01 はじまり
届いた書状に目を通し、黎深は眉を寄せた。
それは、ある人物を、一日の間吏部侍郎の付き人としてつかわすので好きに使え、という内容のものだった。
対する絳攸は、この書状の件に好意的らしく、不満を漏らす黎深にぴしゃりと言った。

「何でもいいじゃないですか、助っ人になるなら。こちとら、猫の手だろうがパンダの手だろうが借りたいくらいなんですよ!」
「あの糞狸の紹介だというのが気に食わん。だいたい、邪魔をされ仕事を増やされるのが落ちではないか?」
「仕事をしていない貴方が言いますか」

はっ、と呆れの溜息を吐くのは書状を持ってきた楊修だ。

「どうせ貴方のことですから、絳攸の付き人に、得体の知れない人間が一日たりともなるのが嫌なのでしょう」
「ああ、こいつは変なところ騙されやすいからな。丸め込まれ、影響を受けられては迷惑だ」

それをきいた絳攸は、何か心当たりでもあるのか、ぐっと苦い顔をする。
「心配だ」と一言言えばいい話なのに、と、楊修は相変わらず頭だけ無駄にいい不器用なこの上司に呆れた。

「……饅頭屋を呼べ」

す、と閉じた扇を下ろし、黎深は指示を出す。

「奴に面倒を見させる」
「えっ、ですが『侍郎の付き人』と…」
「『好きに使え』というんだ、常に付きまとうことだけが付き人なわけでもあるまい。何月も会えなかった付き人の例もあるのだから。だろう?」
「いや、しかし黎深様…」

黎深は、鋭い目で真っ直ぐに絳攸を見据えた。

「絳攸、命令だ。饅頭屋を呼べ」
「っはい!」

有無を言わせぬ黎深の威圧におされながら、絳攸は志津を呼びに尚書室を出たのだった。


§


「『吏部侍郎付き人』?」

突然尚書室に呼ばれ、その者の面倒をみろなどと告げられた志津は、目をぱちくりさせた。
絳攸の付き人として遣わされるというのに、志津にその者を任せるとは。絳攸自身が忙しい身であり、彼の負担になると考えたのか。それとも、遣わされる人物を警戒し、絳攸を心配しているのか。黎深の難しそうな表情をみるに、両方であろう。そういうことであるならば、志津が任されることに異を唱えるはずもない。

話を快く請けた志津は、絳攸達と尚書室を出た。

「しかしまた、どうしてこんなことに」
「霄太師が、吏部の現状を嘆いて助っ人を呼んだそうで…」

志津の疑問に絳攸が答える。
はて、吏部の床が未処理の書類により踏む場所もないことは有名な話であったが、前宰相が出てくるほど悲惨な状態であったろうか。

ちら、と吏部を幾らか見渡してみれば、死人のような顔をして黙々と筆を動かす官吏に、限界を迎え仮眠室にまで動くことさえ諦め床に倒れ伏す官吏。そして倒れれば雪崩を起こすこと必至の、書類の山、山、山。

志津自身、随分と片付けているつもりだったのだが、とてもじゃないが足りないようだ。志津が眺めているうちに、他所から回ってきた書類が、積まれた書類の上にさらに乗せられた。仕事の消化がこちらに回ってくる仕事量に追いついていないらしい。明日からの仕事量を、もう少し増やすことにしようか。

「それで、その方はいつ頃にいらっしゃることになっているんですか?」

これからの予定を練り直しながら、志津は絳攸に問いかける。

「明日です」
「明日」

それはまた、急な話だ。

「そういえば、その方のお名前をきいていませんでしたね。そもそも、どういった方なんでしょうか」

突然、吏部侍郎の付き人にやられるくらいの人間だ。…付き人。それにも、ただの雑用係から補佐や秘書まで様々あるが。前宰相が連れてくるくらいだ、それなりの能力があるに違いない。少なくとも、国試を通り抜けるくらいの実力者だろう。しかし、そんな者が官吏になっていないなどということがあるだろうか。
地方のどこかで、正規の官吏にはならず長く働いていた者を見つけてきたのかもしれない、と、志津は思った。それならば、もしその一日の働きぶりがよければスカウトしてしまいたい。吏部は万年人不足なのだ。

「名は、棚夏櫂兎というそうです」
「た、田中?」

妙に日本人みたいな音の響きをした名前だ。今世では聞いたことのない家名だったが。

「霄太師に聞いたお話ですが、官吏の経験があるとのことで」
「退官された方でしたか!」

なるほど、盲点ではあった。確かに、突然一日吏部に飛び込んで、仕事を任せられる人間ではあるかもしれない。
ただし、そうとなると高齢か。自分が名を知らぬことからも、これは前宰相が現役だった頃の縁でよんだと考えるのが自然だろう。吏部には体力仕事なところがある、スカウトは現実的ではなくなった。一日の期限も、その者の体力的なところがあるのかもしれない。


§


さて現れたのは、黒髪に菫色の目をした若い男であった。

「棚夏櫂兎です。本日は宜しくお願い致します」
「……失礼ながら、お歳を伺ってもよろしいですか?」
「心は永遠の20代です!」
「心は」
「心は!!」

確実に実年齢が20代ではない発言だ。もしや童顔仲間だとでもいうのだろうか。

「官吏の経験があるということでしたが、部署はどちらにいらっしゃったのですか?」
「吏部でしたね。補佐職だったのですが、書類仕事が殆どで…その分、書類処理には自信がありますよ。それと、上司と共に覆面官吏も少々」
「覆面官吏!」

エリート職だ。なるほど、霄太師は随分といい人材を見つけてきてくれたらしい。
大いに歓迎する意を込めて、志津は完璧に官位が上の者に対する礼の形をとった。そんな志津に、大したものではないと櫂兎は慌てて伝えるが、志津は頑なに姿勢を崩さなかった。その代わり、申し訳なさそうに眉を八の字に下げる。

「そのような方にこのようなことをお伝えするのも申し訳ないのですが、吏部侍郎はお忙しく、棚夏殿との話も儘ならぬ状態でして。吏部侍郎の代わりというには力不足ながら、私、要志津が本日共にお仕事させて頂きます」
「いえ、力不足だなんて、そんな。宜しくお願い致しますね、要官吏」

櫂兎は、柔らかな笑みを志津に向ける。

「私も。書状には、侍郎の付き人としてこちらに遣られた、と、あったことでしょうが、本日は吏部の仕事の山を少しでも減らすためにここに来ております。私にできることでしたら、書類仕事でも力仕事でも、大物案件から雑用までお任せください。尚書の印が必要なものは処理できませんが、それ以下のものならば処理可能なだけの権限を貰ってきました」
「それはそれは! こちらとしても、助かります」

侍郎の付き人、というのはその辺りの権限を得るための立場だったのかもしれない。付き人という言葉の響きが惑わせているが、実質吏部の第三席に値する位置なのだ。ともかくこれで、いつもなら志津しか手を出せないところに彼も手が届く。仕事効率はグンとアップだ。となれば、一刻も早く仕事を始めるほかない。

「早速ながら、お仕事を…ああ、しかし棚夏殿が官吏であった頃と、制度や仕組が違っているやもしれませんね」
「どれどれ…ふむ。これ、少しやってみますので、それで問題ないかを見て頂けますか?」

そう言い、彼は近くの床に散らばっていた書類をひょいひょいと拾い上げたかと思うと、近くの机に向かい、懐から取り出した筆をせわしなく動かし始めた。彼の硯を見るに、随分と使い込まれているのが分かる。それと同時に、随分と大事に使われてきたことも。

程なくして仕上げられ、出された書類に志津は刮目した。櫂兎と書類を見比べる。…これは。
無造作に拾われたと思われた書類は、関連したもの同士だっただけではなく、書類の海に散逸してしまったであろう内容も書き足されている。何より、これは。期限は先だったとはいえ、手こずるであろうことが目に見えており、早めに片付けなければと思っていた案件の一部だった。
この処理、この速度。有能かつ玄人のそれだ。――いけるかもしれない。彼は紅尚書と変わらないくらいの処理能力があるとみた。彼の仕事の調子に追いつかせるように、完全臨戦態勢を吏部官達にとらせれば。その間だけは文字通り死ぬ思いをして必死に仕事をこなさなければいけなくなるが、吏部の床に紙一つ落ちていない夢のような状態を作ることができるかもしれない。志津はそれを想像して震えた。

「こちらのような処理で問題ありません。…尚書の印が必要なもの以外はできるのですよね? この際、好きなものを好きなだけどうぞ」
「あ、はは…」

まだ振り分けられていない仕事の山を取り放題だとでも言わんばかりに、にこやかに示した志津に櫂兎は頬を引きつらせた。

「で、では、遠慮なく?」
「どうぞどうぞ。むしろ戸部へ吏部の公費増加を謀る上申書も仕立ててほしいくらいです。吏部は毎度毎度備品紛失省庁第一位でして……。その為に戸部尚書を納得させられるくらいのものが毎回必要で頭を悩ませるんですよねぇ」
「く、苦労なさってるんですね…」
「ええですから、この度のことは藁にもすがる思いなのです」

微笑む志津に机まで導かれ、櫂兎はおずおずといった様子で足元の書類の処理を始めた。それを見ながら、志津も近くに場所をとり仕事を片付け始める。


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深海でお米を炊いてきました。
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