人形姫・10
火影室の前でカカシはひとつ、溜め息によく似た深呼吸をした。
この扉を開けなければ、きっと。
カカシの胸に叶わない期待だけが砂粒の中に混じった石英のように光る。その光はあまりにも小さく鈍く、頼りにするにはあまりにも脆い。
また、ひとつ深呼吸。ノックをしてから、ドアノブを回す。経年劣化で軋む音さえ、カカシを煽ってくるようで煩わしい。
「失礼します……」
「来たか、カカシ」
綱手の姿はなく、ホムラとコハルが座っている。やはり。
皺が深く刻まれた二人の眉間、たまに見るよりも今日は一層深い。カカシが頭を下げれば、ホムラがそれを合図かのように口を開いた。
「カカシ、名前さんのことだが……」
「…………」
「戸籍では木ノ葉出身の非戦闘員だと書かれておるが、実際には時空間忍術で異世界から来た人間だそうだな。その監視責任者、それはお前だそうだな」
名前のことは、暗部と三代目が信頼する忍しか知らないことだ。綱手もそれを分かって、戸籍を作る時に出生を木ノ葉にしてくれた。紅やアスマがバラすのは有り得ない。恐らくは、根が相談役に漏らしたのだろう。どうしてこんなことをするのか。いや、理由は分かっている。
「はい」
「……」
無駄だと分かっていても、時間稼ぎをしようとしてしまう。だが、ホムラとて分かりきっている。
「カカシ、本題だ。名前さんをどうする?」
ほら来た。カカシはじっとふたりを見据えた。
「名前は、これからも私が守ります」
相談役から溜め息。こんな回答を期待していないこと、カカシだって分かっている。
「カカシ、本気で言っているのか?」
「相談役のおふたり目の前に、冗談なんて言えません」
「お前は里をどう思っているんだ」
「里を守って、名前も守ります」
「なんと無茶を……。綱手と自来也がいても殺せなかった大蛇丸、今や世界中で恐れられる犯罪者集団の暁から、本当に守れるか?」
「守ります。この命を掛けても」
ずっと黙って伏していたコハルが、顔を突然上げた。
「余所者を守る為に、カカシ、お前が犠牲になることはない。里にとってはカカシの命の方が大切だ」
何と酷い言い草か。名前の命なんて、どうでもいいとでも言いたいのか?カカシは拳を握りながら、ぐっと堪える。
「お言葉ですが、それはおかしいかと。彼女が今までどれだけ里に貢献して来たかご存知でしょうか」
「火影の事務員をしていた、それは彼女を守る為だそうだな」
「はい、それは大事な目的のひとつでもありました。しかし、それ以上に彼女が木ノ葉を想い、頑張ってきた成果が評価されたからです。綱手様だって、そうでなければ火影周りの雑務を任せたりしません」
相談役とカカシの間に火花が飛び散る。こんなに反抗したことは初めてで、きっといつもの自分なら有り得ないだろう。しかし、こればかりは譲れないのだ。ホムラとコハルは相当に苛立ち始める。
「お前……ワシの言いたいことを分かっておるよな?」
「はい、勿論。しかし、従うことは出来ません」
「そんなに物分かりの悪い忍だったか?」
プライドを傷付けられようが、逆鱗に触れられようが構わない。
「仕方ない……。カカシ、名前さんを元の世界へ返せ」
「出来ません」
「殺せと言わなかっただけマシだと思え!暗殺なんぞ、お前じゃなくて他の忍に任せても良いんだぞ!」
「木ノ葉の忍からでも、私は名前を守ります」
「カカシ!!」
「てめぇ!ちょっと席を離れた隙に何やってんだ!」
扉を蹴破る勢いで綱手が火影室に入ってきた。それは鬼だと見違うほどで、そのまま突進するかのように相談役の前に立ちはだかる。
「言っただろうが、名前はずっと木ノ葉で生きて行くと!呆けて忘れたか!?」
「はぁ……、なんと情けない火影だ。仕方ない……」
カカシは一歩、相談役に近付く。体中から殺気が立ち込め、それは相談役のふたりも包みこんだ。
「名前を殺すなら、まず私を殺して下さい。名前を殺したなら、必ず俺は自分に手をかけます」
火影室が静寂に包まれる。まさかカカシがそこまでの覚悟だと思っていなかったのだろう。
「私が話すことはありません。失礼します」
後ろで何か叫ばれた気がするが、カカシにはもう耳を貸そうとも思わなかった。
火影邸を出れば、空が暗くなっていた。気付かないうちに結構な言い合いをしていたようだ。
名前はもう風呂に入ってベッドで寝ているだろう。たまに、ソファーで寝落ちしていることもあるから早く帰ってやらないとな。カカシは少し早足で帰路を急いだ。
家に帰れば、名前はしっかりベッドで眠っていた。髪を優しく撫でながら、カカシはあどけない寝顔を見つめていた。
名前に初めて出会った時を思い出した。
修練の森の中で、花びらと共に降ってきた女の子。天使が降りてきたかと思いきや、人形のように美しいお姫様が降ってきたのだ。はじめは夢を見ているんだと思った。不思議と警戒心はなかった。得体の知れない女の子を疑うのは忍として必須なのかも知れないが、なぜかカカシはこの子は安全だと思った。
幼き頃から忍の第一線で生きてきた勘か、なんなのかは今となっては分からない。
カカシはベッド際に腰を預ける。スプリングが小さく悲鳴をあげた。カカシは一度重たく目蓋を閉じる。そして、虫の羽音よりも頼りない声で呟いた。
「名前、離れたくないよ」
いっそのこと、名前を連れて里を抜けてしまおうか。
誰も自分達のことを知らない地平線の果ての遠い国に行って、ひっそりと暮らそう。名前の為に、出来るだけ治安がよくて比較的豊かな場所がいい。その地で仕事を見つけても良いし、高い身体能力や忍の経験を活かした仕事を始めてもいい。順応する器用さと頭の回転の良さは自信がある。とは言え最初は苦しいかもしれないから、仕事が安定するまでは死ぬ気で頑張らないとな。
それから何と言っても、やはり子供を産もう。名前の子供なら男でも女でも可愛いから、出来るだけ沢山。
名前に似たら良い子だろうが、自分に似たら生意気に育つに違いない。名前には苦労掛けてしまうかもしれない。そしたら、男として父親として自分がしっかり躾けてやらねば。
最後のひとりが自立するまでふたりで育てて、またふたりにきりになったら毎日手を繋いで死ぬまで日向ぼっこなんかするのも悪くない。いや、むしろ凄く良い。
「名前はどう思う?」
カカシが名前の頬に触れると、擽ったそうに目を覚ました。寝ぼけながらカカシを見つけると、まだ開ききっていない目を優しく細める。
「起こしちゃったね、ごめん」
「ううん。おかえり、一緒に寝よう」
「シャワーだけ浴びてくるから待ってくれる?」
「うん」
「ありがと」
丁寧に音を立ててキスをしてから、カカシは浴室に向かった。
腕に袖を残したまま、カカシは考え込んでしまった。
忍のせいで自分の意思とは関係なしに連れてこられてしまったにも関わらず、木ノ葉が好きだと、木ノ葉のために頑張りたいと言ってくれた。今になって元の世界に戻れなんて、名前の気持ちを踏みにじるなんて。腹が立って仕方ない。
名前の為には元の世界に戻ったほうが良いに決まっている。そもそも生まれ故郷はおろか、生まれた世界が違うのだから。頭では分かっていても、心がそれを認めてはくれない。
「カカシ」
脱衣場のドアがカラリと開いて、名前が少し顔を覗かせた。カカシがどうした?と伺うように首を傾げると、体をドアの隙間から割り込ませて脱衣場に入って来た。
「寝汗かいたから、シャワー浴びたいな」
名前からこんなことを言うのは珍しい。カカシは名前を抱き寄せて、腰を屈めて唇に触れる。
「いいよ、湯張る?」
「逆上せちゃうから大丈夫」
「分かった。髪、洗ってあげるよ」
「私も。洗いっこね」
「うん、ありがと」
カカシは、気付かれないようにいつも通りを努めていた。
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