緑風は刃のごとく 73
帰宅後。櫂兎が明日のお弁当のおかずの下準備をしていると、不意に背後に馴染みのある気配を感じた。


「瑤旋……?」


返事はない。振り返ってみるが、気配のした先には闇が広がるのみだ。
闇の中から、ばさばさと鳥の羽ばたくような音がした。それと同じくして、馴染みの気配も遠ざかる。……逃げたな、あいつ。

此方への用事ではなかったのだろうか。そもそも立派な不法侵入じゃないか、と眉根を寄せたものの、彩雲国ではまず法から違うことを思い出して溜息をつく。多分、彼が立場や権力を利用すれば、櫂兎の邸に勝手に侵入するのに正当性こじつけるのは容易なことだろう。
しかし、さてはて。他人の家に侵入までしておいて、一体何をしていたのやら。今度会ったら問い詰めなければならない。彼はろくでもないことばかりするということを、櫂兎はよく知っていた。







「棚夏さん、棚夏さん! 味見してもいーい?」

「沙羅ちゃん……もう四枚目だよそれ」

「だって美味しいんだもん」


そう言ってはにかむ沙羅に、櫂兎はやれやれと苦笑いしながら、「貘馬木殿には我慢してもらおうか」と言った。沙羅はその返事に無邪気に喜び、梦須用に分けられていた、小皿の上の甘煎餅…いわゆるクッキーに飛びついた。味わうようにクッキーを噛み締める彼女の表情は、幸せそのものといった風で、とても微笑ましい。

昨日の沃のリクエストを受けて、櫂兎は朝からクッキーを焼いていた。今回はプレーンと紅茶の二種類だ。これなら彼も茶菓子として満足してくれるだろう、多分。……仕事場に茶をしに行っているみたいじゃないか、これでは。
ちなみに今日のお弁当三人分は、すでに準備ができている。今焼けたクッキーの粗熱がとれたら、包み次第出発だ。


「うまそうな香りがする〜」


香りにつられたのか、庖厨所に顔を出した梦須に櫂兎はしっしと手を振った。


「貴方の分はありません」

「冷たい」

「より正確に言うなら沙羅ちゃんのお腹の中です」

「さ、沙羅……お前……」


がーんと重い音が聞こえてきそうなほど、目を見開いた梦須に、沙羅はどこか諭すような瞳で微笑んだ。


「……父様、じゃくにくきょうしょくって知ってる?」


沙羅はつよかった。彼女の前に、梦須は犠牲となるしかなかった。


「あ、でも父様にも半分あげる〜」


項垂れる梦須に、手元に残っていた一枚をぱきりと半分にして、沙羅は差し出した。そのとき梦須には、沙羅が慈悲深い女神に見えた。
差し出された半分のクッキーも、彼女の手に残った半分のクッキーも、本来ならば梦須のものであったということは、口に出してはいけない雰囲気だ。櫂兎は素直に口を閉ざし、幸せそうに抱き合いクッキーを味わう父娘を優しく見守るのだった。







昼の休憩時刻を報せる鐘に、櫂兎は筆を置き、ひとつ伸びをした。


「これなら、お茶するだけの余裕はあるかな。いやあ、よきかなよきかな」


進捗具合に満足し、こくこく頷きながら席を立つ。沃とは、夕方頃にでもお茶をしようと今朝約束した。書類処理の仕事がこのところ多く、時間が割けるか微妙なところだったが、案外何とかなりそうだ。

未だに座る踏ん切りのつかない副官席をみつめつつ、櫂兎は 執務机の前に置いた小さな椅子から立ち上がる。それから、お弁当三人分の詰まった重箱を包む風呂敷片手に、このところの日課となっていた 蘇芳の父・淵西への面会人、差し入れ品の確認に向かった。

すっかり顔なじみになった獄吏に今日はどうだったかを訊くと、つい先程、榛蘇芳名義で付け届けられていたという重箱があった。
届けた人間について訊くと、使いの者だと言って名乗らなかったらしい。侍童の姿をしていた、とはいうが、容姿については要領が得ず、「黒髪だったような気がする」とのことだった。付け届けに関して、何も疑問を抱かなかったらしい。


「毎日熱心に、本当孝行息子ですよね」


そういって優しい目をする獄吏に、櫂兎は額をおさえる。
実は付け届けをした者に協力していて、これが演技だという可能性だってあるが、目の前の彼を見ている限り、そんな感じが全くしない。とはいっても、その辺りの判断には素人な櫂兎だ。後で取り調べもはいるだろう、素直に専門家に任せよう。
櫂兎自身としては、ここ暫くで親しくなった、人のいい獄吏をあまり疑いたくはなかった。

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空中三回転半宙返り土下座
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