久しぶりに、セーガ君が後宮へやってきた。しかも彼は女装をしていない。いつぞの十三姫暗殺未遂の件で、御史としての正式な後宮訪問なのだ。その接待に、筆頭女官代理を務める俺が出てくるわけである。
そういうわけで、今回はいつもと違って人目のある場所だ。当然毎度の調子で会話、とはいかない。優雅に、上品に、美しく。今の俺は完璧なレディである。セーガ君も爽やかな笑顔を浮かべてみせる。お腹の中の黒さを全く感じさせない、お仕事モードな、染み付いているとでもいうべき笑顔だ。
この笑顔に騙されてはいけないということを、俺はよくよく知っていた。いくら女装仲間(本人はそう言うと否定するが)とはいえ、この場においてそれぞれの立場は異なるわけで、当然お互い自分の立場に有利にことを進めたいわけで。調査という名目でさりげなく提案される、今後の後宮に御史台が干渉する意図のみえる話は全て蹴り、逆に、当事者として後宮にはその全貌を知る権利があると主張して、御史台で収集した情報をこちらに寄越せとやんわり訴える。
結局、お互い少しずつ譲り合うものの、今後も干渉しないという方向で話はまとまった。敵にはならない、味方でもないが協力はする、といったところか。
知らせることに支障のない情報は、はじめから伝える気だったらしく、簡易ながらも現在の調査状況をまとめた書類が作られていた。準備のいいことである。そして、見事に当たり障りのないことしか書かれていなかった。
ぺらりぺらりとその場で書類を確認していれば、文面が明らかに書類と違うものが混ざっている。不思議に思い、よくよくみようとしたところで清雅から強い視線を感じた。
「何か?」
「いえ、折角席を共にしているのに、貴女が書類を確認する様を見ているだけ、というのは惜しいと思いまして」
要は、この文書はここで見るなと、後ほど人目のないところで確認しろということか。
「失礼致しました。お客様ならばもてなすところなのですが」
そう俺が遠回しに「客じゃないんだから相手するわけないだろ帰れ」と言えば、セーガ君は「いつか客としてお招きにあずかりたいものです」などと宣った。
彼が後宮を去った後、その場を片付けてから、いつも業務を行うのに借りている室に引っ込み、書類を整理しながら例の文書を確認する。
そこには、絳攸が御史台による取り調べの名目で投獄されたことが書かれていた。
「そうか…」
楊修が清雅と接触した時期を考えると、思っていたよりもことは早かった。御史台が動くにしては、遅かったというべきだろうが。
(そもそも、名目って、名目って)
まるでそれ以外の意図がありますよと言わんばかりの書き方である。実際そうなのだろうが、隠す気がないにもほどがある。それとも、俺には知らせるべきだと判断されたか。
櫂兎は目蓋を閉じる。
これは、俺がずっと駄々をこねて先延ばしにしてきたことだ。既に俺は絳攸の付き人ではないし、楊修もこちらに協力的だとすれば、止めようもない。俺にできるのは、ただ、秀麗ちゃんや絳攸が間に合うように祈るくらいか。
「あれ。ってことは、劉輝達もそう遠くないうちに藍州から戻ってくるのかな」
ならばその前に、と櫂兎は筆をとった。旺季への、茶会への誘い状だ。
この暑さで食欲が落ちたのもあって、最近はまともに食べていないらしい。食べやすいさっぱりとした茶菓子を用意しようと、櫂兎は段取りを考えだした。
茶会当日。いつもの室にやってきた旺季は、以前に増して痩せ細っていて、一気に老け込んだようにみえた。
口に入れやすさばかり考えて、茶菓子は葛切り餅というチョイスだったのだが、許されるなら白いご飯に濃い味のタレに漬け込んだ肉をニラと玉ねぎと一緒に炒めて乗せてお好みで卵もつけて押し付けたい。何か食べてと言いたくなる。これは、長官も心配するはずだ。
そんな考えが表情に出てしまっていたのか、旺季は苦笑し目を細める。
「この暑さにも困ったものです。否応なしに身体の衰えを自覚させられる」
「……貴方がそんなことを仰るなんて。やはりこの暑さはいけませんね」
「いえ、それだけ歳をとったということなのでしょう」
「そう、ですか。……思えば私も、近頃月日が経ったのだと感じることが多くて」
「まさか! 貴女は今も昔も変わらずお美しい」
「ふふ、光栄ですわ。いえ、しかし、変わるものもありますわ。今回こちらに戻ってきて、それがよくわかりました。
後宮は既に私が居らずとも、若い者たちで回っております。時代は変わりました。潮時、なのでしょうね」
「……」
優しく、柔らかく、儚く笑ってみせれば、旺季の表情は険しくなった。それは、彼はそうは思わないと、そういうことなのだろう。
「ねえ、旺季様。老人二人、仲良く隠居というのも、悪くはないと思いませんこと? 浮世を離れて自然の中で穏やかに暮らすのも、楽しそうですわ」
だからこの手をとってと、そっちに行かないでと、心の中では言うのだけれど。
「それは、良いですな」
眩しいものでもみるように、困ったように彼はくしゃりと破顔して「しかし、」と続ける。
「その話は受けられませんな」
「まあ、残念ですわ」
本当に、本当に。残念だ。
駄目元で言ったことであって、断られることは分かっていたはずなのに、思いの外、自分でも断られたのはショックだったらしい。ちょっとだけ、泣きたくなった。
「時が、来たのです」
旺季は静かにそう言った。彼の瞳の奥には決意の色が見えて、俺はその揺るがなさを思うほど、息苦しくなった。
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