02
櫂兎が書類の処理を始めて四半刻。目に見えて処理済みになる書類に、吏部官たちは騒ぐ。

「なっ、なんですか、あれ、要官吏より、早い、ですと…!?」

秋が信じられないものを見る目で櫂兎の手元を凝視する。同じくこの状況を確認した淑は、呆然と呟いた。

「……未だこの界隈に化物が潜んでいたなんて…」

「なんっっでもいい!!さっさと終わらせて俺は最近出来た彼女と一日過ごすんだ!!!化物でもなんでも使ってやらぁ!!!」
「ちょっ、奏官吏巻書投げないでください!」

奏から飛んできた巻書を、珀明はすんでのところで受け止め、声を張り上げる。皆、気合充分といったところだろうか。

「あはは、いつもよりみんな元気だねぇ」
「俺の知ってる吏部と違う」

思わずといった風に、櫂兎は口調を崩し言葉を溢す。流石に少し疲れがでてきたろうかと志津は櫂兎にお茶を出した。

「棚夏殿、お茶、どうですか?」
「あっ、いただきます。ありがとうございます」
「いえいえ。それにしても本当にすごいですねぇ。ここの床だけ見えてきてる……」

彼の周囲だけ、環状にぽっかり凹んでいる、その目に見える変化に、ほう、と志津は感嘆の息を吐く。若い見た目に惑わされそうになるが、慣れた様子の仕事ぶりは、彼の力が経験に裏打ちされたものであることを示している。

「前はどれほど官吏をなさっていたのですか?」
「吏部にいたのは12年程で、その後は別の部署に少し、といった感じでしょうか」

それは、官吏を辞めてしまうには、あまりに短い期間だ。しかし、それでも。志津は同僚達がいつからこの部署にいるのか計算しだす。
黎深達が尚書になる機にもなった大官人事刷新。あの時、官吏といえば高官下官に関わらず随分数を切られている筈で、あれは10年程前のことだから、今朝廷にいる官吏たちの多くは勤めて10年に満たないはずだ。自分の勤めた期間も数えてみるが、今年で12年目であった。

「それって、少なくとも私と同じかそれ以上って事、です、よね?」
「でもずっと、特に目立つ昇進もなく、書類仕事や雑用ばかりでしたから」

彼はそう言って苦笑してみせるが、それは、吏部で12年もの間、今のような書類仕事をしていたということだろうか。この能力を手放したくなくて、当時の上司は昇進させなかったともとれる話だ。

「……いやあの、先ほど奏官吏が『使ってやらぁ』とか息巻いていましたが、むしろ棚夏殿が使ってやってください。顎でひょいひょいっと使っちゃってよいのですよ?」
「え!? そんな急に」
「うーん、…なら、言葉から、崩してみませんか?」

その方が彼に気をつかわせずにすむ。さすがに、今のままでは、彼が丁寧な言葉を使っているのに、自分たちが乱雑な物言いを彼にすることになる。先輩にあたる人物に対する態度としては、いただけない。

「吏部はあまり礼儀が、その、雑なので、いや知ってらっしゃるかとは、思いますが」
「それは、まあ、激務が続いては、いや、続いたら、口も雑になるよ」
「忙しさは、人を鬼にしますからね…」
「違いないや」

先ほどよりも随分と緊張が解けた顔で櫂兎は笑う。こちらが彼の素のようだ、口調を楽にしてもらったのは正解だったらしい。

しかし、彼のこの仕事っぷり。彼には、一日といわずずっと吏部にいてもらえないものだろうか。そうすれば、吏部官の口調だって仕事だって、穏やかになるに違いないのに。
そもそも、彼が今、官吏でないことが志津には不思議でならなかった。思わず、といった風に志津は訊ねる。

「棚夏殿は、どうして官吏を辞めてしまわれたのです?」
「んー……」

櫂兎は困ったように微笑んだ。
彼にも、言い辛い事情があるのかもしれない。志津は、無神経な発言をしてしまったことを自省した。

「すみません、不躾でしたね」
「いえいえ。俺の方こそ、答えられなくて…」
「お仕事、しちゃいましょうか」
「そうだね」

そうして二人顔を見合わせてお互い苦笑していると、志津を呼ぶ声がその間を割って入った。

「要官吏、尚書がお呼びですよ」
「紅尚書が?今行きますね」

気味が悪いものでも見たと言うような顔で志津のもとに来た淑官吏に呼ばれ、志津は席を立った。櫂兎はそんな志津をちらりと一瞥したが、それは一瞬の事ですぐに書翰に目を戻す。

「尚書室、ですよね?」
「はい。なんか気味悪く笑ってました」
「……うーん…嫌な予感」

淑官吏にお礼を言った志津は、折角の仕事を片付ける機会をフイにしないように足早に尚書室に向かった。また変な事を押し付けられなければいいのだが、結局のところ絳攸に押し付けられたら志津も手伝わざるを得ない状況になるので、とうの昔に諦めて受け入れる事が多かったりする。志津は小さく溜息を吐いた。

「紅尚書、要志津です。お呼びですか?」
「来たな饅頭屋。まあ座りなさい」

あ、確かに気味悪い。

志津は機嫌良さそうに腰を落ち着けるよう勧めた黎深に笑顔をぴしりと固まらせた。そのまま志津は恐る恐る勧められた長椅子に腰掛ける。

「話とは何でしょうか。一応、今吏部はこの上無く忙しいといっても過言ではない状況だとは言っておきましょう」
「ならば好都合だ。棚夏櫂兎。彼奴の素性を探れ」
「好都合、とは」

また何かを気紛れで始めるらしい。
志津は苦笑しながら続きを促した。

「いつも吏部は忙しい身だからな。素性を掴めた者には……三日、休暇を与える事にする」
「み、三日!?」

志津は思わず大きな声を出してしまった。そんな志津に黎深は満足気に扇を仰ぎながら笑う。

「休養日でさえも潰して働かざるを得ない吏部で三日の休暇は、その、天からの恵みといいますか、」
「ふふん。私も鬼ではない。休暇くらいくれてやる」

いつも尚書が仕事したら7日に一度の休養日くらいは確保出来るんだけどなぁ、とは志津は言わなかった。

「というか、何故棚夏殿の素性を探るなんて真似するんですか」
「彼奴は出自が掴めん。その上あの狸ジジイの使いと来たら……きな臭いにも程があるだろう」
「……弱味にでもなると思ってるんですか」

志津の言葉に返事はしなかったが、にんまりとした表情が全てを語っていた。志津はそれに苦笑を滲ませながらも、長椅子から立ち上がった。

「ああ、私は参加しませんからね。先に言っておきます」
「何故だ」
「例えば、紅尚書は邵可殿の秘密があるとして、それを探られたらどう思いますか」
「この世の全ての苦痛を味わわせて殺す」
「そういう事ですよ」

黎深はぴくりと眉根を寄せたが、志津は朗らかに笑うと、一礼して尚書室を出た。さて、しかし命じられた事はしょうがない。この御触だけは吏部官に通達しておこう。棚夏殿にバレる訳にはいかないので、自分のみならず、色んな人に仕事の通達を装って話を回してもらった方がいいだろう。志津はそう考えると、全部署の統轄と言ってもいい中央管轄に回す事にした。

「淑官吏」
「あ、ああ、要官吏……何か言われたんですか?」
「うーん。秘密裏に、棚夏櫂兎殿の素性を探れとの事です。報酬は………休暇を三日」
「三日!?!?ふぐっ」

志津はにこやかに淑の口を手で覆った。

「気持ちはわかります。ええ、わかります。これを吏部官全員に通達してくれませんか?隣から隣に伝言で通達する形で構いません。ちなみに私は不参加ですので、後の事は頼みましたよ」
「ひょんなむしぇきにんにゃ」

志津はまたにこやかに笑うと、淑の口から手をぱっと離した。

「でも、程度は弁えてください、とも、付け加えてくださいね、淑官吏」

志津の言葉に目を丸くした淑は、呆れたように一笑した。

「わかりました。そのように、仰せ仕ります」

この四半刻後、吏部の所々から三日!?と驚く声があがる事になる。

「三日って何なんだろう」
「棚夏殿は…あまり気にし無くてもいいのではないですかね……」
「??」

櫂兎は遠い目をした志津に首を傾げた。
そこまで休みを奇跡扱いする吏部官に悲しくなっている志津である。


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深海でお米を炊いてきました。
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