例の先代筆頭女官が、度々府庫に姿を現しているという噂がいつの間にやら広まっていたらしく、そう多くはないものの目をギラギラさせた男達が常に府庫にいるとあっては、府庫で呑気に読書とはいかなくなってしまった。一体どこからそんな話が漏れたのだろうなと華蓮は首を傾げる。府庫の主がいないことも相まって、目当ての書物を探し出せず困っている者を率先して手助けしていたからかもしれない。
「そういうわけで、手持ち無沙汰なのですわ。何か手伝うことはあるかしら? ねえ、奈津」
目を伏せ、切なげに縋るように華蓮は奈津に問いかける。ぐらぐらと揺れる心をぐっと止めては鬼にして、奈津は答えた。
「では、手空きの者に声を掛けてお相手させますね」
「いえ、そういうことではなく、仕事を」
「そう言って他の者の書類仕事がなくなったのをお忘れですか。新人の経験にと思っていたものまで片付けてしまって。張り切っておいでだったのを、止めなかった私も私ですが」
むしろ、華蓮の惚れ惚れとするような仕事っぷりに夢中で、はしたなくもきゃあきゃあと騒がしい歓声をあげてしまったのは奈津の記憶に新しい。
「その節は反省していますわ…。そう、ね。おとなしくしておこうかしら」
「華蓮様からそのようなお言葉が聞けるとは」
「奈津? そんなところで感動してほしくはなかったですわ」
目を潤ませ感じ入っている奈津に華蓮は少し肩を落としながら、これからを考える。
例の探し物は、悲しきかな、地図を手に入れたところで手詰まりだった。御史台に戻るのも、劉輝達が藍州から帰ってから。それまで今しばらくかかるだろう。後宮は、皆頼もしく、寂しくなるほど仕事がない。大事な仕事ではあるので、軽んじるわけではないのだけれど。あっという間に終わる印象だ。
多分、ただ待つだけというのが落ち着かないのだろう。知らず知らずのうちに焦っているのかもしれない。
「奈津。お茶にしましょうか」
「はい、華蓮様。喜んで!」
その報せが舞い込んできたのは、二杯目の茶を注いでいる時だった。
寧明と張の婚姻が、彼らの両親、ひいては両実家に認められたというのだ。
「御祝いをしなければなりませんわね」
「そうですね」
花の蕾が綻ぶように、奈津は笑顔になった。
幸せな婚姻、それも恋愛結婚なんてものは、この後宮に勤める女官には希少である。色恋沙汰は実のところそう珍しくもないのだが、それはあくまで叶わぬ恋としてであって、こうして皆に祝福される形で結ばれるのは、本当に一握りの人間だけなのだ。尤も、後宮という場所の役割を考えると全く褒められたことではないのだが。これが許されるのも、あの優しい王さまさまである。
「寂しくなりますわね」
「……そう、ですね」
「奈津にはいい人などいないの?」
「おりません」
すっと表情を消して真顔できっぱり言い切る奈津に、思わずといった風に華蓮が笑う。
「私もなんですの。私達、お揃いですわね」
そう、とても楽しそうに華蓮が言うので、本当なら喜ばしくない独り身の寂しさも、どこかへ飛んで消えていってしまった。憧れの人と、お揃い。――至福である。
「嬉しゅうございます」
その喜びを隠しもせず、頬を緩ませた奈津に、華蓮は少し困ったように眉を下げた。
「そのような反応をされるとは思ってもみませんでしたわ。ここはお互いの境遇に呆れながらも、慰め合い笑い飛ばすところだとばかり」
「まあ。私ばかりが慰められてしまいました。いえ、それ以上に、喜びを頂いてしまいましたね」
「ここで喜んでどうするんですの…」
その言葉の意味が分からないとでも言わんばかりに奈津がきょとんとしてみせるので、華蓮は呆れたように苦笑する。
「貴女の幸せが、そこにあるのならいいのですけれど」
「華蓮様…!」
これを、幸せと呼ばず何と呼ぶか。
ぶるりと奈津は身を震わす。いや、本当に揺れたのが身体だったのか心だったのか。奈津には分からなかった。ただただ、胸がいっぱいだった。
華蓮のその想いも、優しさも、そのどれもが触れる度、奈津に喜びを与えてくれる。
「貴女の幸せを願っていますよ。もちろん、他の女官達の幸せも」
彼女が、他の人の幸せを願い祈っていることを、奈津はよくよく知っていた。その願いの強さも、切実さも。幸せであることが、どれだけ難しいことか知りながら、御伽噺の大団円でも目指すかのように、彼女は願うのだ。
……その『めでたしめでたし』の中に、華蓮は含まれているのだろうか。
――「華蓮様は、幸せですか?」
それは口にされることなく、奈津の心の中で霧散した。
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