星にねがいを
「先生、手を出してください!」
任務帰りに街中を歩いていた。
偶然サクラが声を掛けてきて、カカシの手に乗せたのは黄色の和紙が長方形に切られたものだった。
「何よこれ」
カカシの間抜けな質問に、サクラは信じられないと言う顔をした。
「先生、短冊ですよ!短冊!」
「あー、今日は七夕だったか」
「もう、先生ってイベントに鈍感なんですね」
少し進んだ先にある山中花店の店先には立派な笹の葉が飾られており、吹き流しと五色の短冊が結ばれてる。笹の葉の下には記入するための小さなテーブルが用意され、楽しそうに願い事を書くナルトの姿があった。きっと、ナルトは火影になると書いているんだろう。教え子達の願い事を考えていれば、自然と目が細くなる。カカシに気付いたナルトが手を振った。
「おーい!先生も書こうってばよー!」
ナルトのもとへ行けば、やはりナルトは火影と書いていた。
サクラは既に短冊を飾り終えたようで、ナルトが終わるのを待っていたようだ。カカシにもペンと結ぶ為の紙紐を渡して来た。
「先生もほら!」
「んー、俺の願い事ねえ……」
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翌日。いのいちが神社で笹の葉をお焚き上げして貰っているのを見掛けた。カカシは思わず足を止め、燃えて行く短冊と笹の葉を見ていた。あの中にも自分の短冊が入っているはずだ。
「カカシも願い事書いてくれたそうだな」
「教え子達に言われちゃいましたからね。それにしても、ちゃんとお焚き上げするんですね」
「人の願いをちゃんと天の川に届けないと罰当たりだからな」
カカシは半分夜の色に染まった空を見つめた。焚かれた笹の水分がパチパチと爆ぜる音がする。灰色の煙は、風のない空へもくもくと上がり、溶け込んでいくかのようにいつの間にか消えた。
「届きますかね」
「ああ、必ず」
その夜、カカシはベッドに入って思い返す。
カカシも短冊を書いて括り付けたが、教え子達には見せずに終わらせてしまった。ま、あんな願いを教え子に見られる訳にもいかないし、かと言って、天に届ける短冊に望まないことを書くのも気がひけてしまったのだ。恥ずかしいくらいに、本当に心から願っていることを書いてしまった。きっと自分は、神にも藁にも縋りたいほどにそれを望んでいるのだろう。だが、別に叶うなんて期待はしていない。いや、叶うわけないのだ。
明日はナルト達と任務だ。時計の針はまもなく明日を指す。そろそろ寝よう、カカシは目蓋を下ろした。
「ねえ、カカシ」
名前を呼ばれ、目蓋を上げる。変わらずカーテンの隙間から月の光が差し込んでいる。空耳かと、カカシは再び目蓋を下ろした。
「カカシってば、起きてるんでしょう?」
脇腹をつんつんと突かれ、あまりにも懐かしい感触にベッドから飛び起きた。
「カカシったら、オーバー過ぎ」
ベッドに腰掛けて、クスクスと笑う女の子がひとり。あの時から全く変わらない姿。カカシは混乱する頭をフル回転させる。が、状況が全く理解できない。
「え?なんで?」
「だって、カカシが私に会いたいって言ったんでしょう?」
「俺が?」
「ほら、短冊に書いてくれたじゃん」
「あ、そうか……」
「ちゃんと届いたんだよ」
名前がカカシに向き合って、その重みでベッドがギシリとしなる。その音を聞いて、ああ、本当に名前が居るんだとカカシは辛うじてそれだけ理解した。
「私も会いたかった」
名前が腕を伸ばせば、カカシはその腕を絡め取った。
「名前、本当にいる」
「うん、いるよ」
名前の腕がカカシの背中に回される。互いの間に隙間ができないように、体をぴったりと付けた。ああ、名前はこんなに柔らかくて温かいんだった。カカシは懐かしい感触に身を震わせた。
「すっかり大人になったね」
「もうおっさんだよ」
重ねた頬を離して、今度は唇を重ねる。
「大人のカカシも好き。何だか丸くなった」
「昔の俺は……尖ってる所じゃなかったからな」
「でも、昔から私には優しくしてくれた」
「そりゃ、ねぇ」
名前の体をベッドに寝かせ、カカシも横に並んだ。指を繋いで向き合う。
昔の自分は、ずっと名前とこうやって一緒にいられる。そう思っていた。暗部として里の安寧を守り決して人々から称えられず、時には肉を切り血を被る毎日だとしても、名前がそばに居てくれるのなら何てことないと思っていた。毎晩のように名前と愛しあい、互いの任務で離れていても一緒にいる。そう感じられる幸せな毎日だった。
しかし、ある日突然にその日常がストンと幕を下ろして終わってしまった。名前だけがいなくなった生活は、この上なく退屈で救いがなかった。名前が使っていた櫛、洗濯物の名前の匂い、汗っかきの名前が喉を潤す為に使っていた大きなコップ、名前がいた痕跡は幾らでも残っているのに、名前だけが世界からいなくなった。所有者を失った物達も、カカシの目には置いていかれたと寂しがっているように見えた。
そして、カカシが何よりも恐ろしくて堪らなかったのは、記憶の中の名前だけがどんどん色褪せて行くことだった。ひとつも記憶を零すまいと手を伸ばし、必死に掻き集めても、思い出す度に名前の記憶が減っていく。
声だって鮮明に思い出せないことに気付いた時、絶望の二文字がカカシの頭を支配した。こうしてどんどん名前のことを忘れ、全てを忘れた時、自分はどうやって生きていけるだろうか。どんなに考えたって、カカシには想像がつかなかった。
「名前、ずっと俺のそばにいてよ」
「カカシと一緒にいたいよ……でも、無理なの」
「どうして?」
「私はこの世の人じゃないもの」
「そんなの関係ない。次は俺が守るから」
「そう言いたいよ……」
泣き出しそうな名前に気付いたカカシは、名前を抱き締め本当にごめん、ごめんね、そう繰り返した。彼女を泣かせたくて自分は七夕に名前に会いたいと願った訳じゃない。
「ごめんね、カカシ。いられるのは今夜の星が出ている時だけなの」
「それだけ……」
余りにも短い時間に、カカシは狼狽えたが、一目再び名前を見られただけでも、こうして実際に触れられるだけでも夢のようなのだ。実際に今の自分は燃え尽きてしまうのではないかと言うほどに満たされている。死ぬならこのまま死にたい、そう思ってしまう程に。
あの世のことは分からないが、短冊に書いただけで自分のもとへ来られるとは思えない。きっと、彼女が努力してくれたに違いない。名前に感謝をしなければ。カカシは、名前に深いキスをしてから、鼻先にも唇を落とした。
「朝まで愛し合おう。名前が生き返りたくなっちゃうくらいにさ」
「うん……」
そこからは、互いの息と汗と体温を混ぜ合った。
そうだ、名前はここに触れるとこんな顔をして、こんな可愛い声を出すんだった。目の前にすれば、失ったはずの記憶が湧き水のようにどんどんと蘇る。カカシは瞬きも忘れて、どんな瞬間の名前も逃すまいと見つめ続けた。
「カカシ、見過ぎ……」
羞恥心から横に傾けて目線を逸らす名前の顔を、カカシは手のひらを添えて向き合わせる。
「我慢してよ、俺は可愛い名前をずっと忘れたくないの」
「……いじわる」
濡れた瞳を震わせながら、名前もカカシに応えようと見つめ続けた。時間が許す限り、カカシと名前は体を繋げ、求め合った。
互いの精魂が果てて、やっとカカシは名前から体を離した。
「喉乾いた……」
「水持ってくるよ」
「私も行く」
カカシは下着だけ履いて、名前には自分のシャツを着させた。大きめのコップに冷たい水を注いでから、ダイニングの椅子に腰掛けた。
「このコップ、まだ持っててくれたんだね」
「名前の喉が乾いた時はこのコップって決まってるでしょう。俺だって大切に使わずにいるんだから」
膝に名前を乗せて手渡せば、名前はそれに口を付けてコクコクと喉を鳴らした。半分ほど飲んだ所で、名前はカカシを見上げる。名前の丸い瞳も控えめな睫毛も、何も変わらない。愛おしい、それだけがカカシの中にあった。
「アイス食べる?」
「うん!」
カカシは冷蔵庫からバニラアイスを出して、まだ硬い表面にスプーンを突き刺した。ちょっと溶けるまで待っていよう、名前がそう言って、テーブルの上にあったチラシの裏に絵を描きだした。鼻歌も歌い出して楽しそうな名前を再び膝の上に座らせる。
「描けた!」
「んー?もしかして俺?」
「正解!」
眠そうな自分がピースをしていた。
「相変わらず下手だねえ」
「カカシよりはましですー」
溶けて縁が緩くなったアイスを、カカシはスプーンで掬い名前の口に運ぶ。
「冷たくて美味しい」
「ほら、もうひとくち」
今度はスプーンからはみ出るほど、沢山アイスを掬い上げた。
「多い!」
「いいから、いいから」
大きく口を開けて何とか入れたものの、バニラが口の端から零れてしまった。カカシが舌で垂れたバニラを舐めとる。柔らかく熱い感覚に、名前は声を上げて笑う。カカシはがっちりと膝に名前固定したまま、アイスを口に含んでは逃げる彼女の唇を追い掛けた。
追い掛けっ子をしながら何度もアイスを分け合い、なくなった頃には名前のシャツは首元まで捲り上げられいた。アイスで冷たくなった舌が、名前の肌を滑って行く。名前は涙を溜めた瞳で見つめた。
「カカシ、好きだよ。今でも」
「俺も今だって好きだ」
シャツを脱がせてから、再びカカシは名前と体を繋げた。腰を掴んで揺すれば、名前は息を荒げながら、膝から落ちないようにカカシにしがみつく。カカシが果てて、名前の中がカカシで満たされた。
「カカシ……私の事忘れないで」
「忘れたくない、忘れないよ」
縋るような名前の声色に、彼女も離れたくないのだとカカシは理解する。でも、そうは行かないのだと彼女は言った。それならば、名前が心置きなくあの世へ戻れるように、カカシは気丈に振る舞うしかない。
「あのね、カカシ。私はいなくなった訳じゃない。待ってる、待ってるから。だから、早くこっちに来ちゃだめよ。長生きして、お土産話沢山持ってきてね」
「分かった。面白い話引っ提げてそっちに行く」
「待ってる、きっとおじいちゃんのカカシも格好いいんだろうな」
「ま、楽しみに待っててよ」
名前の唇が降りてきて、カカシは瞳を閉じて受け止めた。
「ありがとう」
そう声が聞こえた時、目頭が熱く重く感じた。それから一瞬だけ沈黙が訪れた。
ジリリリリリーー
目覚まし時計のベルが鳴る。目を開けば、霞んだ朝日が窓の向こうに見えた。椅子に座っていたのに、いつの間にかベッドにいた。起き上がれば変わらないひとりぼっち。
もしかして、全て夢だったのか?
そうだとしたら、随分と幸せな夢だった。今までどんなに願っても出てこなかった名前が、七夕のお陰で出て来てくれたのだから。
こんなに良い夢を見るのは久しぶりで、こんなに目覚めが良いのも久しぶりだ。だが、それと同時に現実でなかったことへの辛さがカカシの胸でぶつかり合った。
「名前……」
カカシの口からついて出た名前が、いつもの部屋にポツリと浮かんで消えていく。夢の中では散々呼んでいた名前が届かなくて、今はどうしようもなく虚しい。良い夢だったが、こんなに虚しくなるのなら見なきゃよかった。
ベッドから降りると、自分が下着一枚しか履いていないことに気付く。夢を見ながら脱いでしまったとしたら、随分と間抜けなことだ。
名前との夢を思い返すように、キッチンへと足を運ぶ。コップは綺麗なまま棚に戻っていた。アイスのスプーンもいつもの場所に戻っていた。やっぱり夢だったのかもしれない。ひとつひとつ思い出すように、カカシは名前が触れた場所に触れて行く。
ダイニングテーブルのチラシ。それを裏返した。
ツルツルの裏側には、下手くそな似顔絵が描いてあった。
ああ、やっぱり名前は来てくれたんだ。
昨夜の夢は、夢じゃなかった。本当に自分の願いは叶ったんだ。カカシは堪らず目頭を押さえた。
ひとしきり嗚咽を漏らし、落ち着いてから支度をする。
いつも通りの自分に戻り外に出れば、痛いくらいの日差しがカカシの肌に刺さる。今日も自分は生きている。
約束をした。だから、名前に会えるその日まで、自分に出来ることをやるだけだ。
「さて、今日も頑張りますか」
今日は集合時間に間に合いそうだ。
星にねがいを end.
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