劉輝が忙しそうに書類に印を捺していたことは悠舜も知っていたし、あれでは中に目を通せていないであろうことも想像がついていた。――あの書類は、そこまで踏んで用意されたものだ。
黎深がこの件を認識していない節もある。黎深が仕事に全く手をつけず、絳攸が代行しては精神を摩耗させていた頃。そこを狙って、この件は通されたと悠舜はみていた。それを証明する手立てはないが。
「済んだことは仕方がありません。次に活かしましょう。
しかし残念ですね、先を越されてしまいましたか」
「先?」
机に突っ伏していた劉輝が、顔だけ上げて悠舜を見る。
「ええ。彼が表に出てこなかった理由が明らかになり、もしそこに問題がなければ、事前に打診して彼を吏部に戻すこともできたでしょう。こうして大々的に言われてしまっては、引き抜きは難しいでしょうが」
「『櫂兎は御史台のものだー』と言ったようなもの、ということか?」
「そうなりますね。尤も、勅命であれば吝かではないでしょうが、先の春の除目で着いたばかりの副官を奪うことになりますから……」
「む、ぐ、ぐう〜っ」
劉輝は頭を抱えてしまった。それから、ふと思った。
「櫂兎がそんなに凄かったのなら、吏部にいた頃に何故尚書を辞めさせなかったのだ? 罷免権を失ったのも、随分経ってからなのだろう?」
「そうですね。……一度、主上もお考えになって下さい」
「むむむ」
言われて素直に考え悩みだす彼に、悠舜は口元をゆるめた。
黎深の手による侍郎付き人の権限変更で、一番存在が大きかったのは、実のところ罷免権ではなく、人事権や仕事の裁量権限だ。櫂兎の越権行為にも繋がったこれだが、きっと、変更がなされるまでは櫂兎がそこに手を出すことで、吏部もある程度回っていたのだ。そこまで黎深という問題を先送りにして、櫂兎が吏部の機能の、変化でも修正でもなく維持を選んだ理由は何か。
「あの時は、黎深にばかりお説教しましたが、櫂兎にも必要でしたかね」
「む?」
「いえ、独り言です」
きっと彼のことだから、自分がその件を解決することをよしとしなかったのだろう。それは遠回りで、非効率的で、周りの被害だって尋常じゃない。
「絳攸に期待して、か?」
劉輝も、その答えに至る。
分かっていたのなら、何もかも言ってしまえばよかったのにと思っていた劉輝だったが、それでは価値がなかったのだろうと漸く思い至った。彼は、絳攸にこの件を委ねることを決めていたのだ。
これに思い至ったであろう、当事者の絳攸は辛かろうと劉輝が目を伏せていると、悠舜はそれに気付いたように苦笑した。
「半分は自棄を起こしてだと思いますけれどね」
「櫂兎が?!」
いつも涼しい顔して大抵微笑んでいる彼が自棄になるところなど、劉輝には想像もつかなかった。
「彼はあれで、器用な方ではないですから。お節介焼きな癖に、肝心なところで腰が引けるらしく、どこか一歩引いていて。しかし一度決めると頑固で、どれ程のこともあっさりとやり抜いてしまいますから性質が悪い」
悠舜の物言いに、劉輝は目を見開く。悠舜がこんな風に人を言うところを、劉輝は見たことがなかった。
「悠舜は、櫂兎が嫌いなのか?」
劉輝の問いに一瞬きょとんとした悠舜は、綺麗な微笑みを浮かべた。
「まさか」
仲がいい故ですよと付け足した悠舜に、それもそうかと劉輝は頷く。自分で問い掛けておきながら、何故そう考えたのか劉輝は不思議に思った。
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