緑風は刃のごとく 85
蘇芳の父・淵西の毒殺未遂事件から幾日。いつもの通りに仕事中、丁度つかいで他部署へ寄った後副官室へ行こうというときに、櫂兎は晏樹に捕まった。


「……こんなところにいらっしゃってよろしいのですか」

「いいんだよ」


よくねえよ! と、声に出しかけてとどめる。どうして自分がという思いはあるが。
唯一の救いは、二人きりでないことだろうか。そう、今は邑がいるのだ。
あの甘煎餅の一件から懐いたのか、邑は度々櫂兎と行動を共にして、小間使いのようなことをしてくれていた。もちろん、彼を機密などには関わらせない配慮をしているが、一般事務でなかなか優秀な配慮をみせていた。正直、幼い見た目で侮っていたのを反省したくらいだ。
現れた晏樹に怯えながら書類を抱え直した邑を、晏樹は気にしていないらしく、あくまでターゲットは櫂兎だったが。


「滅多にない面白いものが見られたんだけれど、君くらいしか信じてくれそうな人がいなくてね。きいてくれるかい?」

「……幽霊でも見ましたか?」


『幽霊』の単語に邑はぴくりと反応したが、晏樹はきょとんとしていた。


「それって面白いの?」


理解し難いという風に言ってから、晏樹は妖艶な笑みを浮かべて、櫂兎を捕まえた本題とでもいえることを告げた。


「あの紅黎深が、紅秀麗をみて放心して膝をついたんだよ」

「へ、へえー、それは……」


いつものことな気もするが、話す晏樹はとてもご機嫌だ。そんなところに水をさすのも悪いので、黙っておくのが吉だろう。
なんだかその場で話を続けていたら、「膝をつかせるだけじゃなく床を舐めさせたい」とでも言いそうな顔をしていたので、櫂兎は邑と一緒にやんわり話を逸らしてそそくさ逃げ出した。




逃げ戻ってきた副官室で櫂兎達を出迎えたのは清雅だった。


「セーガ君だ!? ええっ、セーガ君から来てくれるなんて、これは明日雹でも降るんじゃないかな」


歓迎しようと櫂兎が笑顔を浮かべたところで、清雅の様子がそんな風なものではないことに気付く。
不満、だとか、不機嫌という言葉が似合いそうな様子で、若干苛々もしているらしい。何かしただろうかと理由を考えているうちに、邑が清雅に追い出され、副官室に二人きりになってしまった。


「……内密にする話でも?」

「関係ない奴に聞かせる話でもないからな」


一体何用か、思い当たる節が全くない櫂兎は、清雅の言葉を待った。


「お前、あの時『はじめまして』なぞと言ってたろうが」


八つ当たりでもするように、乱暴に言い捨てた清雅に、櫂兎は眉を下げた。


「あれはセーガ君が『はじめまして』って言うから」


しかし、その言葉で櫂兎は副官室に彼が訪ねてきた理由を理解した。清雅は楊修が冗官ではないことに気付いたのだ。
清雅は困ったような顔をする櫂兎に舌打ちする。


「紅秀麗とは知り合いだと明かしただろう。わざわざ伏せた癖によく言う」

「いやあ、だって。あの組み合わせは見ものだったし、セーガ君が一泡吹いてくれちゃったら、楽しいかなぁなんて思ったりして」


へらり、と笑ってのけた櫂兎に清雅は地獄の底から漏れたような低い溜息をついて眉間をおさえた。彼は己をからかっているだけで、これもその一環だったのだろう。…屈辱でしかない。泡は泡でも、怒りで血が泡を噴きそうだった。


「楊修、といったか。奴はお前の何だ?」

「俺の後輩」


その一言に納得がいったと同時に衝撃をおぼえる。ああ、またか、と。


「お前は俺の矜持にばかり容赦がないんだな」


ここはそういう場所だというのは分かって入朝したし、悔しい思いは飽くほどした。その度に食らいついて足掻いてきたことが、自分をかたちづくっている。それは、紛れもない事実だ。

けれど、食らいつくのすら許されなかったことがある。赤子を相手どるように、まるで歯牙にもかけていない風に、知らぬ間に全てが終わっていたことがあった。とる策なす術全てを取り払われ徹底的に打ちのめされたことがあった。今回の件も――
棚夏櫂兎という人間は、清雅の中では鬼門とでもいうべき存在だった。

清雅が睨みつければ、彼は表情を固まらせた。人の怒りに触れるのに慣れていない人間の目をしていた。怯えているらしかった。
自分が原因の癖して、ひどいものだと鼻で笑った。

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空中三回転半宙返り土下座
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