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→軽度のキス(同性同士)・嘔吐表現皇毅に鎧を渡す、約束の日。待ち合わせの場所に行ってみれば、軒は既にきていた。その御者席に座る人物に、華蓮はおやと片眉をあげた。清雅だ。
彼は華蓮に気付くと、席から降りてにっこりと好青年の笑みを浮かべてみせた。
「こんにちは。華蓮様ですね。私、本日御者を務めさせていただきます、陸清雅と申します」
おそろしいまでの猫の被りっぷり、かつ、この初対面だとでも言い張るような態度は、ついこの間、遭遇した『女装した御史』が自分だと、華蓮に気付かれていないつもりのようだった。華蓮は生温かい気持ちになりながら、追及しないことにした。
「まあ、ご丁寧に。ありがとうございます。華蓮ですわ、本日はよろしくね。それで、葵皇毅様は…」
「中におられます。どうぞ。足下にお気をつけを」
妙に紳士に先導され、ぶるりと鳥肌をたてながらも、それを表情には出すことなく、華蓮は軒に乗り込む。
「ごきげんよう、皇毅様。いいお天気ですわね」
華蓮がひとつ挨拶をすれば、皇毅は息を呑んで数拍硬直した。
「どうされましたか?」
「あまりにも、その、眩しかったので。天女が乗り込んできたのかと思いました」
「あらあら、夏の陽射しは強いですものね。さて、軒を出してもらいましょうか」
華蓮は、清雅に粗方の住所を告げてから、皇毅の隣にちょこんと座る。馬のいななきが聞こえ、間もなく軒は動き始めた。
「ふふ。旺季様、驚かれるでしょうね」
揺れる軒の中でふわふわと華蓮は笑う。対する皇毅は、暫く黙り込んでいたかと思うと不意に口を開く。
「甘味屋に、行きました」
「まあ!」
いくら提案したとはいえ、まさか本当に皇毅が行くとは思わず、華蓮は驚きの声を上げる。
「餡蜜は、甘いですね」
「それはもう。餡蜜ですもの」
当たり前のようなそれを、新鮮であったかのように話す皇毅がどこか微笑ましく、ついつい華蓮は笑う。
「お団子も、杏仁豆腐も、甘いですわ。ああ、よろしかったら、帰りに寄りましょう?」
華蓮の提案に、皇毅は答えず、ただ食い入るように華蓮を見つめた。無言の肯定なのか、しかしその表情は是とも否ともとれない、ただ真剣そのもので、華蓮はきょとんとする。
「もしもし?」
返事はない。さすがにおかしいと思い、皇毅の顔を覗き込む。
「あら? 顔色が…」
皇毅が華蓮の髪に手を伸ばす。耳の横から首の後ろに手を回したかと思えば、もう片方の手で華蓮の片手をとった。
「あ、あの……?」
近い。そしてその目が怖い。華蓮は、突然蛇に睨まれる蛙になった気分だった。気迫とでもいうべきものに押され、身がすくむ。恐怖のせいか、上手く力が入らない。
ともかく離れようと華蓮が思い立った瞬間、首の後ろに回っていた皇毅の手がぐいと華蓮の頭を押した。
ふにゅ、と触れる感触に、へー男でも唇って柔らかいんだなあ。と、なんとも他人事のように考えていた、或いは一種の現実逃避をしていた櫂兎だったが、
唇に温かいぬるりとした感覚が触れたところで、まさにそれは己の現実であると認識した。
それからの櫂兎の行動は早く、掴まれていた手首を捻り手刀で叩き落とし、皇毅の身体を押し退けては、走る軒から飛び降り駆け出した。
道を逸れ、木々を抜け、駆けて、駆けて、駆けて、どれくらい離れたろうか。
櫂兎の緊張の糸が、そこで限界を迎えたかのようにぷちりと切れた。つられて崩れ落ちた身体を無理矢理に起こして、また数歩進むも膝をつく。
眩暈がする。頭が割れそうなまでに痛い。息が、上手くできない。
――気持ちが、悪い。
震える手で櫂兎は己の唇に触れる。
彼は、真剣だった。真剣だったのに。彼のその想いを向けた人物は、どこにも存在しない。応えられるはずもない、騙している。騙しているのだ。
「酷い話」
『華蓮』に焦がれる人間は、居もしない女性に想いを寄せて、返ってくるはずもないものに真摯になって。俺はといえば、そんな彼らに罪悪感に襲われる。なんていいことのない。頼むから、頼むから、と何の祈りかも分からないことを、それでも必死に思わずにはいられない。
ああ、知らない振りをしたかった。はぐらかしてしまいたかった。
櫂兎は乱暴に拳で口を拭う。手の甲には口紅がついた。
妹への誓いは、永遠に果たされることがなくなった。それを考えた途端、絶望感に襲われる。ごうごうと血が激しく流れ、指先がじんじんとしびれてくるにつれ、嫌な汗が出てくるのがわかった。
胃がひっくり返るかのような感覚に、ひどい吐き気をおぼえ、喉の奥からせりあがってきたものを、櫂兎は近くの繁みに吐き出した。
「う、うう…」
気持ちが悪い。えずきながらぐすぐすと泣いては、ずんずんと沈んでいく心に鬱々とする。
その時、木々を誰かが大きく揺らす音がした。皇毅が追いかけてきたのかと、櫂兎はぶるりと震え怯え、身体を縮こませて音のした方向を見る。
そこにいたのは清雅だった。
ほっと息をついた櫂兎に、清雅は駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
櫂兎は「大丈夫じゃねえようげー」とでも返したいところだったが、言葉のひとつも発せないでいた。
心配そうに手拭いを差し出し、しゃがみ込んでいる櫂兎に寄り添うように片膝を折って、清雅は櫂兎の背をさする。
「汚れるよ」
「構いません」
なんだよ紳士かよ嫌そうな顔のひとつもしろよ。どうせセーガ君のことだから、内心は良心の欠片もなくやってるだろう行動なのに、なんでこんなに優しいんだよ。泣きそう。というかもう泣いてる。
なんだか、もう、散々な気分だ。
差し出された手拭いを受け取り、櫂兎はそれを遠慮なく汚す。おかげで、幾分かすっきりした。
そうして少し考える余裕ができてくると、失われてしまったファーストキスが悔やまれて仕方がなくなってくる。ぼそり、と櫂兎は呟いた。
「くそ…ファーストキスは妹のセカンドキスに捧げるはずだったのに」
「……え」
清雅が、櫂兎の顔を見て目を見開く。
「おい、まさかお前、棚夏…」
「…………あっ」
被っていた猫の皮も彼方、いつもの、『櫂兎』に対する時と同じの清雅の態度に、櫂兎はこの姿の自分が『櫂兎』だと気付かれてしまったことを悟った。
櫂兎には、確かに清雅に、ファーストキスは妹へ捧げる予定であることを意気揚々と語った覚えがあった。落ち込んでいたからか、普段ならそうそうない失言に、俺のお馬鹿ちゃんと櫂兎はうなだれる。
泣いたせいで化粧が落ちたのも、気付かれた一因だろう。櫂兎は踏んだり蹴ったりな気分だった。
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