、31の年になります」
「20歳くらいじゃないの!?」
「あはは、よく言われます」

現実は小説よりも奇なり……と呟く櫂兎に苦笑を漏らしながら、志津はまたお茶をすすった。

「あ、今度、棚夏殿の邸にでも菓子折りを持っていきますね」
「えっ」
「え?」
「え、あ、いや、はは、ははは…」

何故か櫂兎の目が右往左往し始めた。
そうか、出自を隠したがっていたのだから、邸まで赴くのは迷惑行為そのものなのだろう。志津は眉を八の字に歪めた。

「すみません、配慮が足りませんでしたね。そうですね、霄太師に渡せば棚夏殿も問題無いですか?」
「あ、あー、うーん、そうだね、たぶん?」

なんとも歯切れが悪い。志津は首を傾げる。

「ええと……お礼、受け取っていただけない、のでしょうか……」
「ううう…………あ、そうだ」

うんうん唸っていた櫂兎が急に、ぽん、と手を叩いた。まるで名案が思いついたような仕草に志津は首を傾げる。そんな志津を見て、櫂兎はまたお茶目に笑った。

「今度は志津さんが遊びに来たらいいよ」
「?ええと、棚夏殿さえよければ……」
「きっとひょんな事から、来れると思うから」
「ひょんな事、ですか」

随分曖昧な言い草である。
まあとりあえず、ひょんな事から棚夏殿には会いに行けるのだろう。その約束さえあれば過程はどうとでもなる気がした。

「あとまだこの吏部の七不思議、ちゃんと聞いてないし。今度聞かせてほしいな」
「それは永遠に闇の中でお願いします」
「あ、やっぱり志津さん関わってるんだ」

やっぱりなあと笑いながら言う櫂兎に、志津は苦々しく笑った。誰だ棚夏殿に七不思議を吹き込んだ人は。棚夏殿が聞いてきた時はどきりとしたものだ。

そうやって会話を楽しみつつ、お茶を飲むこと四半刻頃。湯呑みの中のお茶が無くなった。それと同時に、櫂兎はかたりと立ち上がる。志津もそれを目で追った。その表情は少しだけ寂しそうな色を宿している。

「じゃあ、そろそろ帰るね。
俺の知り得ない吏部が見れて面白かったし、やっぱりどこでも変わらない物もあるんだなって勉強になったよ。違った良さもあったしね。今日一日だけだっていうのに、なんだか少しだけその一員になれたみたいで、物凄く嬉しかった。ありがとう」

まるで別の吏部を知るかのような櫂兎の言葉に色々疑問は浮かんだが、それらを呑みこみ志津は朗らかに笑った。

「此方こそ、ありがとうございました。またお会いできたら、お茶を一緒に飲みましょう」

志津の言葉に櫂兎は笑うと、灯りの無い回廊に向かって歩き出した。その背は暗闇に溶け込むように、じんわりと消えていく。志津は思わず目を疑ったが、次の瞬間には彼の姿はなかった。ぱちくりと、瞬きをする。

「……きっと暗いから、ですね」

志津はそう自己完結すると、府庫の仮眠室を借りに行こうと、空の湯呑み二つを持ち立ち上がったのだった。


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深海でお米を炊いてきました。
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