蝙蝠の求愛行動

有り得ざるifの話 前編


意識が途絶える手前、最期に聞こえたのは獣の哀しき咆哮だった。

それは長く、永く、深い眠り。微睡むような、まるで母の腕の中にいるような、緩やかな眠り。水泡が水面を目指すように。虫が光の明かりを目指すように。徐々に、しかししっかりと意識が浮上していく。まるで石のように重たい瞼と体。そして瞼は赤く、白く光が差し込む。瞼だけを、ミズノはゆっくりと持ち上げた。数回、瞬きを繰り返せば、霞がかった視界は少しだけクリアになる。

眩しい。それが最初の感想だった。どういった訳か、闇に支配されていた筈の周りには陽の光が満ちている。まるで、太陽が存在しているようだと。そして次に、指先に、ゆっくりとだが力を入れた。それは彼女の記憶の最期、自らの体が翡翠の水晶に呑まれていくのを見たからだ。ばくばくと心臓が嫌な音を立てる。ごくり、と無意識に唾を飲み込んだ。

――ぴくり。

指先は、何の問題もなく動いた。そのことに、ほっと、安堵の溜め息をつく。そして彼女は指先から手、腕へと徐々に力を入れていき、ゆっくりとだが上体を起き上がらせた。起き上がった体を改めて見回す。翡翠の水晶は体の何処にも見当たらなかった。どうやら、完治したらしい。そう安堵の表情を浮かべていれば、きらきらと、視界の端に何かが映り込む。

見慣れない色。それに恐る恐る、手を伸ばす。伸ばした先は自分の毛先。彼女は毛の先端を凝視した。深い青空のような、海のような髪の先端は、きらきらと翡翠色に染まっていた。その色を視界に留めた瞬間、ぎゅっと、髪の毛を握る。やはり、完全には回復していなかったのだ。何より、腰の下まで長かった髪の毛は腰の上ほどまで短くなっていた。髪には回復用のチャクラを溜め込んでいた。それがこれほど消費されたということは、それだけ、回復に手間取ったということなのだろうか。いや、もしかしたら……そこまで考えて、思考を打ち切る。たらればを考えたところで、仕方がない。こうして意識を取り戻したのは、元に戻れたのは、ほぼ奇跡と言ってもよかった。

彼女は改めて周りを見回した。陽の光があるお陰か、周りの景色がよく見えた。ミズノがいるのは防衛拠点から少し離れた雑木林。まずは、散策が大事だろうか。いや、それよりも。そんなことよりも。カーンの人々は、どうなったのだろうか。カマソッソは、無事なのだろうか。不安が胸の中でとぐろを巻く。ぐるぐると、それは大きな塊となり、全身を包み込んでいく。堪らず、カマソッソから貰ったネックレスをぎゅっと握った。深く、深く息を吸う。そしてさあ立ち上がろうとした時、頭上から何かがばさばさと大きな羽音を響かせた。鳥だろうか。散々討伐してきた怪鳥に見つかったのかと思い、重い体に鞭を打って直ぐ様臨戦態勢をとった。そして、真上へと視線を向ける。

「――――っ!」

視界に入った姿に、言葉が出なかった。口はわななき、声にならない声がもれる。喉に何かが引っかかったように息は苦しくて、目頭が熱くなり、全身で叫び出したくなった。

「カマ、ソッソ、様……」

ようやく出した声は絞り出したように震えていて、ミズノの顔はくしゃりと歪んだ。もう会うことはないと思っていた。その気持ちで、彼に別れを告げた。だがこうして、再び相見えている。例えカマソッソが異形の姿になっていても、こうして生きていることに、喜び以外の感情が見つからなかった。

目の端からぼろぼろと、透明の雫が零れ落ちる。カマソッソは無言で地面に降り立つ。そして、神妙な顔で口を開いた。

「……女。何故涙を流す。そして何故、このカマソッソの名を語るのか」

訝しむようで、少し不思議そうな表情でカマソッソはミズノを見つめる。ああ、そうだ。そうなのだ。私は彼から、私に関する記憶を消した。それが祝福を授けた代償だった。分かっていたのに、理解していた筈なのに、心が苦しくてならなかった。

「貴様はカーンの民か?」

訊かれた言葉に、何と返そうか躊躇する。

「いや、言わなくても分かる。カーンの民は総じて褐色の肌を持つ。しかしお前の肌は違う。つまり、お前はカーンの民ではないな」

どこか諦めたような、吐き捨てるようにカマソッソは口にする。その言葉に、ミズノは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。だって言ったところで、意味などないのだから。

「貴様は何だ。何故ここにいる。いや、それよりもだ。お前を見ていると、酷く、胸に痛みが走る。不快だ、この痛みはカマソッソには不愉快だ」

顔をこれでもかと歪めて言う彼に、彼女は静かな声で聞き返した。

「ならば、殺しますか?」

元より死ぬ筈だった身。カマソッソがそう望むなら、それも致し方ないのだろう。そう思い、膝を着き、首をカマソッソに差し出す。

「…………」

カマソッソはじっと、その旋毛を見た。まるで闇夜のセノーテの様な色の髪を、ただじっと。

「……やめだ。このオレとて、そこまで残忍ではない」

ふん、と鼻を鳴らした彼を、ミズノは仰ぎ見る。一人称がオレという言葉と、カマソッソと称する言葉が混ざっていることに気付いた。恐らく、何億もの民の魂をその身体に取り込んだ。きっと、その影響なのだろうと、推測を立てる。

「ただ、だからと言って貴様をこのままにするのも腹に据えかねる」

そう言った彼は膝を着き、屈んでいたミズノの腕を掴むとぐいっと引き上げ、その体をがっしりと掴んだ。突然の行動に、ミズノは目を白黒させる。

「あの、何を」

「賢きカマソッソはお前を連れ帰ることにした」

にやり、と悪どく笑ったカマソッソはそれだけ言うと大きく翼をはためかせる。そしてあったという間に、地上から離れてしまった。急に飛び立ち、どこかに向かうカマソッソをミズノは腕の中から見つめる。

「どこに向かっているのですか?」

「カマソッソは冥界の王だ。第四冥界線、ヤヤウキに決まっているだろう」

ニイッ、と歪められた口端と言われた言葉に、ミズノは違和感を覚えた。冥界の王と、カマソッソはそう言った。カーン王国の勇者王ではなく、冥界の王だと。認識のズレ、いや、これはそう言った物じゃないと、頭の片隅で考える。そうして無言のまま辿り着いたのは、黒々とした山脈が連なる、暗い洞窟だった。その洞窟の山頂へと、カマソッソは翼をはためかせる。山頂は人が住める程のスペースが広がっていた。その中心へと、ミズノは無造作に転がされた。その拍子に岩が腰に当たったのか、体を労わるように腰を摩る。

「女。貴様は何故あそこにいた」

カマソッソは無表情でミズノに問い掛ける。その問いには、微かな希望が孕んでいた。星喰いの怪物と戦いその末に負傷し、あの場にいたとは言えなかった。言ったとしても、信じて貰える可能性の方が低い。ミズノが口を閉ざしていれば、ふっと、空気が抜けるような声が響く。

「……語らずか。そのまま語らないならば貴様の血を拝領するが?丁度お前からはとても甘い蜜のような薫りもするからな」

「血を、飲むのですか?」

「何を呆けている。このカマソッソとて食事くらいする」

体の異形化に伴い、食の嗜好も変わったのか。違和感ばかりが、ミズノの胸の内に降り積もる。

「さあ言え、女。何故あそこにいた」

肩を掴まれ、力強い瞳で訊かれる。その瞳の奥には、何かを探すような、まるで迷子の子供のような色が見え隠れしていた。その色を、ミズノは感じ取る。口を開きかけては閉じ。また開かきかけて、短く息を吸った。

「……仲間を、大切な人を守る為に敵と戦った後でした」

「仲間?では貴様の仲間はこのミクトランにいるのか?」

ミズノはカマソッソを見つめる。どんなに姿形が変わっても、その顔は、その瞳は、在りし日と変わってなどいなかった。

「……どうでしょうか。あちらと連絡を取ることが出来ないので、それは分かりません」

「……そうか。貴様もオレと同じか」

そこまで言った後に、カマソッソはいいやと言うように首を振った。

「いや、オレは知らぬ。もう忘れた。だからお前とは違う」

まるで言い聞かせるように、彼はそう言葉を吐く。その言葉で、ミズノは粗方、察しがついてしまった。きっとカマソッソは、自分一人だけ残った世界に耐えられなかったのだ。心が、悲鳴を上げてしまったのだ。だから彼は、あの日々を、まるで夢物語のような御伽噺のような日々を忘却したのだ。

「――――何の真似だ?」

ミズノはカマソッソの頭を胸に抱き留める。例え目覚めた瞬間は一人だったのかもしれない。でも今は違うと、ミズノはそう思う。

「……私が、傍にいます。貴方の傍に、ずっといます」

ぎゅっと優しく、包み込むように頭を抱える。カマソッソは、為されるがままだった。

「……お前は奇なることを言うな。だが、このカマソッソの臣下となるなら、」

ぐっと力を込めてカマソッソはミズノを引き剥がすと、彼女の耳元で、悪魔の取引をするように囁きかけた。

「お前の血を受領しよう、拝領しよう。喜んで頂戴してやろう」

そして、ニヤリと口端を歪めると、勢い良く、ミズノの肩口に噛み付いた。

「ッ!!」

カマソッソの鋭い歯がぶちっと皮膚を突き破る音が響く。血が流れ出る感覚が分かる。そして皮膚を突き破ったカマソッソは、その喉をこくり、こくりと小さく動かした。ミズノの体に、鋭い痛みが走る。まるで縋るように、カマソッソの体に腕を回した。そして二人はまるで恋人同士が抱き合うように腕を絡める。

どのくらい経っただろうか。数分後、漸くカマソッソはミズノの肩口から口を離し、口元に付いた血をぺろりと舐めとった。その光景を、ぼうっとする頭でミズノは見つめる。まるでお酒を飲んだような酩酊感が体を襲う。くらくらと目眩がした。

「今まで飲んできたどの血よりも、貴様の血は甘露で美味いな。しかも魔力も漲ってくる。喜べ。明日からはその血をオレに捧げることを許す」

「あ、りがとう、ございます」

息も絶え絶えの中そう返せば、カマソッソは満足するように笑みを深めた。その日から、カマソッソとミズノの奇妙な関係が始まりを告げた。



次の日、ミズノが目を覚ますと、彼女はカマソッソの腕の中にいた。彼女の温い体温が気に入ったのか、それとも手持ち無沙汰だったのか、その夜、カマソッソは彼女を抱き締めるようにして寝ていた。カマソッソが寝ていることをいいことに、ミズノは彼の顔を観察する。言動が少し変わっていても、その寝顔はあの日々と変わらない、年相応のあどけない物だった。時々出る悪人面のような笑顔もない。こうして見ると、本当に顔が整っているなと彼女は思う。

「……人の寝顔の観察か?」

ぱちりと開いた瞼に、ミズノは僅かに肩を揺らす。盗み見ていたことがバレてどうも居心地が悪い。彼女は決まりが悪そうに顔を背けた。

「……起きていたのなら最初からそう言ってください」

「何故オレがそんな気を遣わねばならぬ。オレがどうしようがそれはオレの勝手だ」

ふん、と勝ち誇ったように笑ったカマソッソは体を起き上がらせると端がぼろぼろのマントを羽織り、どこかに出掛けようとする。

「お出掛けですか?」

「気になるのか?」

気にならないと言えば、嘘だった。民のいなくなってしまったこの国で彼がどう過ごしているのか、ミズノは気になっていた。

「私も連れ行ってください」

「…………」

「絶対に、貴方の邪魔にはなりません。お願いします」

頭を深く下げて、彼に請う。

「……好きにしろ」

それだけ言うと、彼はふいっと顔を逸らしてしまった。断れなかったことに、ミズノは内心、ほっと安堵のため息を吐いた。

カマソッソに抱えられ、彼は第四冥界線を飛び立つ。そして飛び立った方向は第九層のシバルバーだった。そこで彼はあること思い出す。第八層と第九層には毒が蔓延しており、ディノスですら近付かない。自分自身は毒の対策をしているが、この女は大丈夫なのだろうか。そっと、腕の中の存在に視線を寄越す。別段、変わった様子は見受けられない。そもそも、彼女が寝ていた場所は第九層だった。幸運なことに、毒に耐性のある体質なのだろう。そう一人答えを導き、彼は翼を動かす。向かうのは、たった一つのある場所だった。

「ここって……」

「カラクムルだ。大昔、カーンの民が築いたジクラットだ」

ミズノを下ろし、すたすたと先を歩くカマソッソに続くようにミズノも着いていく。歩く場所はどこも見覚えがあった。あの日、星喰いの怪物と戦った日々が脳裏を過ぎる。そして見たことのある景色を歩いていることに気付いた。確か、この先は……。そう思っていれば、カマソッソの足が止まる。必然的に、ミズノの足も止まった。

「…………」

カマソッソはただ無言で、その場所を見下ろす。その場所は、あの日、カマソッソの体を強化しようとカーンの人々が身を投げた場所だった。ミズノの胸に苦しい感情が浮かび上がる。カマソッソはそんなミズノを他所に、すたすたと階下に行く階段を降りていった。それに慌ててミズノも着いていく。

「……っ」

言葉が出なかった。そこには夥しい量の白骨化した人間達がいた。それは全て、あの日、身を投げたカーンの民だった。大きな人骨から、小さな人骨まで、それこそ、様々な骨がそこにある。ここで、カマソッソは何をするのだろうかと彼を見守っていれば、彼は、その一つ一つの骨を拾い上げた。

「なにを、しているのですか?」

「ここにいる者達は全て、オレの民だ。ならば、こんな薄暗い場所にいるよりも、元住んでいた国に返してやるのが道理だろう」

静かにそう述べるカマソッソは、腕に骨を抱えていく。その姿に、ミズノの心は締め付けられた。そして気付けば、彼女も骨を一つ一つ、拾っていた。

「……何をしている?貴様には関係のないことだろう」

「例え、関係がなくとも。この人達は貴方にとって大切な方達です。ならば私もそのようにするのは道理ですよ」

「……そうか。貴様は変わっているな」

言葉はそれっきり。そして二人は無言で骨を拾い続けた。でも決して、その無言は悪くない沈黙であった。


「飛びづらくはありませんか?」

「ふん。このカマソッソを舐めるな。貴様一人乗せて飛ぶことなど造作もない」

カマソッソの背に跨るミズノがそう問い掛ければ、カマソッソはふん、と鼻を鳴らす。自身の横でばさばさと動く翼に当たらないように気を付けながら、彼女は改めて、目の前の光景を正面から見た。

太陽のような光り輝く大きな球体が、鬱蒼と生い茂る緑豊かな森を照らしている。遠くには昔、よく仲間と取りに行ったトウモロコシ畑が小さく見えていた。彼女はこの時初めて、この世界の色を正面から見た。きっと、あの球体がこの世界の太陽なのだろう。自分がカーン王国にいた時には存在しなかった物が眩しくて、輝きが強くて、目を細めた。そうしてカマソッソはカラクムルを出ると一直線にある場所へと向かった。何となく、ミズノにも検討がついていた。目前に、大きな都市、カーン王国だった物が見えてくる。するとカマソッソはどういった訳か、大きくその国を迂回した。それにミズノは首を傾げる。

「カマソッソ様。あの国には寄らないのですか?」

そう言えば、カマソッソはその場で滞空した。

「貴様、知らぬのか?」

何食わぬ顔でそういう彼に、ミズノは尚首を傾げた。知らない、とは何をだろうか。

「あそこは今、ディノス達が住んでいる」

「ディノス……」

「このミクトランにおける霊長類だ。大方、太陽が復活して活動を再開させたのだろう」

それだけ言うと、彼は再び翼を動かし、元カーン王国の外れ、丁度研究施設があった場所へと向かった。カマソッソの背に乗りながら、ミズノは遠く離れる国を見つめる。彼はつまり、帰るべき故郷を失ったと、そういうことになるのだろう。国の為に立ち上がり、国の為に戦ったカマソッソへの仕打ちを思うと、彼女は胸が張り裂けそうなほど痛みを発した。

カマソッソは老朽化した施設へと降り立つ。それに合わせてミズノも彼の背から降りれば、彼は手に持っていた骨をそこにばらばらと落とした。骨と骨がぶつかる無機質な音が寂しく響く。彼は地面に膝を着くと、地面に穴を掘り始めた。そして彼の行動を見つめていたミズノもまた、カマソッソの隣へと移動し、何も言わずに穴を掘り始める。近くに落ちてある木の棒を使って、ガツ、ガツと穴を掘る音だけが静かに響く。カマソッソは自身の隣で言葉なく穴を掘るミズノを一瞥した。

「何故貴様も行う。貴様には関係のないことだろう」

「私がしたいから、するのです」

力強く、はっきりと明言する。その瞳に、迷っている意思はなかった。あるのただ一つ。過去を慈しむ、そんな気持ちだった。

穴を掘り、掘った場所に持ってきた骨を入れる。そして追悼するように、上から土を被せた。被せて、土をならしている時、ぽたり、ぽたり、と地面が濡れる。ミクトランに雨など降らない。ミズノは土を被せながら、ただ静かに、涙を流していた。埋葬し終えたカマソッソは立ち上がり、じっとミズノを見つめる。地面に手を置き、静かに頬を濡らす女を見つめる。

「お前は不思議な人間だな」

言われた言葉に帰ってくる声はない。ミズノは土に汚れた手のまま、ぐいっと手の甲で目元を拭った。あの戦いは無駄じゃなかった。だからこうして、ミクトランは今も存続している。でも、それでも。カマソッソの立場を思うと、彼に残された物を思うと、彼女は苦しくて息が詰まりそうだった。喉を切り裂かれたような痛みが広がる。心臓を握られたような苦しみが広がる。カマソッソが護りたかったものは、もう……。

「そんなに擦るな。傷になる」

ふいにぐいっと、手首を掴まれた。濡れる視界は水の膜を張っていて、見上げた先のカマソッソは水にゆらめくように滲んでいた。少しだけ背を曲げたカマソッソが親指で不器用ながらも滴を拭う。

「お前に泣かれると、オレはどうしたらいいか分からない」

だから泣くな。と溢れてくる涙を拭っていく。零れては拭い、また零れては拭い。必死にその滴を止めようと手を動かす。その必死さが、記憶を封印していても変わらない彼の優しさが、ミズノは温かくて緩く頬を持ち上げた。

「ありがとう、ございます。カマソッソ様」

ようやく止まった涙に、カマソッソは彼女の顔から手を離し、ふんと鼻を鳴らす。

「お前に涙など似合わぬ。カマソッソはお前の涙を拝領しない」

そしてカマソッソはミズノの体を抱き締めるとそのまま強く羽ばたいた。

「シバルバーの骨はまだ沢山ある。お前も手伝ってくれるのだろう?」

にやりと持ち上げられた口角に、ミズノは当たり前だと言うように満面の笑みを向けた。

「はい。ぜひ、お供させてください」

そして彼らは再びカラクムルへと戻る。それは勇ましくも後を託した仲間を弔う為。それは夜の時刻になるで、ずっと続いていた。



一部のカーンの民の遺骨の埋葬が終わった彼らは第八層、第四冥界線であるヤヤウキに戻っていた。それは寝る為でもあり、食事をするためでもあり、そしてもう一つが……

「…………」

湯治をする為である。
ヤヤウキの山頂のスペースの一画、ひっそりと存在するようにそれはあった。所謂天然の温泉である。成分が何であるかは分からないが、乳白色のお湯はいい香りがする。入るだけで、笑顔になるというものだ。だというのに、現在、お湯に浸かっているミズノは顰めっ面を浮かべている。それは彼女を取り巻く現状に問題があった。

「ここの湯は癒えによく効く。お前もそんなに固くならず、もっと寛げ」

「そ、そう言われましても……」

温泉にはカマソッソとミズノ、二人が一緒に入っている。カマソッソは覚えていないだろうが、以前二人は一緒に寝る仲だった。しかし、湯治を一緒に行ったことなどない。しかも体を隠す布すらない。お互い、生まれたままの姿である。カマソッソの体を見る機会があったとは言え、恥ずかしい物は恥ずかしい。ミズノは膝を抱えて体を隠すようにカマソッソに背を向けていた。

「何をそんなに固くなる必要がある」

オレにはさっぱりだと言わんばかりの口調でそう言われる。それでも、ミズノは頑なにカマソッソの方を向こうとはしなかった。

カマソッソはじっと、向けられる背を見つめる。その肌は白く、髪を上げている所為か普段なら見えない項がよりはっきりと目に映っていた。そして、その肩口には小さくなりつつはあるものの、自分が一度付けた噛み跡が残っている。その項と肩口の白さに、

ゾクリ。カマソッソに得も言わぬ感覚が走った。ペロリと、自分の唇をひと舐めする。向こうが隠していようがそんなこと、カマソッソにはどうでも良かった。音もなく、静かに近付く。そして逃げられないように、その柔い体に腕を巻き付けた。

「ちょっ!?」

焦っているのか、バシャバシャとミズノが藻掻く。水音が激しく跳ねる音が響いた。しかしミズノの力など、カマソッソにとっては赤子も同然だった。なるほど、この者の体はこんなに柔らかいのか。これはこれで癖になりそうだと彼は一人胸中で零す。そして、

――ガブッ。

「いッ!?」

噛み跡に、噛み付いた。痛みに再び暴れようとする体を腕で抑え付ける。そのままじゅるじゅると、血を啜った。

「……ぁっ、いっ!」

血の奥底に潜む甘露な味わい。まるで癖になる味だった。暫く血を吸っていれば、腕の中の存在が大人しくなる。そろそろ頃合かと、カマソッソは口を離し、噛み跡をぺろりとひと舐めした。

「っひゃっ」

甘い、腰が痺れるような声が響く。

「随分と、甘い声で鳴くな。カマソッソに血を吸われるのがそんなに好きか?」

「……ッ、痛い、のは、苦手です」

「クク、そうか。覚えておこう」

耳元に近付けていた唇を離し、覆っていた腕を解放してやる。すると力が抜けてしまったのか、ミズノはへたりとカマソッソの体に寄りかかった。それをおかしそうにクツクツと喉を鳴らしてカマソッソは見る。

「血の味も然ることながら、気に入った。お前にはカマソッソの傍にいることを許そう」

まるで縋るように抱き締めてくる腕に、ミズノは体に力が入らない中、そっと、その掌に手を重ねた。

ぴちゃん、と湯殿に雫が垂れる。これがカマソッソとミズノの、長い、永い、新たな日々の幕開けだった。


23/10/11
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