・俊臣
あまりに無防備に身を預けて寝てしまった彼女に、俊臣は小さく笑った。
「本当に。ボクの何が気に入ったのか、不思議に思うよ」
その、女性にしては短すぎる髪をさらさらと撫ぜる。会った頃は柔らかくするりと指の通った髪は、ここではたいした手入れもできないものだから、傷んでしまったらしい。
「かわいそうに」
そう、彼女はあまりに哀れだった。
「君には選択肢がなかったのかもね」
・俊臣と赤いの
「あかいのは俊臣を苦手なのかー、へぇー」
意外な事実発覚である。そういえば、確かにいつもあかいのは、俊臣とは距離をとって話していた。へぇー、ほぉー、ふーん?
「何だ、その目は」
「いや、意外だとでもいうか。よりによってあかいのが、俊臣を苦手に思うなんて。だって俊臣だよ? 人畜有害なあかいのを、俊臣が苦手にするなら分かるけど。というか、むしろ、俊臣があかいのを気に入ってるのが解せないんだけど」
あかいのにちょっとばかし嫉妬している私がいる。それも解せない。解せないというか、嫌だ。こんな気持ちになりたくない。
「あれのどこがいいんだ」
呆れたように、ぶすっとした顔であかいのが言った。
「……どこがいいんだろ?」
答えられないのか、とあかいのに鼻で笑われた。ムッときてきちんと考える。割とあっさり、答えは出てきた。
「私に優しいとことか、甘いとこ、かな。だって、何も返せないんだもん、私」
「『優しい』…?」
あかいのは怪訝そうだった。
「あれだね、きっと人の好意を素直に受け取れないんだねーあかいのは」
「違うと思うが」
「そうかなあ」
彼は優しいひとだとおもう。
「好意の押し売りなぞ、ただの迷惑だろう」
「うわ。贅沢な奴め」
・吏部
『尚書が見知らぬ少年と街を歩いていたとは本当か!』
『黎深様が? 少年と?』
『国試も近いこの忙しい時にあン人は!!』
『しかも女物の小物の店を巡っているという話だ』
『意味がわからんな!』
『というかその少年は無事なのか?』
『黎深様が……まさか、拾って? じゃあ俺は…黎深様は…』ぶつぶつ
『おい李侍郎殿が使い物にならなくなったぞどうしてくれる』
『確実に分かるのは今日も帰れないということだ』
『うわぁん地獄だぁ、この世の終わりだぁ』
・すぽんじ
『どうしてボクに黙って国試なんて受けようとしたの』
これは。怒っている。いや、怒っているのだろうけれど、決してその怒りをこちらには向けないで、私を叱っている。どこまでも冷静なのはさすが、法を司る部署のトップを張るだけはある。普段の陽気な彼とは結びつきもしない姿だ。
それが私は、恐ろしくてしかたなかった。刑を宣告される罪人のような心地がする。
こっそり、というのは確かに私も悪いと思った。けれども、何もできない自分は歯がゆくて、何かせずにはいられなかった。話せば止められるであろうことは分かっていたし、その時ばかりはそれが最善なのだと信じて疑っていなかったのだ。全然最善なんかじゃなかったけど。
「『お仕事手伝い、したいだった』」
結果は、ただ、彼の信頼を裏切っただけ。ああ、なんて馬鹿なことをしたんだろう。泣きそうになりながら、俯いた。
彼の大きな手が、私の頭の上に乗った。そのまま髪を梳かれるようにして撫でられる。
私に与えられるべきは罰だろうのに、それじゃあ、何の報いにもなってくれなくて、罪悪感に息が詰まった。
『分からないことがあるんだ。どうやって受験料を工面したんだい?』
私の冷静な部分が「これは事情聴取だ」と告げるのに、穏やかな声は私の緊張をあっさりと解した。呆気なく陥落した私は、問われるままに答えていく。
「『あかいの、取引した。姪様と同じくらい、女の子好き物のお店、見た』」
『黎深か。随分と仲良くしているみたいだね。そんなにボクに構ってもらえないのが寂しかった?』
寂しいよ、なんて言えるはずなかった。頭の中がぐるぐるして、心臓がばくばくなった。巡りすぎた血は指先をじんとさせて感覚すらも奪ってしまう。呼吸をするのも億劫だった。
『君は、充分役立ってくれているよ』
「『本当?』」
『ああ。君が手伝ってくれるようになってから、ボクも刑部の皆も、とても助かっているんだよ』
ああ、その言葉が嬉しくって、嬉しくって。あついものが、胸の内から湧き出すようだった。
『それにね、国試に受かっても、ボクのところで働けるとも限らないんだよ?』
「えっ」
そうなの?
『その様子だと、知らなかったね?』
こくこくと頷く。私が知っているのは、受かれば俊臣と同じように国に雇用してもらえるってこと、そして、普通男の人しか受けられないところを、今回だけ女の人でも受けられること。
『誰しもの希望が通ってしまったら、人数だって偏るし、組織も回らないよ。普通、受かった人はその適性をみて、あった場所に回されるんだ』
考えてみれば、当然のことで、そんなことも気付かなかったどころか、この試験というものを全くと言っていいほど理解していなかった自分に呆然とした。
恋は盲目というけれど、本当に何も見えていなかったんだ。
血の気が引いて、立っていられないくらいに足が震えた。思わずぺしゃんとその場に座り込んでしまう。
ああ、私はなんて、なんて愚か。
「『ごめんなさい…ごめん、なさい…』」
この人の好意で、私は生かされているのだった。私にも何かできるなんて、烏滸がましいにも程があった。
『――』
彼が名を呼ぶ。私の名を呼ぶ。咎めるように、止めるように。
『君にできることをしてくれたら、ボクはそれだけで嬉しいんだよ』
涙の流れる頬を彼はゆっくりと撫でる。白い手袋に水滴が吸い込まれていく。まるで彼が悲しみまで吸い込んでしまうようで、導かれるがまま、私は声を上げて泣いた。スポンジが水気を吸い取るように、彼は私の涙すら吸い取ってしまうのだろう。
こんな彼が悪いのだ、彼が泣かせてくれるから、私は泣いてしまうのだ。そんな変な理屈をこねて、彼の腹に顔を埋めた。
……彼の胸に届かない、この身長が恨めしい。
・白
彼女がいつの間にか、国試を受ける手続きを踏んでいた。それを知った俊臣は、慌てて彼女を呼び出した。
今、目の前にはしょんぼりした彼女がいる。そんな顔をさせるつもりではなかったのだが。第一、彼女一人で手続きなどとれるはずもなく、そもそも国試を受けるなんて発想に至るわけがない。
誰にそんな入れ知恵をされたのか。考える必要もなく、黎深だろう。こちらが勘付いたのを察知して、すぐに撤収されてしまったので、その証拠までは押さえられなかったが。
彼の狙いは簡単だ。今年は特例で女人の国試受験が認められた。彼の姪も、受ける予定だ。特例というのは、少数というわけであり、当然風当たりが強く、危険だって伴う。自分が国試を受けた時、裏で幾つの死体が転がったのか、俊臣は忘れてはいない。
彼女は、その彼の姪の犠牲にされようとしていたのだろう。身元は幾ら黎深が保証しようと、彩八家の出でもない平民。『女人受験者』として見せしめにするのに、これほどやりやすい者もいない。彼の姪を狙うよりことは簡単だろうし、彼女が見せしめになることで彼の姪への被害は抑えられる。
黎深は、彼女が無知なのをいいことに、彼女を利用しようとしていたのだ。
彼女のあの様子では、国試がどういったものであるかもよく知らないまま、黎深から話を聞いては受けるなんて言い出したんだろう。受験料も、普通ぽんと出せるような額ではないことすら、知らないに違いない。
それどころか彼女は、半ば騙され犠牲にされかけていたことに未だ気付いていない。黎深は彼女を、その辺にある石コロと同じくらいにか思っていないだろうのに、彼女は黎深に懐いてしまっているのだから、憐れだ。
自分がこの手を離せば、彼女はこの国で生きていくことすらできないのだろう。そんな、俊臣に全てを委ねざるを得ない彼女の所在の頼りなさと、それを喜んでしまっている自分に、俊臣は仄暗く笑った。
(暫くして、黎深には俊臣から、いかにも呪われてそうなグッズと読経セットが届いた。黎深は恐怖に寝込んだ)
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